第4話 夕暮れの微光がつなぐ絆
夕暮れ時の堤防には、湿り気を含んだ優しい空気が漂っていた。
川面はきらきらと輝き、夕陽が空をあたたかな橙色に染めてゆく。水面に映る金色の光の筋は、まるで跳ねる心のさざ波のようだった。
川沿いの楓の葉はそよ風に揺れ、縁が夕焼けにキスされたかのように赤く染まっている。遠くからは子どもたちのはしゃぐ声と、自転車のベルや石畳を走るタイヤの音が混ざり合い、まるで黄昏の旋律のように柔らかく響いていた。
私と星奈は、川沿いの土手を肩を並べてゆっくり歩いていた。足取りはそっと、まるでこの静かな夕暮れを乱さないように。
水面から吹いてくる風は草の匂いと湿り気を含んでいて、ふわりと私たちの髪を撫でていく。
星奈の長い髪が風に舞い、数本のいたずらっぽい髪が頬にかかる。その瞬間、私はつい横目で彼女を盗み見てしまった。
まるで世界が一度止まったみたいに、視線の先には彼女しかいなかった。
誰も言葉を交わさないまま、私たちはただ黙って歩き続けた。呼吸も、歩幅も、いつの間にか重なっていて、その沈黙の中に不思議なリズムが生まれていた。
時おり、私の肩が星奈の袖にふわりと触れる。そんなささやかな感触だけで、心がきゅっと緊張する。でも……離れたくなかった。
「今日は、どうだった?」
突然、星奈が口を開いた。
その声はまるで耳元をかすめる夕風のようにやわらかくて、夢か現か分からなくなるほどだった。
我に返って彼女を見ると、橙色の夕陽がその顔を優しく照らしていて、横顔の輪郭が溶けてしまいそうなほど穏やかだった。
長いまつげが頬に影を落とし、彼女の目は前を向いたまま、湖のように静かに光っていた。
「……楽しかった。けど、ちょっとだけ、慣れてなくて。」
わたしは小さく呟いた。語尾が震えていたのは、きっとこの気持ちが聞こえてしまうのが怖かったから。
「うん、わたしも。」
彼女は頷いて、穏やかな笑みを浮かべた。
その笑顔には少しだけ不安そうな揺らぎがあって、喉の奥に引っかかっている言葉があるように見えた。
わたしはこっそり彼女を盗み見て、胸がきゅっと締めつけられた。
こんな風に照れたり、不安になったりする彼女は、きっと皆が知っている「完璧な神崎星奈」じゃない。
わたしだけが知っている、もう一人の彼女だった。
わたしたちは黙ったまま歩き続けた。
堤防に伸びたふたつの影が、夕陽に照らされながら並んで長く伸びていく。
それはまるで見えない糸のように、わたしたちの距離を少しずつ近づけていった。
何かを言おうとしたそのとき――
ふいに振り返ったわたしの視線が、彼女の目とぴたりと重なった。
ふたりして息を呑み、そのまま目をそらす。
耳が、ほんのり赤くなっていくのを感じた。
「今日は、一緒にいてくれて……ありがとう。」
星奈がぽつりとそう呟いた。どこか柔らかくて、でも真っ直ぐで──この言葉だけは、私の心にしっかり残るように、そんな風に聞こえた。
「……私も、嬉しかったよ。」
そう小さく返した声は、まるでこの気持ちが誰かに気づかれてしまうのが怖いみたいで。指先でそっと袖を掴んで、胸の高鳴りを隠した。
「たまに思うんだ。ただこうやって並んで歩けるだけで、それだけで贅沢なんじゃないかなって。」
星奈は空を見上げながら、ふわりとした声で続けた。彼女の視線の先には、淡い橙色に染まった雲が静かに浮かんでいた。
私は言葉を失った。簡単な一言なのに、そこには彼女の脆さと、言葉にしづらい想いが滲んでいて。
「……私も、そう思うよ。」
精一杯の声で返した。大きくない声だけど、それはたしかに、今の私の本心だった。
その時だった。彼女の手が、そっと近づいてきた。
温かな指先が、私の小指にやさしく触れる。何の前触れもなく、何の言葉もなく──でも、確かに伝わってくる気持ちがそこにあった。
私は息をするのを忘れてしまいそうになった。心臓が不規則に跳ねて、何かに優しく、でも強く、打ち抜かれたような気がした。
「……いい?」
私は星奈を見つめた。そこには、少しの不安と、少しの期待が入り混じったまっすぐなまなざしがあって——私はそっと、その指先を握り返し、静かにうなずいた。
「うん。」
声は小さかったけれど、ちゃんと届いてほしくて。
「私、嬉しいよ。……相手が、星奈で。」
星奈の瞳がふわりと輝いた。そして次の瞬間、彼女は軽やかに微笑んだ。それはまるで、胸に抱えていた何かをやっと手放せたような、そんな安堵の笑みだった。
あの日の夕焼けは、いつもより長く空に残っていた。夜の帳はなかなか降りてこず、空の雲はやわらかな橙と桃色に染まり、まるで一枚の水彩画のようだった。
それは、私の胸の奥で言葉にならなかった想いが、そっと色づいていくような光景だった。
私は深く息を吸い込んで、何かを伝えたくて口を開こうとした。——けれど、そのときにはもう、言葉は必要なかった。
そのあと、私たちは何も話さずに、ただ静かに並んで歩いた。
歩幅が自然に揃って、鼓動までもが同じリズムで重なっていた。
この夕暮れの道を一緒に歩き終えたとき、私たちの距離は――いつの間にか、そっと、静かに縮まっていた気がする。
ただの何気ない散歩だったはずなのに、まるで言葉のいらない、静かで確かな告白みたいだった。