第1話 サッカー部への再出発
放課後の校庭は相変わらず賑やかで、夕陽の余韻が柔らかな橙紅色に染め上げていた。そよ風がそっと吹き抜け、草の香りと土の匂いが混ざり合って漂ってくる。サッカー部へ向かう途中、私は歩を進めるごとに足取りが重くなり、胸の中の不安もそれに比例して膨らんでいった。
――どうして私、引き受けちゃったんだろう。
神崎さんは先輩が私に興味を持っているって言っていたけど、もし実際の私のプレーを見たら、まだ同じように思ってくれるだろうか。もう長いこと本格的にサッカーをやっていないし、喘息のせいで出場できる時間も限られている。そんな私が本当に選手として通用するのかな。それとも、入ったところでチームの足を引っ張るだけなんじゃ……。
「ふぅ……」
深く息を吸い込んで顔を上げると、いつの間にかサッカー部の門の前に立っていた。今ならまだ引き返せるだろうか。
そんなことを考えていると、不意に鉄の門が開き、ショートカットでユニフォーム姿の女の子が立っていた。腰に手を当て、爽やかな笑顔を見せる。
「おっ! 君が星奈さんに紹介された新メンバーだね?」
彼女は躊躇なく手を差し出した。
「私はキャプテンの高橋逸美。サッカー部へようこそ!」
「あ……はい! 佐藤遙です、よろしくお願いします!」
慌てて手を握り返すと、声には少し緊張が滲んだ。
高橋先輩の手のひらにはスポーツ選手特有のざらつきがあり、握る力はしっかりとしていて、どこか頼もしさを感じさせる。
「そんなにかしこまらなくていいよ。さ、部の中を案内するね!」
高橋先輩は明るく笑い、そのまま私をグラウンドへと連れて行った。
サッカー場は陽射しがまぶしく、選手たちは練習の真っ最中。駆け回るたびに砂埃が舞い上がり、耳にはコーチの大きな指示の声が届く。仲間たちは汗を光らせ、みんな生き生きとしていた。
「あっちが更衣室で、こっちが用具室ね」
高橋先輩は歩きながら説明する。
「練習は週三回、放課後からだけど……大丈夫そう?」
「うん……頑張ります」
私は小さくうなずいた。
「前はどこのポジションやってたの?」
「主にフォワードですけど、中盤も状況に応じてやってました」
「へぇ? それは結構やるね」
彼女は興味深そうに眉を上げた。
「いえ……そんな大したことは」
思わず頭をかき。
「それに、私小さい頃から喘息持ちで……そこまで重くはないんですけど、長時間激しい運動ができなくて。だから試合をフルで出るのは難しいかも……それでも大丈夫ですか?」
私は不安を抱えながら彼女を見つめ、心臓がわずかに早鐘を打つ。相手の口から失望やためらいの言葉が出てくるのが、何よりも怖かった。
しかし、高橋先輩はまるで気にも留めないように笑った。
「そんなの大したことじゃないよ! うちのチームにも体力の関係で途中交代になる子は何人もいるし、それってすごく普通なこと。大事なのは、サッカーを好きかどうか、練習を頑張ろうって思えるかどうかであって、フルで試合を走りきれるかどうかじゃないんだ」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が一拍抜け落ちたような感覚がした。こんな言葉を耳にするのは、生まれて初めてだった。
これまでの私は、体力や実力のことでずっと劣等感を抱えていて、自分なんかピッチに立つ資格がないと思い込んでいた。けれど、高橋先輩の口ぶりはあまりにも自然で、それがまるで気にするようなことではなく、ごく当たり前のことのように思えてしまった。
「……ありがとうございます、分かりました!」
私は真剣にうなずいた。
「よし!」
高橋先輩は爽やかに笑い、軽く私の肩を叩く。その確かな力加減から、彼女の信頼と期待が伝わってくる。
ようやく肩の力が抜けかけたそのとき、彼女はふいに話題を切り替え、少し興味深そうな口調で問いかけてきた。
「ところで、佐藤さんって星奈さんと仲がいいの?」
「え?」
思わず固まり、まさか神崎さんの話になるとは思わなかった。
微風がピッチを抜け、草と土の混ざった香りを運んでくる。遠くからは部員たちの掛け声が途切れなく響いていたが、その一瞬、私の意識は完全に先輩の質問に奪われた。
「彼女が自分から誰かを部に推薦するなんて、私初めて聞いたよ」
高橋先輩は意味ありげな笑みを浮かべ、腕を組むと軽やかな声で続けた。
「知ってるでしょ? あの子、普段はあまり自分のことを話さないし、私とも仲はいいけど、誰かのために口添えするなんてほとんどないんだ。なのに今回は、わざわざ私のところまで来て、佐藤さんをサッカー部に推薦してくれたんだよ」
「……わざわざ言ってくれたんですか?」
思わず目を見開き、胸が一拍早く脈を打つ。
頭の中に、神崎さんのいつもの姿がよぎる——みんなの前ではいつも完璧な笑みを浮かべ、立ち居振る舞いも優雅で隙のない彼女。彼女の周りにはいつも多くの友人が集まっているけれど、その関係はどれも表面的で、本当の意味で心の奥に触れられる人はいない。なのに、そんな彼女が、私のためにわざわざサッカー部への加入を推薦してくれた……?
「どうやら、佐藤さんは彼女にとって特別な存在みたいだね」
高橋先輩は片目をつむり、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「い、いえ! そんなことは……!」
慌てて手を振り、自然と早口になってしまう。それでも頬が熱を帯び、耳の奥まで火照っていくのが分かった。
「ははっ、そんなに慌てる?」
高橋先輩は面白そうに私を見つめ、その瞳にはどこかからかうような色が宿っていた。
「ち、ちょっと驚いただけです……あの人ってすごく人気者だから、仲のいい友達も多いだろうし、まさか私のためにそんなことをしてくれるなんて……」
できるだけ平静を装って言葉を並べる。
「まあ、それは本人にしか分からないけどね」
高橋先輩は肩をすくめ、声を少し柔らかくした。
「でもね、私、本当に初めて見たんだ。あの子が誰かをそこまで気にかけてるところ」
そう言って先輩は私の肩をもう一度軽く叩き、爽やかな笑顔を見せた。
「よし、からかうのはこのくらいにしよう! これからは君もサッカー部の一員なんだから、少しずつ慣れていけばいいさ」
「……はい!」
私は強くうなずいたが、胸の奥はまるで風に舞う落ち葉のように、ふわふわと揺れて落ち着かなかった。
この不意の会話は、私の心の奥に小さな石を落とし、その波紋は静かに広がってやがて思考のすべてを覆っていった。
神崎さん、どうしてわざわざ私のためにこんなことをしてくれたの……?
夕日がゆっくりと沈み、橙紅色の光がグラウンドに降り注ぎ、そこにいる全員の影を長く伸ばしていく。この場所に立った瞬間、ふと気づいた――私は本当に、再びサッカーの世界へ戻ってきたのだと。
過去の経験が、再びピッチに立つことを怖れさせていた。でも今、このチームが作り出す空気は、これまで感じたことのない安心感を私に与えてくれる。ここは、私がかつていた場所とは違う。それなのに、不思議と温かい。「大丈夫、たとえ最後まで走りきれなくても、それで君を否定する人はいないよ」と、優しくそう言ってくれているような気がした。
もしかしたら、これこそが神崎さんが私をここへ導こうとしてくれた理由なのかもしれない。
「明日からは本格的な練習だけど、挑戦する準備はできてる?」
高橋先輩が笑顔で問いかける。
「はい!」
思わず口元が緩み、笑みがこぼれる。
「全力で頑張ります!」
このグラウンドで、私は久しぶりに胸を高鳴らせ、自分が本当にやりたいことを見つけた。そしてそのきっかけをくれたのは、あの人――神崎さんが背中を押してくれたからこそ、私は再び勇気を持って、この愛した場所へ帰ってこられたのだ。




