第5話 心の向かう先へ
夜も更け、部屋の中には机の横に置かれた温かな黄色のスタンドライトだけが灯っていた。柔らかな光が開いたノートに優しく降り注ぐが、心の中で渦巻く想いの波までは届かない。
ペン先は白い紙の真ん中で止まり、何を書こうとしていたのか、もう思い出せなかった。
浮かぶのは今日の光景ばかり。カフェで甘いラテアートの湯気越しに微笑んでくれた星奈。本屋で肩を寄せ合い、当たり前のように並んで本を読み、時折交わした小さな囁き。スクリーンに映った「待ってる」という声。そして、夕暮れの河川敷で、何も言わずに小指を絡めてきたあの瞬間、まるで無言の誘いのようで、そっと「待ってる」と告げてくれるようだった。
目を閉じれば、あのときの温度も感触もありありと甦る。心臓は乱れて、太鼓のように打ち鳴らされ、制御できない……いったいいつからだったのだろう。
図書館で「もっと知りたい」って言われたあの日から? それとも、学校で何度も私のそばに来てくれたときから? いや、きっともっと前——最初に名前を呼んでくれたとき。最初に笑いかけてくれたとき。あの瞬間から、私の心はすでに連れ去られていたのかもしれない。ただ、ずっと認めようとしなかっただけで。
手のひらに顔を埋める。頬は月明かりに焼かれたみたいに熱く、胸の内をすべて見透かされたようで、身動きが取れなくなる。
……だけど、この想いを口にする勇気はまだない。怖いから。星奈の優しさがただの善意だったらどうしよう。もし勘違いだったら。もしこの「好き」が重すぎて、わがまますぎて、彼女を怯えさせ、遠ざけてしまったら。
「……もう少しだけ。もう少しだけ時間をちょうだい」
小さく呟く。それは自分への約束のようで、同時に逃避でもあった。
でも、本当はもう分かっている。自分の視線がいつも誰を追っているのか。微笑みが誰のために咲くのか。夜更けに思いが静かに降り積もる名前が誰なのか。そして、私は知っている。もう後戻りできないことを。
——私はもう、本当に、星奈を好きになってしまったのだ。
***
(神崎星奈)
スマホの画面はまだ灯ったまま、止まっているのは今日カフェで撮った一枚の写真。あのとき私は遥に近づいて、笑いながら言った。
「せっかくのデートなんだから、一緒に撮ろうよ」
彼女は少し慌てて、緊張のあまり笑い崩れてしまった。写った表情は照れくさそうで、不器用で、でも、目を離せないほど可愛かった。
ただの一枚の写真なのに、何度も何度も見返してしまう。そこから何かを掴み取ろうとするみたいに。
……本当は、もう気づいていた。私はもう、遥のことが好きなんだ。最初は曖昧で、霧に包まれたような「少し気になる」という感覚だった。でも今日、肩を並べて座って、話して、黙って——そのすべての細部が、もう否定できないものになった。
遥が近づくたびに心臓は速くなる。笑いかけられるたびに、その瞬間を心に刻みたくなる。離れていくたびに、無意識に振り返ってしまう。これは友情なんかじゃない。これは「好き」。恐ろしいのに止められない渇望。
この気持ちは、私にはあまりにも未知で、そして大切すぎた。今まで誰かに、こんなふうに近づきたいと思ったことなんてなかった。こんなにも見つめられたい、理解されたいと願ったこともなかった。たとえ完璧じゃなくても。
映画の登場人物みたいに「好きだよ」と、あんなふうに軽やかで揺るぎなく言えたらいいのに。けれど私にはできなかった。怖かった。一歩踏み間違えれば、今の距離感は壊れてしまう。今の心地よい空気も、互いに慣れた近さも、全部ぎこちなくなって、遠ざかってしまうかもしれない。
この関係は……あまりにも大切だった。「完璧」であることを期待され続けてきた私が、初めて本当の感情を置ける場所だったから。彼女は私を楽にしてくれる。何も頑張らなくても、ちゃんと大切にしてくれる。彼女の前では、無理に一番いい自分を演じなくてもいい。誰かの期待に応えなくてもいい。
だから、ほんの少しだけなら近づいてもいいんじゃないか、そう思ってしまう。でも次の瞬間には一歩引く。大切に思うほど、失うのが怖くなるから。だから私は選んだ。何も言わずに、この想いを静かに胸にしまっておくことを。
いつか言葉にできる日が来るかもしれない。もしかしたら……遥が先に少し近づいてくれるのを待つのかもしれない。今の私たちがこのまま続いて、ゆっくりと近づいていけるのなら——この「好き」は、しばらく胸の奥にそっとしまっておこう。
スマホの画面を閉じると、部屋は再び夜に沈んだ。夜は静かで、鼓動の音だけがはっきりと響く。私は言えない想いに身を横たえ、ただ遥のことを思い続ける。
もしもいつか、遥が少しでも近づいてくれるのなら。たとえそれが「おはよう」と囁くだけでも。——きっと分かるはずだ。この胸の高鳴りは独りきりの独白じゃない。彼女と私が一緒に紡いでいる、秘密の物語なんだって。




