第7話 逃避と近づく距離
高橋先輩に告白されてから、私の心はずっと波立ったまま平穏を取り戻せなかった。あんなに優しく、あんなに真摯な声なのに、私の心には何の波紋も広がらなかった。頭の中に何度も浮かんでくるのは、神崎さんの顔だった。あの笑顔、あの声、あの私を見つめる瞳……どれも鮮やかで、まるで一度も心の中から消えたことがないみたいに。
何も分かっていないはずなのに、このはっきりしていく気持ちに追われて、息が詰まりそうになる。だから、私は逃げ始めた。毎日、学校では神崎さんがよくいる場所をわざと避けて、昼休みは部活があるふりをして過ごした。嫌いだからじゃない。ただ、その「自分」とどう向き合えばいいのか分からなかったから。
そして、その日――廊下の角を急いで曲がった時、私は神崎さんと正面からぶつかってしまった。
「……あっ、佐藤さん!」
驚いたように目を見開いた神崎さん。その声はまるで鍵のように、私が無理やり閉ざしていた心を一瞬で解いてしまった。呼吸が止まり、心臓を誰かに強く掴まれたみたいに苦しくなる。視線が交わった瞬間、体の動かし方すら忘れてしまいそうだった。
「……!」
私は背を向けて、逃げ出した。逃げる。会いたくないからじゃない。もう隠しきれなくなっていく、この気持ちが怖かったから。
「ちょっ、待って――佐藤さん!」
後ろから追いかけてくる足音。空っぽの廊下に響き渡って、やけに鮮明に聞こえる。
「廊下を走るのは禁止だぞ!」
階段の方から先生の叱責が飛んできて、足音がどんどん近づいてくる。
焦った私は、思わず足をもつれさせた。
「こっち!」
神崎さんが突然、私の手首を掴んだ。その温かさが肌に伝わり、一瞬、動きが止まる。次の瞬間、彼女は私を隣の空き教室に引き込み、一気にロッカーの中へと身を隠した。
「えっ、ここは……?」
状況を理解する前に、彼女はすでに扉を閉めていた。
ロッカーの中は狭くて、ほとんど身体を寄せ合うしかなかった。暗闇の中で聞こえるのは、お互いの呼吸と心臓の音だけ。神崎さんの顔はすぐ目の前にあって、頬にかかる温かな吐息がくすぐったい。肩にかかった彼女の腕からは、淡い香りと体温が伝わってくる。
――心臓の鼓動が、どんどん速くなる。
「……ねえ、この数日間、私のこと避けてるでしょ?」
神崎さんの声は低くて、いつもの明るさではなく、不安を含んでいた。
私は視線を逸らし、俯いた。
「……違う」
「嘘つき」
小さくそう言った。声は優しいのに、その確信は揺るがなかった。
「私を見たらすぐ背を向けて行っちゃうでしょ?」
「……どうやって向き合えばいいか、分からなかっただけ」
ようやく言葉を絞り出す。声はほとんど消えてしまいそうに小さい。
「頭の中がぐちゃぐちゃで……どうすればいいのか分からなかったの……」
彼女は少しの間黙り込んだ。そして、勇気を振り絞るように問いかけてきた。
「……私、何か悪いことしたの?」
その声はこれまでにないほど脆かった。
胸がきゅっと締め付けられて、慌てて首を振る。
「違う……本当に違うの……」
手を伸ばして慰めたい。だけど、その手は宙に止まったまま。これ以上近づいたら、もう二度と離れられなくなりそうで。
「……高橋先輩と一緒にいるところ、見ちゃったんだ」
神崎さんがふいに口を開いた。
心臓がぎゅっと縮み上がる。
「すごく楽しそうに笑ってた」
彼女の声は風みたいに軽やかなのに、不思議と逃げ場を与えてくれない力を帯びていた。
「あの瞬間、すごく苦しかったんだ」
「神崎さん……」
その名前をかすかに呟いた。少しずつ伏せられていく彼女の瞳を、どうにか引き止めたくて。
「私、変だよね?」
自嘲するように笑った。
「私たち、ただの友達なのに……こんな些細なことで苦しくなっちゃうなんて」
その瞬間、私は気づいてしまった。苦しいのは、私だけじゃなかったんだ。神崎さんも同じだった。彼女も怖がっていて、彼女も迷っていた。
私たちは不確かな感情に絡め取られて、互いに引き寄せられながらも、誰一人として先に言葉を紡ぐ勇気を持てずにいたのだ。
「……私も、どうすればいいのか分からない」
小さくそう呟いた。声は震えていて、自分の心を試すようだった。
「でも……もし相手があなただったら……失いたくない」
彼女は一瞬きょとんとして、それからふっと笑った。その笑顔は、暗闇の中で再び灯った灯火みたいに、私の心に積もっていた陰りを少しずつ照らしていく。
「私もだよ」
ロッカーの外で、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。現実に引き戻される音だった。
神崎さんはふいに少しだけ近づいて、小さな声で囁いた。
「次は……もう逃げないで、いい?」
私は深く息を吸い込み、こくりと頷く。
「……うん」
「じゃあ……これからは『遥』って呼んでもいい?」
思わず目を見開いて、顔が一瞬で熱くなる。
「……いいよ」
「やった。じゃあ、遥も『星奈』って呼んでね」
神崎さんは得意げな子供みたいに笑った。その瞳には、あの懐かしい光が確かに宿っていた。
「そうだ、もう決めてあるんだ。遥が試合に勝った時のご褒美」
「えっ……?」
「それはね——今度の休みに、デートしよう」
言葉を失った私は、顔が真っ赤になって、最後には俯きながら小さな声で答えるしかなかった。
「……うん」
窓の外から差し込む陽射しが、ブラインドの隙間を抜けて斑に床へ落ちる。
その短い時間と沈黙は、戸惑いとときめきを包み込んだ贈り物のように、そっと二人の間に置かれていた。まだこの気持ちの正体は分からない。けれど、この瞬間から——私は彼女と一緒に、少しずつ確かめていきたいと思った。私たちの間にある、かけがえのないこの想いを。




