第3話 屋上でこぼれた本音
午後の陽射しが斜めに学校の屋上に差し込んで、白い柵に揺れる金色の影を落としていた。柔らかな光が空間全体を温かく包み込み、微風がそっと吹き抜けるたびに、私と星奈の足元に落ちた葉がさらさらと音を立てて舞った。私たちは並んでベンチに腰掛け、それぞれの膝の上にお弁当を置いていた。星奈は自分のサンドイッチをそっと整えながら、陽の光に照らされて、垂れた髪が淡く金色にきらめいていた。
「最近……大丈夫だった?」
星奈が先に口を開いた。いつもと変わらない優しい声が、そよ風のように心に触れる。
私は小さくうなずきながら、おにぎりを口に運んだ。胸の奥でじわじわと広がる不安を隠すように。
「うん、でも試験は……やっぱり自信ないかも」
「私と一緒に復習してるんだから、そんなにひどくはならないでしょ?」
彼女は明るく笑った。その笑顔はいつもと同じように輝いていたけれど、私は玲奈の言葉を思い出してしまった——それは、すべてを隠すための表情だと。
私は唇を噛みしめ、深く息を吸い込んだ。震えそうな心を、必死で押さえ込む。
「星奈……聞きたいことがあるの」
その声は風に紛れてしまいそうなほど小さかったけれど、私は勇気を振り絞って言葉にした。
彼女は首を傾け、少し困ったように眉を寄せた。
「どうしたの? 急に真剣な顔して」
私は視線を落とし、箸を弁当箱の上に静かに戻した。いつの間にか手は拳を握りしめていて、指の関節が白くなっていた。
「……小説を書くのをやめたのって、家族のことが原因なの?」
その瞬間、彼女の笑顔がぴたりと止まった。まるで誰かが再生ボタンを押し間違えたように、表情が凍りついた。空気すら止まり、窓から差し込む午後の光も、その一言と共に時間を止めたかのようだった。
「……どうしてそう思ったの?」
俯いた彼女の声はかすれていて、けれど隠しきれない震えが滲んでいた。
「数日前……あなたの妹に会ったの」
私は静かに言った。視線は彼女の、かすかに震える指先に注がれたまま。
「少しだけ話したの。あなたのこと……」
彼女は顔を上げず、ただ手の中のサンドイッチをじっと見つめていた。そして、それをそっと握りしめた。まるで、その感触に心を落ち着かせる答えを探しているかのように。
「……そっか、知っちゃったんだね」
やっと口を開いた彼女の声には、苦笑が混じっていた。
「うん、玲奈、最近学校が休みで帰ってきてたから……まさか君と会うなんてね。うん、これも運命ってやつかな」
彼女は何でもないふうに言ったけれど、その笑顔はこれまで見たどの笑顔よりも、色を失っていた。
私は唇を噛み締め、そっと手を伸ばした。でも、もう少しで彼女に触れそうになったところで、その手を止めた。
「ごめん……悲しませたいわけじゃなかったの」
私は小さく囁いた。
「ただ……ずっと見てきてわかるの。君の笑顔って、どこか無理してる気がするの」
彼女はまつげを伏せたまま、風に髪を揺らしながら、ほとんど独り言のような声でつぶやいた。
「ちゃんと……隠せてると思ってたのに」
その声は細く震えていて、私の胸に小さな棘のように刺さった。
「そうしないと……嫌われちゃうから。家でも、学校でも、どこにいても、みんなが好きなのは『完璧』な私……優しくて、笑顔で、話を聞いて、なんでもできる私」
言葉が途切れた。そして、喉の奥からしぼり出すように、彼女は再び語った。
「子どもの頃から、家族は私を認めてくれなかった。どれだけ頑張っても、『まだ足りない』って。そればっかり。『よくやったね』なんて……一度も言ってくれなかった」
「彼らが求めてたのは、親戚の前で自慢できるような子。学年トップで、ピアノもできて、スピーチもできて、トロフィーを取ってくる……玲奈みたいな子」
「……私なんて、ただの『まだ足りない人』なんだよ」
彼女は膝の上のスカートの裾をぎゅっと掴んだ。その指先に込められた力だけが、今にも溢れ出しそうな感情をかろうじて抑えているようだった。
「小説を書くなんて、あの人たちはまるで価値がないものみたいに言うの。子どもっぽいとか、未熟だとか……『そんな世界に染まるな』ってまで言われたこともある」
「書かせてもらえないの。ただ、成績をもう少し上げろって……あとちょっとでいいからって」
そこまで話したときだった。彼女の目が初めて揺れた。声が震え出し、涙が頬をつたって静かに落ちる。まるで午後の陽差しに照らされた透明な真珠が、ぎゅっと握られた手の甲にそっと落ちたみたいに。
「もう……本当に頑張ってるのに」
「試験前には手が震えるまで夜更かしして勉強して、コンクールの前には誰にも頼らず一人で声が枯れるまで練習して……」
「こんなに、こんなに頑張ってるのに……誰も見てくれなかった……『大丈夫?』って、一度も聞いてくれなかった……」
その「大丈夫?」は、まるで何年も胸の奥に沈んでいた溜息のように、あまりに小さな声だった。
私は彼女を見つめたまま、胸がぎゅっと締めつけられて、呼吸すら苦しくなる。
「どうして……そんなに優しくするの?」
彼女がぽつりと呟く。怯えと、願いが入り混じった声で。
「本当の私を知ったら、きっと……嫌いになるよ。私、全然完璧なんかじゃないから」
私はそっと手を伸ばし、少しだけためらったあと、彼女の指先に触れるようにそっと握った。
「完璧だから……優しくしてるんじゃないよ」
声はほとんど息みたいに小さくて。
「君が……君だから、なんだよ」
彼女の身体がびくりと震える。まるで、その言葉が本当に私の口から出たなんて信じられないかのように。
私は勇気を出して、ぎこちない動きで彼女を抱きしめた。彼女はそれを拒まず、肩に身を預けて、制服の胸元をぎゅっと掴む。身体はまだ小さく震えていて……まるで、やっと見つけた安らげる港に辿り着いたみたいに。
「泣いていいんだよ、星奈。弱くなっても、わがまま言っても……そういうの、普段は誰にも見せられないかもしれないけど……私は、全部いいと思ってる。そんな君も、ちゃんと好きだから」
「一人で泣かせたりなんか、しないよ」
私は囁く。彼女の呼吸が、少しずつ穏やかになっていくのを感じながら。
午後の陽光がフェンスを通り抜けて、私たちの影に淡く揺れる光を落としていた。
彼女は何も言わなかった。もう涙も流さず、けれど額をそっと、少しだけ近づけてきた。
あの瞬間、私は何も言葉にできなかった。ただ彼女を抱きしめたまま、心の中でそっと願っていた――もしも叶うのなら、私はなりたい。彼女がもう偽らずに、心から安心して寄りかかれる、そんな存在に。
たとえ……この気持ちを言葉にする勇気は、まだ持てていなくても。
でも、この一瞬だけは確かに、私は彼女の心の奥へと、一歩ずつ、一滴ずつ、近づけた気がした。誰にも見せない、いちばん素顔の彼女に。




