第3話 ふたりで観たのは、映画だけじゃなかった
陽光は柔らかく雲間から降り注ぎ、街角を撫でる風は冬の冷たさにそっとフィルターをかけるように和らげていた。これが、私たちのデートの最後の目的地――映画館だった。
冷房のきいた涼しいロビーに入ると、甘いポップコーンの香りが漂い、壁に貼られた映画ポスターはネオンに照らされて鮮やかに映える。私は少し緊張して俯いていたけれど、神崎さんは落ち着いた様子で私の隣を歩いていた。まるで、もう当然のように。
「この映画、最近すごく人気なんだよ。ラノベが原作なんだって」
神崎さんは手にしたドリンクを揺らしながら、軽やかな声で映画のチケットを私に差し出してくる。
視線を落として受け取ったチケットの半券。タイトルを見た瞬間、心臓が一拍止まった――『君が愛してるって言うのを待ってる』
二人の少女の曖昧で優しい想いを描いた百合映画。その題名を見ただけで、頬が熱を帯びる。
「え……この題材、わざと選んだの?」
小さな声で問いかける。視線は思わず逸れてしまう。
神崎さんは小さく首を傾げ、唇の端にいたずらっぽい笑みを浮かべた。わざと私の耳元に顔を寄せ、柔らかくも挑発的な声で囁く。
「どうしたの? 照れてるの?」
「ち、違うよ……ただ……こういう映画を、二人で観るのって、なんだか変な感じがして……」
声はどんどん小さくなっていき、耳の先まで熱を帯びていく。
神崎さんは答えず、くすっと笑って私の手を取った。指先が絡む感触は温かくて確かだった。
「じゃあ、一緒に変になろっか」
そう言って前に歩き出し、握った手をゆるやかに揺らす。そのたびに、私の鼓動まで揺さぶられるようだった。
映画館の灯りがゆっくりと落ち、周囲は静寂に沈んでいく。スクリーンが明るくなり、映し出されたのは見慣れた学園の風景――教室、廊下、図書館。少女たちの純粋で繊細なやり取りに、私は自然と神崎さんとの時間を重ねてしまう。
やがて映画の中で、二人の主人公が軒下で雨宿りをしながら、ふと手を取り合う。その瞬間、私の指先も同じように優しく握られた。温かく、そして揺るぎないその力は、スクリーンの外で私と運命を重ねているみたいだった。
胸が一気に高鳴る。思わず横を向くと、神崎さんはまだスクリーンを見つめていた。けれど頬にはうっすらと紅が差している。肩がそっと私に寄り添い、髪が頬をかすめる。淡い香りに包まれ、この鼓動が映画のせいなのか、それとも目の前の現実のせいなのか、もう分からなかった。
「……このシーン、すごく感動するよね」
神崎さんが不意に口を開いた。羽のように柔らかな声で。
私は少し首を傾けて、その瞳と目が合う。星のように輝く眼差しが、かすかな真摯さを帯びてこちらを見つめていて、何かを待っているみたいに思えた。
慌てて小さく頷く。
「うん……感動する」
神崎さんはそれ以上何も言わず、ただ穏やかに微笑んで、もう少しだけ私に寄り添ってきた。
映画の結末はオープンエンドだった。二人の主人公は抱きしめることも、キスを交わすこともなく、ただ静かに見つめ合い、銀幕の光の中で小さく囁いた。
——「待ってるから」
その声とともに映像はゆっくりと淡くなり、スクリーンは闇に沈む。エンドロールが静かに流れ始め、場内は驚くほどの静けさに包まれていた。ただ一言、その台詞だけが、私の頭の中で何度も何度も反響し続ける。
呆然と座席に身を沈めながら、私は思わず隣に目を向けてしまう。神崎さんはそこにいて、肩が触れ合うほど近く、かすかな吐息の熱が伝わってくる。
——待ってるから。
本来は映画の登場人物の言葉なのに、どうしてだろう。私にはそれが、彼女自身の声で告げられたように思えてしまう。あの特有のイントネーションと、柔らかな優しさまで含んで。
映画館を出ると、空は洗い流されたように澄み渡り、夕陽が雲間から斜めに射し込み、黄橙色の光が地面を照らしていた。影までも長く引き延ばされ、歩道は夕焼けに優しい色を染められている。空気にはまだ映画の余韻が漂い、まるで物語の感情がそのまま続いているかのようだった。
私たちは並んで歩いていた。手にしたドリンクはまだ飲み切れておらず、氷が溶けてカップの表面に小さな水滴が浮かんでいる。私はストローを握る自分の手を見下ろしながら、ちらりと横目で彼女を盗み見る。
神崎さんの長い髪は風にそっと揺れ、夕陽の光が頬に降り注ぎ、睫毛の曲線を美しく浮かび上がらせる。片手をコートのポケットに入れ、もう一方の手でドリンクを持ちながら、悠然と歩くその姿は、黄昏の風景に溶け込んでいた。言葉はなく、ただ時折前を見つめ、そしてふと私に視線を落とす。そのたびに、私は陽射しに触れたみたいに慌てて目を逸らし、別のものを見ているふりをしてしまう。
……それでも、やっぱり目で追わずにはいられない。ただ並んで歩いているだけなのに、鼓動はさっき映画のクライマックスよりも早く跳ねていた。
「どうだった?」
風のように柔らかな声が、不意に届く。
私は俯いて、地面に重なり合う二人の影を見つめた。頭の中には、映画の最後のシーンがよみがえる。自然と微笑みがこぼれる。返事はしなかったけれど、心の中でそっと願っていた。
——もし彼女が待ってくれるのなら、私もきっと勇気を出して、彼女へと歩いていく。
今の私は、まだこの想いを言葉にできない。けれど、こうして静かで親しい距離にいられるだけで、十分に安心できる。きっとそう遠くない未来、私はあの言葉を見つけるだろう。
——私たち二人だけの「好き」という言葉を。




