第1話 私と彼女の初めての会話の後
神崎さんが去ったあとも、私の鼓動はなかなか落ち着かなかった。もう一度小説を手に取り、続きを読もうとしたけれど、まったく集中できない。
「はあ、結局読み終えちゃった……」
私は大きく伸びをしながら、疲れたようにため息をついた。物語はちょうどクライマックスに差し掛かっていて、続きがとても気になるところだったのに、残念ながら次の巻はまだ出ていない。そのため息の中、頭の中にはまたあの場面が浮かんでいた――神崎星奈が笑顔で話しかけてくれた、あの瞬間。
ぼんやりしていると、黒羽が部活を終えて図書室の入り口に現れた。
「遥、帰ろう」
「うん」
私は慌てて立ち上がり、荷物を急いでまとめて一緒に校門へ向かった。
夕暮れの陽射しは柔らかくて温かく、学校の廊下をほのかに金色に染めていた。
「今日の部活、楽しかった?」
私は自分から話を振ってみた。
「超楽しかったよ! 今日はね、スイーツ作りに挑戦してみたんだけど、私って本当に料理の天才かも!」
黒羽の目が輝いていて、子どものように楽しげだった。
「そんなにすごいなら、もっと作って私にも食べさせてよ。いつも宿題写させてあげてるお礼にさ」
私は冗談交じりにそう言った。
「任せてよ!」
黒羽は胸を叩いて豪快に笑った。
「あ、そういえば今日もずっと図書室にいたの?」
私は少しだけためらってから、口を開いた。
「うん……今日は、誰かが話しかけてきてくれたんだ」
「えっ? 誰?」
黒羽が顔を向け、興味津々といった表情を見せた。
私は視線を落とし、声を少し小さくした。
「……神崎さん」
「えっ、ちょっと待って。その神崎って、うちのクラスの神崎星奈のこと?」
黒羽は目を見開き、まるで信じられないといった顔で言った。
「遥、小説の読みすぎで幻覚見てない?」
顔が一気に熱くなり、私は恥ずかしさに耐えきれず彼女を睨んだ。
「ありえないでしょ! 殴るよ?」
「ごめんごめん、冗談だってば!」
黒羽は両手を挙げて降参のポーズを取った。
「でもさ、本当は何を話したの?」
黒羽は私のそばに寄ってきて、完全にゴシップモードの目をしていた。
「別に大した話じゃないよ。私が読んでたラノベに興味があったみたいで……」
私はそっと視線を外しながら、小さな声で答えた。
「わあ、あの女神級の神崎さんがライトノベルに興味あるなんて、信じられないよ!」
黒羽は興奮して飛び上がりそうだった。
「そんな大げさに言わないでよ」
口ではそう言いながらも、心の中ではなぜか嬉しさがこみ上げていた。
そのとき、私たちはすでに駅に着いていた。
「じゃあ、また明日ね」
私は黒羽に手を振り、彼女の背中が遠ざかっていくのを見送りながら、また神崎さんの笑顔が脳裏に浮かんだ。
——どうして彼女は、私に話しかけてくれたんだろう?
家に帰って玄関のドアを開ける。
「ただいま」
キッチンで夕飯の準備をしていた母が顔を出し、優しく言った。
「おかえり、遙」
「お姉ちゃん!」
弟が子犬のように駆け寄ってきて、私の腰に抱きついた。
「すっごく会いたかったよ!」
私は弟の頭を優しく撫でながら、くすっと笑った。
「たった一日会ってなかっただけで、そんなに甘えちゃって」
「だって会いたかったんだもん!」
と、彼は甘えるように私から離れようとしない。
「お父さんはまだ帰ってきてないの?」
「もうすぐよ、仕事終わる頃だし」
と母が笑顔で返す。
「先にお風呂入ってきなさい」
「うん」
バスルームに入り、温かいお湯が全身を包み込む。今日一日の疲れは流れ落ちていったけれど、心に残った疑問と好奇心までは洗い流せなかった。目を閉じると、図書館での神崎さんの笑顔が、まるで目の前にいるかのように鮮明に浮かんできた。
こんな平凡な私が、本当に彼女の目に留まるなんてことあるのかな?
湯気と一緒に湧き上がる疑問。胸の鼓動は不規則に速まり続ける。
――でも、考えたって答えなんて出ないよね。
もしかしたら……次に彼女と会えたときには、少しはわかるかもしれない。
風呂から出ると、家族はすでに食卓についていた。母が時間をかけて用意してくれた夕飯の香りが、部屋中に広がっている。私が椅子に腰を下ろしたちょうどその時、父が玄関を開けて帰ってきた。弟は嬉しそうに駆け寄っていく。
目の前に広がる温かくて、見慣れた光景。胸の奥が、じんわりと落ち着いていく。私はふっと、安らかな笑みを浮かべた。
私の生活はきっとこれからも平凡なままだろう。でも、今日という日は、ほんの少しだけ、特別な色を帯びていた。その小さくて温かな変化は、水面に広がるさざ波のように、そっと私の心に波紋を広げていった。
こうして、平凡と少しの特別が交差する一日が、静かに幕を下ろした。