第1話 街角での偶然の出会い
高橋先輩に素直な気持ちを伝えたあの日、長いあいだ背負っていた重い荷物をようやく下ろしたような感覚だった。胸の奥を押さえていた痛みもすうっと消えていって、呼吸さえも少し軽くなったように思えた。やっと顔を上げて空を見られる気がして、心の片隅に差し込む光が、暗く覆われていた影をそっと照らしてくれた。
あの日の夕暮れ、空はゆっくりと橙色に染まり、雲はまるで誰かが最後のひと筆を惜しんで天に残した絵のように浮かんでいた。街灯がひとつ、またひとつと灯り始め、まるで夕暮れという舞台に静かな幕が下りていくようだった。微かな冷気を含んだ風が頬を撫で、影が揺れて、世界はまるで溶けた砂糖菓子のようにやさしく、淡く流れはじめていた。
私たちの影は長く引き伸ばされ、古びた街灯の下で肩を並べるように交わっていた。それはまるで、この黄昏にそっと手を引かれて、つないだ手を離せずにいるみたいだった。
私は弟の手を握りながら、家への帰り道を歩いていた。彼は手に持った粘土の作品を嬉しそうに振りながら、まるで大きな発表会を終えたばかりの芸術家のように、顔いっぱいの誇らしさを浮かべていた。
「ねえ見て見て! これ、ぼくが作ったペンギンだよ!」
彼は少し歪んだ、でも愛嬌たっぷりの粘土細工を私の目の前に差し出した。
「帽子もかぶってるんだよ、かわいいでしょ?」
私はその一生懸命かたどられた小さな塊を見つめながら、自然と口元が緩んだ。たとえ少し形が崩れていても、その不完全さの中にある幼さと真っ直ぐさが、何よりも尊かった。
「うん、すごいね~。この子の名前は……『くろちゃん』かな?」
「ちがうよっ!」
弟は大まじめな顔で眉をひそめて、世界の大きな間違いを訂正するように言った。
「この子は……えっと、『もちこ』! だって、今日のお昼におこわ食べたから!」
私は頷きながら、くすっと笑ってしまった。突拍子もない発想と、何の脈絡もないネーミング。だけどその全てが、まるで魔法みたいに、私の中にあったざわめきを静かに癒してくれる気がした。
この子が、こんなふうに笑って隣にいてくれるだけで。私はまた、ちゃんと息ができる自分に戻っていける。
そんな日常は、あまりに透明で、あまりに穏やかで、壊すのがもったいないほどのあたたかさに包まれていた。とても静かで、とてもやさしかった。
家に帰ると、母が冷蔵庫を覗き込みながら、ふと思い出したように淡々と言った。
「牛乳とお醤油、スーパーで買ってきてくれる? それとね、弟のおやつもそろそろなくなるから、何か新しいのもついでに見てきて」
「うん、すぐ行ってくるね」
私は頷いて、部屋に戻って財布を手に取り、靴を履き替えて、玄関の扉をそっと開いた。再び夜の街へ足を踏み出す。夜風が頬を撫で、まるで誰かの手のひらがそっと触れてくるようなやさしさ。街灯に照らされた道路は、静けさと湿気に包まれ、どこか幻想的で朧げだった。空気には木の葉のにおいが混じっていた。
私は空を見上げた。すでに空はすっかり夜に染まり、濃紺の空がベルベットの布のように広がっていた。雲の隙間から見える星の光は、言葉にならない想いのように瞬きながら、低く囁いているようだった。
スーパーに入って間もなく、空模様が急に変わった。数分前までただ重たかった雲が、突然怒ったように、大粒の雨を降らせはじめた。まるで何千もの銀の糸が一斉に空から落ちてくるような激しさで、ガラスや屋根を叩き、水たまりに波紋を描いていた。
幸い、私は出かけるときに折りたたみ傘を持っていたから、ずぶ濡れにならずにすんだ。
レジを済ませたあと、私はスーパーの入口で傘を開いた。傘の上に雨粒が弾ける音がぱちぱちと響き、この街が突然不機嫌になったみたいだった。さあ、早く帰ろう、そう思って歩き出そうとしたその瞬間、目の端にふと映った。
──屋根の下に、ひとりの少女が立っていた。
彼女はまるで、どこかの物語から抜け出してきたようだった。雨と灯りの境界にひとりきりで立ち、傘もなく、手に何も持っていなかった。表情にはかすかな戸惑いが浮かんでいた。
屋根の縁から落ちる雨が、彼女の足元を濡らしていた。でも彼女は、その場を動こうとはしなかった。ただ、雨の向こうをじっと見つめて──誰かを待っているようでもあり、行き先を見失っているようにも見えた。
彼女は、私と同じくらいの年齢に見えた。
──その瞬間、なぜだか胸の奥が、ふっと揺れた。どこからか届いた名前もない引力のような感覚が、心の片隅にそっと浮かんだのだった。
「……この辺に住んでるの?」
私は思い切って声をかけた。
「もしよかったら、家まで傘に入っていかない?」
「えっ? 本当?」
彼女は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにこくりとうなずいて、少し恥ずかしそうに、それでもまっすぐな笑みを浮かべた。
「じゃ、じゃあ……お願いしちゃおうかな」
私たちは並んで雨の中を歩いた。傘の下はそう広くなく、ときおり彼女の足音が水たまりを踏む音が小さく響いた。彼女は多くを語らなかったけれど、時々こちらを見て、照れくさそうに笑った。その空気は不思議と居心地が悪くなくて、見知らぬ者同士にはめずらしい、安らぎのようなものがあった。
曲がり角を過ぎ、見覚えのある細道に差しかかったとき、私はふと足を止めた。
「……ここって……?」
目の前の一軒家を見て、胸の奥がきゅっと締めつけられる。──ここは、星奈の家じゃない?
その子はためらうことなく玄関の鉄門を開けて、振り返ってにっこり笑った。
「着いたよ。ここが私の家」
私はその場に立ち尽くし、驚きながら聞き返した。
「えっ……星奈の、家族なの?」
彼女はぱちぱちと瞬きをして、少し驚いた様子でうなずいた。
「えっ? お姉ちゃんの知り合いだったんだ?」
「うん……同級生で……友達、かな」
私は自然と頷いていたけれど、口調にはどこか緊張がにじんでいた。
──そんなはずない。星奈は、妹がいるなんて一度も言ってなかった。
それなのに、この子の方が、私よりずっと自然に、当たり前みたいに星奈を知っている気がする。
「そっか、佐藤さんか」
彼女はくすっと笑いながら、どこかイタズラっぽい光を目に宿して言った。
「お姉ちゃんから名前は聞いてたよ」
「……私のこと、話してたの?」
「うん。でも詳しくは話してくれなかったけどね。なんとなく雰囲気で、あ、きっとこの子だって思ったの」
彼女は扉を閉めかけたが、ふいにこちらを振り返った。
「そうだ、明日って土曜日でしょ? もし時間あったら、近くのカフェで少しお話ししない? ……お姉ちゃんのことで、ちょっと伝えたいことがあって」
私はうなずいたものの、胸の奥には言葉にならない感情が波打っていた。
──私は、星奈の口から一度も聞いたことがなかった。家族のことも、家のことも。
彼女はいつも、自分の過去や家庭について何も語らなかった。こちらが聞いても、笑ってごまかすだけで──どこか、島のように孤立した人だった。
でも今、その沈黙を破るように現れたこの「妹」は、まるでその孤島の扉を開ける鍵のようだった。
***
翌日、私たちは近所の小さなカフェに入った。店内はレトロであたたかみがあり、壁には数枚のイラストが飾られていた。空気にはシナモンとコーヒーの香りが漂っていて、木のテーブルの上に柔らかな黄色い光が降り注いでいた。どこか懐かしく、静かな空間だった。
私は窓際の席に座り、彼女はその向かいに腰を下ろした。私たちの間には一杯のラテがあり、白い湯気が静かに立ち上っていた。まるでこれから語られる記憶のプロローグのように。
私はカップを両手で包みながら、じんわりと手のひらに伝わる熱を感じていた。でも胸の奥には、少しだけ不安があった。彼女は、私に何を話すつもりなんだろう。そしてそれは、星奈が私に決して語らなかったことなんだろうか。
私は目の前の彼女を見つめ、静かに息を吸い込んだ。
星奈という存在を、少しでも深く知るために──私は、これから語られる「彼女の物語」に、耳を傾けようとしていた。




