第4話 彼女の世界
もし私の世界を一言で表すとしたら——それは、虚構。
表面だけを見れば、私の世界は誰もが憧れるようなものに映るだろう。明るくて広い別荘、高級な家具、そして途切れることのない称賛の言葉たち。けれど、そのきらびやかな外見の裏側には、息が詰まるような孤独がひっそりと広がっている。
地下鉄に揺られながら四十五分、ようやく自宅にたどり着いた。
玄関の扉を開けると、冷えた空気が私を迎える。誰もいないリビング。食卓の上には整然とした夕食が並んでいて、まるで「ここにはかつて誰かがいた」とでも語りかけてくるようだった。
「……まあ、あとで食べようかな」
小さく呟いて、苦笑する。
どうせ食べても食べなくても、気にかける人なんていないんだから。
他人から見れば、私は恵まれているのかもしれない。生まれながらにして全てを持っている、そう思われている。でも、本当に誰にも気にかけてもらえないのなら、そんな「持っている」なんて状態が、「何も持っていない」のと何が違うの?
小さい頃から、両親はいつも仕事に追われていた。あるいは、妹の世話に手いっぱいだった。彼らが関心を向けるのは、私の試験の点数や順位だけ。私の気持ちなんて、一度も気にかけてくれたことはなかった。
「星奈、成績さえ良ければ、将来はもっと明るくなるのよ」
「今回、また成績下がったの?」
そのどれもに、「最近、元気にしてる?」なんて言葉はなかった。
今でもはっきり覚えてる。前回の成績が発表されたとき、母はがっかりしたように顔を背けて、父は眉間にしわを寄せながら言った——
「俺たちがどれだけ頑張ってると思ってる? 全部、お前のためだろ」
あの瞬間、私は悟った。彼らの中にいる「私」は、「神崎星奈」なんかじゃなくて、「理想的な優等生」の姿にすぎないんだって。
だったら、どうして私がその期待に応えなきゃいけないの?
部屋の扉を開けて、バッグを無造作に机の上へ投げ出す。パジャマに着替え、ベッドに深く身を沈める。やわらかいマットレスが、疲れた身体をそっと包み込んだ。
「……今日はほんと、疲れたな」
人前での笑顔、適度なユーモア、気の利いた優しい言葉——そういったものは、もう私にとって「保護色」みたいなもの。そうやって器用に取り繕うことで、私は「完璧な神崎星奈」として周囲から求められる存在になった。
でも、その仮面の下で、私はもうずっと、うんざりしていた。
夏休み明け初日。教室のざわめきが、いつも以上に耳に響いて、頭が痛くなる。教室に足を踏み入れた瞬間、すぐに生徒たちが私の周りを取り囲んだ。
「星奈、夏休みはどこか行った?」
「今回の試験、どうだった?」
「先輩〜! 次の部活、また手伝ってもらえませんか?」
私はいつも通り、誰に対しても笑顔で応じていた。放課後、先生から急に図書室の手伝いを頼まれて——やっとその煩わしい応対から解放された。
まさか、そんな些細な出来事がきっかけで——佐藤さんと出会うことになるなんて。
彼女は他の誰とも違っていた。図書室の片隅で、夕陽に優しく包まれるように、静かに本の世界に沈み込んでいた。その姿が、ふと目に留まったとき——私は思った。
あの瞬間、彼女がとても眩しく見えた。
正直に言うと、私は前から彼女の存在に気づいていた。いつも窓際の席でひとり、本を読んでいる姿。誰かと話すことも少なくて、まるで空気のように目立たない。近づきがたい子なんだろうなって、ずっと思ってた。
けれど、いざ話してみると——驚くほど、自然で、心地よかった。
他の誰かと話すときに感じるような、気を遣って合わせなければならない重圧が、彼女の前ではまったくなかった。
どうして、だろう。そんな疑問が、ふと心に浮かぶ。
私はこれまで、学校でも家でも、いろんな場面で仮面を被ってきた。でも——彼女は違う。
彼女の沈黙は、わざと距離を取っているわけじゃなくて、本当に人付き合いが苦手なだけ。彼女の表情には、嘘や作り笑いなんてなくて……むしろ、そんな彼女に惹かれてしまう。もっと知りたいって、自然に思ってしまった。
「……図書室に行ってよかったな。また、話せるといいな」
気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。胸の奥に、じんわりとした温かさと、少しの期待が芽生えていた。
そのとき、スマホが震えた。クラスの女子たちからのメッセージだった。また週末の集まりの誘い。
私は画面を見つめながら、少しのあいだ黙っていた。そして、そっとため息をつく。
「……行っても行かなくても、同じだよね」
表面だけの付き合い。どれだけ頑張ったって、誰も本当の私に近づこうとはしてくれない。
スマホを閉じて、ゆっくりとベッドに体を沈めた。ふかふかの布団に包まれながら目を閉じると、あの静かな図書室での光景が浮かんできた。
たぶん、明日もまた、いつも通りの、嘘ばかりの日々。
——でも、もしかしたら、少しだけ違うかもしれない。そんなことを考えたのは、生まれて初めてだった。