第2話 彼女には届かない幸せ
カフェの中では、午後の陽射しが窓辺から斜めに差し込み、木製のテーブルの上に柔らかな光を落としていた。その穏やかさに、ほんのりとした肉桂の香りと焼きたての甘い匂いが溶け合い、窓の外でそよぐ街の風景と共に、言葉では言い表せない静謐な空間を形作っていた。
私は窓際の二人掛けの席に座り、両手でホットココアのカップを包み込むように持っていた。熱で指先が少し赤くなっても、それでも胸の奥に渦巻く得体の知れない緊張と不安は消えてくれなかった。
私の向かいに座っている彼女は、星奈によく似た顔立ちをしていた。けれど、星奈のようなまばゆい輝きとは違い、どこか柔らかな光に包まれた静かな湖面のような印象を与える。
髪の毛を指先でくるくると巻きながら、彼女はカップに口をつけ、一口コーヒーを啜る。それから、ようやく沈黙を破るように口を開いた。
「神崎玲奈と申します。星奈の……双子の妹です」
「……佐藤遙です。彼女の……友達です」
私の声は少し硬くなっていた。理由はわからない。ただ、彼女の前では、どうしてもこの緊張を隠せなかった。
玲奈は小さくうなずき、窓の外へと視線を移す。語調は、さっきよりもずっと沈んでいた。
「お姉ちゃん……佐藤さんに、家のことは一度も話してないんじゃないですか?」
私は小さく首を振り、指先で無意識にカップの側面をなぞった。
「いつも笑ってごまかすの。『別に大したことないよ』って。私は……ただ、あまりプライベートな話が苦手なのかなって思ってた」
玲奈は苦笑いを浮かべた。その微笑みには、どこか言葉にならない哀しみと諦めのようなものがにじんでいた。
「彼女にとって、あの家は……逃げ出したい場所だったのかもしれない」
私は息をのんだ。彼女の瞳を見つめたまま、次に続く言葉がどんな痛みを孕んでいるのか、想像するだけで胸が締めつけられた。
「知ってる? お姉ちゃんって、ずっと家の中では『空気』みたいな存在だったの」
「空気……?」
その二文字が頭の中でこだまし、なにか柔らかなものが無理やり引き裂かれたような気がした。
「うちは典型的な医者の家系なの。親戚も皆、医者かそれに準ずる肩書を持ってる。そういう家にとって大事なのは、温かさとか自由じゃない。『完璧』だけ」
その言葉の一つひとつはとても静かで、けれど、それはまるで裁判の判決のように、容赦なく胸に突き刺さる。
「お姉ちゃんは……両親にとって、理想の子どもじゃなかったんです」
胸の奥で何かがドクンと音を立てた。私の脳裏に浮かんだのは、いつも優しく微笑んでいた星奈の顔だった。あんなにも眩しくて、いつだって自信にあふれ、みんなの視線を集める彼女が……まさか、家庭では「期待されていない存在」だったなんて。
「どんなに頑張っても、どんなに成績が良くても、一位じゃなければ見向きもされなかったの。」
玲奈は視線を落とし、その声はほとんど聞き取れないほどに小さかった。
「両親が求めているのは、私だけ。『完璧』っていう基準にぴったり合うのが、私だから。」
私は茫然と彼女を見つめ、胸の奥に鋭い痛みが広がっていくのを感じた。
──そうか。私は、彼女の笑顔をずっと、誤解していたんだ。
それは、幸福に育まれた優しさなんかじゃなかった。長い年月をかけて作り上げた仮面だった。拒絶されないように、「必要とされていない」痛みを二度と味わわないように、彼女はそうやって生きることを選んだのだ。
「お姉ちゃんが笑うのはね……怖いからなんです」
玲奈の声がふいに柔らかくなる。まるで私の胸の内を感じ取ったかのように、あるいは、姉に代わってそっと伝えるように──静かに、優しく。
「お姉ちゃん、ずっと頑張ってきたんですよ。本当に、ずっと。でも……誰もその努力を、ちゃんと見てくれなかった」
鼻の奥がつんと痛んだ。目の縁が熱くなる。脳裏をいくつもの場面が次々とよぎっていく。
あの日。運動会のあと、雨に濡れながら──ひとりでベンチに座っていた彼女。背中に冷たいしずくを浴びながら、それでもじっと動かずに座っていた。どんなに天気が悪くても、彼女は決して泣き言を言わなかった。ただ、静かにそこにいた。
そして、あの時。屋上で小さな声で呟いた彼女の言葉──「うちの親、あたしにはお弁当なんて作ってくれたことないよ」
その声は、風にさらわれてしまいそうなくらいにか細かったのに、なぜか私の心を強く揺さぶった。
彼女は、いつも笑っていた。教室でも、廊下でも、誰の目にも映るその場所で──まるで呼吸するみたいに自然に、当たり前のように。
けれど、その笑顔の裏には、どれだけの孤独と……どれだけの、言葉にできなかった痛みが隠されていたんだろう。
私はそっと目を伏せ、声はささやきにも満たないほど小さかった。
「……だから、彼女だって、きっと……悲しくなることもあるんだよね?」
玲奈は静かにうなずいた。その口調には、すでに全てを知っているような確信が滲んでいた。
「もちろんあるよ。でも、誰にも見せないだけ。お姉ちゃんはね、自分が本当に理解されたり、ちゃんと受け入れられたりするなんて、信じてないの」
その言葉は、まるで細い針のように、私の心にゆっくりと、けれど確実に突き刺さっていった。
玲奈はふいに何かを思い出したように、視線を少しだけ遠くに向け、ぽつりと語り出した。
「ひとつ覚えてることがあるの。私がまだ小学校三年生くらいのとき……その日、お姉ちゃんはテストで二番を取って帰ってきた」
「うちの父は何も言わなかった。ただ食卓でぽつりと、『あとちょっとだったね。次は抜かれないように』って言っただけで、そのまま食事を続けたの」
「私は当時、特に気にもしなかった。ただ、なんとなく変な空気だなって思っただけ」
彼女は少し間を置き、声をさらに低くした。
「夜中にトイレに起きて、廊下を歩いてたとき……お姉ちゃんの部屋のドアがちゃんと閉まってなかったの」
「なんとなく気になって、そっと覗いたんだ。そしたら……お姉ちゃん、机に向かってて、賞状の名前のところを一文字ずつ破ってた」
「泣いてたの」
「声を出して泣くんじゃなくて……ただ静かに座って、肩を震わせながら、一滴一滴、涙を流してた」
「その時の私は、よくわかってなかった。ただ、なんでお姉ちゃんが泣いてるのか不思議だったの。だって二番だったのに。どうして泣くの? どうして、こっそり賞状を破ってたの?」
「でも今ならわかる……あのときのお姉ちゃん、本当に……本当に、つらかったんだよね」
強さって、生まれつきの資質なんかじゃなかったんだ。あれは、仕方なく選ばされた生き方だった。彼女が何も語らないのは、誰も耳を傾けてくれるなんて思っていなかったから。近づかないのは、近づいた末に、拒まれる未来が怖かったから。
私はうつむき、無意識のうちに指先に力がこもった。
「……私は、ずっと彼女の笑顔の外側から、その光を見ていただけだった気がするんです……近づくのが、怖くて」
夕暮れの光が床に落とした影が、私の足元で長く伸びていた。それはまるで、見えないガラスの壁の向こうに彼女を見ていた日々をなぞるようだった。
玲奈はそっと首を振り、その口調に、今度は優しさと理解が溶け込んでいた。
「自分を責めないで、佐藤さん」
彼女の声は低く、けれどカフェの穏やかな音楽の中で、不思議なほど澄んで響いた。
「お姉ちゃんの世界って……簡単に入れるような場所じゃなかったから」
彼女は少しだけ言葉を止めた。まるで、これから語ろうとしている言葉が、本当に言うべきかどうかを慎重に測っているかのようだった。その一瞬、玲奈の目は、ただの妹としてではなく、何かもっと深く、もっと重い祈りを私に託そうとする眼差しに変わった。
「でももし、彼女に『もう一人じゃない』って感じさせてあげられるなら。言葉がなくても、『そばにいる』って伝えてあげられるなら。それだけで、十分なんだと思う」
玲奈は言葉を止め、ゆっくりと顔を上げて私を見つめた。その瞳には、懇願ではない、願いを託すような静かな信頼が宿っていた。
「佐藤さん、お願い。私の代わりに……あの子のことを、ちゃんと見てあげてくれませんか?」
思わず目を見開いた。潤んだ玲奈の目元を見て、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような痛みと切なさに満たされた。必死に涙をこらえようとする彼女の姿が、余計に心を打つ。
「私は海外に留学していて、休みのときにしか帰ってこられないの。お姉ちゃんのこと……一緒にいられる時間が、あまりにも少なすぎるんだよね。」
彼女は視線を落とし、申し訳なさそうに小さく息を吐いた。
「それに……私の立場では……お姉ちゃんを慰めることが、うまくできないのかもしれない。だって、あの両親にあんなふうにされてるのって、少なからず……私の存在も関係してると思うから」
そう言って彼女は、苦笑を浮かべながら、指でコーヒーカップの縁をゆっくりなぞる。
「お姉ちゃん、普段はあんまり身の回りの話とか、しないんだけど……この前の電話でね、珍しく自分から、佐藤さんのことを話してくれたの」
玲奈さんはそっと目を上げ、その瞳には驚きと、どこか温かい想いが滲んでいた。
「だから……きっと、お姉ちゃんの中で、佐藤さんの存在って……すごく特別なんだと思う」
私はすぐには答えられなかった。ただ俯いて、固く握った自分の両手を見つめた。指先には、あの日、堤防の上で彼女がそっと私の小指に絡めてくれた、あのぬくもりが残っている気がした。
あのときの彼女を思い出す。触れたくなる。抱きしめたくなる。守りたくなる。
「……うん、やるよ」
小さく、それでも確かに言葉にした。震える声の中には、揺るぎない決意が込められていた。
それは、約束のためじゃない。誰かに頼まれたからでもない。ただ、心の底から――もう、彼女を一人きりにしたくないと思ったから。
私は顔を上げて、窓の外に広がる柔らかな光を見つめた。
思い出したのは、あの運動会の日。誰もいないベンチに一人座って、冷たい雨に打たれながら、そっと私の肩に寄りかかって涙を流していた彼女だった。あのときの星奈は、もう誰もが憧れる「学園のヒロイン」なんかじゃなかった。ただの一人の女の子だった。傷ついて、不安で、それでも誰かに理解されたいと願う……そんな、か弱くて、愛しい存在だった。
だから今度は、私がその手を取る番だと思った。彼女の世界に踏み込むだけじゃない。これからの、どんな孤独な時間も――一緒に、歩いていきたいと思った。




