第7話 観覧車で交わした約束
夜の遊園地は、まるで夢のようにライトアップされていた。銀白の雪が空気の中をゆっくりと舞い、通りの両側に並ぶイルミネーションと交差しながら、光のカーテンを織りなしていく。賑やかな笑い声があちこちから響き、まるでこの世界にあるのは温もりと歓声だけのようだった。
でも、私の心はすでにその賑わいから離れ、ただ目の前の人にだけ向けられていた。
「着いたよ〜」
星奈は私の手を引いて観覧車のゴンドラに入った。手袋越しでも彼女の体温が少しずつ、冷えた私の指先に染みこんでくる。
彼女の触れ方にはもう慣れているはずだったのに、今はどうしてか、心臓の鼓動がどんどん速くなっていくのを止められなかった。
ゴンドラの中は静かで暖かく、外の冷たい風とは対照的だった。透明なガラス窓の外に広がる夜景が少しずつ遠ざかり、観覧車がゆっくりと昇っていくたびに、私たちはまるで、ふたりだけの世界へと運ばれていくようだった。
私は彼女の正面に座って、ポケットの中に隠した小さな箱を握りしめていた。心臓の音が世界のすべての音をかき消してしまいそうなほどだった。
「ふぅ~、外は本当に寒いね」
星奈は手袋を外し、指先に息を吹きかけながら言った。
「でも、遥がいれば寒くなんかないよ」
私は顔を伏せて窓の外を見ているふりをしたけど、本当は心臓の高鳴りをごまかすので精一杯だった。ポケットの中には、リボンできれいに結ばれた小さな箱。自分で折った星の折り紙を一つ一つつなげた、手作りの星のブレスレットが入っている。
「遥、ねえ……」
星奈の声がふわりと響いた。その口調はどこか気持ちよさそうで、甘えるようでもあった。
「ここからの景色、思ってたよりもずっと綺麗だね」
「うん……」
私は小さく頷いたけど、自分の声が少し震えていることに気づいた。
――今なら、渡せるかもしれない。
深呼吸をひとつして、思いきってポケットからその小箱を取り出し、そっと彼女の前へと差し出した。
「星奈、これ……渡したいものがあるの」
彼女は驚いたように私を見た。その瞳には、驚きと期待が同時に光っていた。
手のひらは汗ばんでいて、声は想像していたよりもずっと震えていた。
「これは……私の手作りのクリスマスプレゼント。誕生日プレゼントも、兼ねて……」
星奈は箱を受け取り、そっと私の手に触れた。その瞬間、まるで電流が走ったように身体中が熱くなった。私は彼女の顔を見られずに、俯いたまま言葉を続けた。
「うまくできてるかわからないし、高価なものでもないけど……でも、私にしかあげられないものを、贈りたかったの」
箱が開けられた瞬間、彼女は小さく息をのんだ。中には、銀のチェーンに自分で折った星を繋いだブレスレット。何度も夜更かしして、一つ一つ願いを込めて折った、私なりの心のかたち。
「……星のブレスレット?」
彼女が呟いた。その声はほんの少しだけ、震えていた。
私は小さく頷いた。スカートのすそを握る手に、力がこもる。
「星奈は、いつもどこか遠くにいるように見える。でも本当は、きっとずっと寂しかったんじゃないかって。だから……星がそばにいれば、少しは寂しくないかなって思って……」
静寂がふたりの間に降り積もった。それはまるで雪のように、音もなく。
彼女はもう何も言わないかもしれない、そう思ったそのとき。
星奈はゆっくりと手を伸ばし、そのブレスレットを自分の手首に巻いた。
「……遥、ほんとにバカだよね」
「え……?」
顔を上げると、彼女の瞳はうるんでいて、それでも笑っていた。涙が光を帯びて、彼女の目元をそっと照らしていた。
「すごく嬉しい……本当に、大好き」
そう言って彼女は私の隣にそっと腰を下ろし、まるで私が逃げてしまうのを恐れるように、そばへと寄り添ってきた。
「今まででもらった中で、いちばん大切なプレゼントだよ」
私は呆然と彼女を見つめた。心臓が急に跳ね上がって、この一言がどんな褒め言葉よりも私の心を震わせた。
「……気に入ってくれて、よかった」
私は小さく返事をした。声は夜風に消されそうなくらいにか細くて、でも心の奥では何かがきゅっと締めつけられた。
唇がわずかに開いて――私は本当に、言おうとしていた。でも、なぜだろう。喉が何かで塞がれたように、声が出なかった。「好きだよ」って、心の中では何千回も繰り返していたのに、それが言葉にならない。こんなに近くにいて、気持ちもきっと伝わっているのに……その最後の一歩だけが、どうしても踏み出せない。
私はうつむき、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。顔を上げてしまえば、きっと涙がこぼれてしまう気がして。
観覧車はゆっくりと頂上に近づいていく。夜の闇と灯りの海が視界に広がって、まるで空に浮かんでいるような感覚だった。世界から切り離されたこの空間で、聞こえるのは私たちの心音と呼吸だけ。
星奈の手がそっと伸びてきて、膝の上に置いていた私の手を優しく包んだ。彼女の手のひらは少しひんやりしていたけれど、それ以上に、無視できない温もりを感じた。
「……遥、実はずっと迷ってたの。これを言ってしまったら、もう今までみたいに接することができなくなるんじゃないかって」
彼女の声はわずかに震えていた。それでも、すべての勇気を込めたような言葉だった。
「私は……前から、遥のことが好きだった。でも、ずっと待ってたの。遥が気づいてくれるのを、私を見てくれるのを。だって、もし拒まれたらって思うと、怖かったから」
そう言って、彼女は顔を伏せた。耳たぶがほのかに赤くなっていて、それが夜の光に染まる夕焼けみたいに見えた。
「……でも、もう我慢できない。曖昧なままでいるのは、もう嫌なの」
「プレゼントをくれたとき、分かったの」
彼女はそっと呟いた。その声は風のように優しくて、慎重だった。
「遥は言葉にしなかったけど……ちゃんと伝わってきたよ。――同じ気持ちを、持ってくれてるって」
私は目を見開いて、彼女をじっと見つめた。心臓が今にも飛び出しそうなほど高鳴っていて、いつの間にか頬は熱くなっていた。視線が彼女の涙に濡れた瞳とぶつかりそうになって、慌てて逸らした。
「だから、全部伝えたいの」
彼女は顔を上げて、まっすぐに私を見つめていた。その目には、揺るぎない想いがあった。
「佐藤遥、好きだよ。図書室で初めて、遥がラノベを読んでいたときから、ずっと気になってたの。走る姿も、変わろうとする姿も、世界を受け入れようとするその強さも……全部、私の心から離れなくなったの」
「私は、遥の前ではありのままでいたい。もっと、遥に近づきたいの」
声はどんどん小さくなっていくのに、心からの想いはどんどん強くなっていた。彼女はそっと息を吸い込み、指先に力を込めて、私の手をしっかりと握った。まるで、私がどこかへ行ってしまわないように。
私は信じられない気持ちで彼女を見ていた。言葉は出ず、口だけがわずかに開いていた。頭の中は真っ白で、熱く火照った頬と耳をつんざくほどの心音だけが、私が生きていることを教えてくれていた。
「もう、友達のままじゃいや。毎日、手をつないで、一緒に泣いたり笑ったりしたい。私は、遥だけの星になりたい……ダメかな?」
ようやく私は顔を上げた。そして、彼女の目をしっかりと見つめ返した。
その一瞬で、私が口にできなかったすべての気持ちを、彼女がもう受け止めてくれていたことが分かった。
彼女が手を差し出してくれた。だから、もう私は逃げない。
私は力いっぱい頷いて、涙でにじむ視界の中、小さく口を開いた。
「……うん。私も、好きだよ」
私はそっと手を伸ばし、彼女を抱きしめた。体を預けるように肩に顔を埋めると、彼女も私を強く抱き返してくれた。その腕は、まるでようやく掴んだ何かを決して離さないように、しっかりと私の背中を包み込んだ。彼女の顎がそっと私の頭に寄り添い、耳元に微かに伝わる吐息が、この瞬間のすべてだった。私はただ、時間がここで止まってしまえばいいと願った。
窓の外には星のように瞬く街の灯り。静かな都市が私たちをそっと包み込み、今このゴンドラの中にあるのは、互いの息遣いと心音だけだった。観覧車のてっぺんで、私たちは言葉もなく、ただ静かに抱きしめ合っていた。窓の外には星空と光の海――まるで全世界が、この瞬間を見届けてくれているかのようだった。
「この夜を、忘れないよ。この瞬間を」
私は小さくささやいた。
星奈はブレスレットをつけた手をそっと掲げ、その目に柔らかな光を浮かべながら微笑んだ。
「じゃあ、この約束を、このブレスレットに結びつけようか。これを見るたびに、思い出せるように――これは、私たちの始まりだって」
彼女は視線を下げて、手首にある星のブレスレットをじっと見つめた。銀の鎖が淡い光の中で揺れ、まるで今この瞬間の鼓動を映すようだった。
「この星……遥なんだよね?」
彼女はそうつぶやいた。その声は、風の幻聴かと思うほどに優しくて、柔らかかった。
私は一瞬言葉を失い、ただ見つめ返すことしかできなかった。けれど彼女はふっと微笑み、続けた。
「遥はいつもそばにいてくれる。静かに、優しく、私を照らしてくれる。だからもう、私はひとりじゃないって、思えるようになったの」
彼女はそっとブレスレットの星に触れた。その仕草は、まるでかけがえのない想いを守るように、慎重で、優しかった。
「だから私は、大切にするよ。このブレスレットも……遥の気持ちも、全部」
その言葉に包まれるように、観覧車は静かに下降を始めた。窓の外を流れる街の光が、流星のように過ぎていく。それは夢から現実へと戻るような感覚――でも私は知っていた。あの時間はただの高さではなく、私たちの心が、互いの隣に辿り着いた証だったと。
彼女はまだ私の手を握っていた。私は肩に頭を預けたまま、互いの呼吸と鼓動を感じていた。言葉はなくても、それだけで充分だった。
「……ねえ、降りたら、どこ行こうか?」
私はそっと尋ねた。
星奈は小さく笑って、少し甘えるような声で答えた。
「どこでもいいよ――遥が、私の手を握っていてくれるなら」
私は何も言わず、ただ彼女の手を、ぎゅっと強く握り返した。
窓の外の光が少しずつ近づいてくる。賑やかな声が再び私たちを包み込む。けれど今、この世界はもう、私ひとりだけの風景じゃない。これからはふたりで歩く、私たちの日常になるのだ。




