第6話 開かれるのを待つ心の扉
運動会の日に、雨の中で一人座って静かに涙をこぼす神崎さんを見てから、もう一週間が経った。その間、私がどれだけ問いかけても、彼女は決して詳しいことを話そうとはしなかった。きっと、口にできないような悲しい出来事があったのだろう。でも、彼女は私に対して沈黙を選んだ。
――もしかしたら、私は彼女にとって、まだ心を開くほどの存在じゃないのかもしれない。
学校では、相変わらず完璧な神崎星奈でいる。明るい笑顔を浮かべ、友達と軽やかに会話を交わし、少しの隙も見せない。あの日、冷たいベンチで肩を濡らしながら、声もなく泣いていた彼女は、まるで私が見た夢の中の人物だったかのようだ。
けれど、それは夢じゃない。
神崎さんはいつも、私の前で強がる。本当はもっと知りたいのに、悩みを打ち明けられる相手になりたいのに、肝心な瞬間になると、必ず私をその外側に置く。私はお節介すぎると思われているのだろうか。
もともと私たちは別の世界の人間で、彼女が経験してきたことを私はきっと理解しきれない。だからこそ、話したところで何も変わらない、そう思っているのかもしれない……。
そう考えて、私はわずかにうつむきながら廊下を歩き、頭の中でそのことばかりを繰り返し考えていた。そんなとき、耳に届いたのは聞き慣れた声だった。
「一緒にお昼どう?」
神崎さんが声をかけてきた。いつも通りの軽やかな口調で、顔にはお手本のような笑みが浮かんでいる。
私は一瞬きょとんとしてから、こくりと頷いた。
「うん、いいよ」
「じゃあ、あとでいつもの場所で」
彼女はふわりと笑みを深め、くるりと背を向けた。
いつもの場所――それは学校の屋上だ。
***
屋上の空気は教室よりずっと澄んでいて、そよ風が神崎さんの長い髪を揺らし、昼下がりの陽射しも少しやわらいで感じられた。けれど今日の私たちは、どこかぎこちない。運動会のあと、なぜだかわからないけれど、目に見えない壁のようなものが間にできてしまった気がする。普段の私たちは、何も話さなくても居心地が悪くなることはないのに、今日の沈黙には言葉にできない距離感があった。
「この数日、何か特別なことなかった?」
私は沈黙を破り、何気ないふうを装って尋ねた。
「別に、いつも通りだよ」
その声は穏やかだったけれど、あまりにもそっけない返事に聞こえた。
「……ごめん、もしかして私のこと、怒ってる?」
探るように問いかける。
神崎さんはわずかに目を丸くし、不思議そうな表情を浮かべた。
「怒ってないよ。どうして?」
「だって……私、この前ちょっとお節介すぎたかなって」
私は視線を落とし、不安げに言った。
「運動会の日、ベンチに座ってすごく悲しそうにしてるのを見て……本当に心配だったから、何があったのか知りたかった。でも、そのあと何度も聞いちゃって、うざかったかなって」
少し驚いたようにしてから、静かに首を振った。
「ううん、ただあのときは、本当に話す気分じゃなかっただけ」
「そうなの? よかった……」
私はほっと息をつき。
「だって、なんだかあまり話したくなさそうだったから」
「……嫌なわけじゃなくて、ただどう切り出せばいいのかわからないだけ」
神崎さんの声はとても小さく、わずかなためらいを含んでいた。
「だって、今まで誰かに話したことなんてなかったから」
その口調は淡々としていて、まるで大したことじゃない事実を述べているだけのようだった。けれど私の耳には、その言葉が胸を締めつけるように響いた。
「私はてっきり……私のことが嫌いだから、何も話してくれないのかと思ってた」
私は小さな声でそう言い、口元にわずかな自嘲の笑みを浮かべた。
神崎さんは一瞬きょとんとしたあと、ためらいなく答えた。
「そんなことない」
「じゃあ……学校であんなに人望があるんだから、話せる相手はいっぱいいるんじゃない?」
私は彼女の考えを理解しようとして尋ねた。
「そういう人には話さないの?」
彼女は少し黙ってから、静かに言った。
「……いないと思う」
「……え?」
「たしかに、みんな私のことを好いてくれるし、とても親切。でも……」
神崎さんはそっと視線を弁当箱に落とした。
「私は、その関係に本当の感情を込めてないの」
「どうして?」
私は思わず問い返す。
「そうする理由があるの?」
「……今の形が、私にとって一番生きやすいから」
彼女は淡々と言った。
私は彼女の横顔を見つめ、胸が少し詰まるのを感じた。
「でも、それってつらくない?」
神崎さんは一瞬だけ目を見開き、それからふっと笑った。その笑みには、どこか軽く受け流すような自嘲が混じっていた。
「慣れたよ。どうせ私の人生は、ずっとこんな感じだったから」
その言葉は、私の胸をぎゅっと締めつけた。みんなの目には完璧な人に映っているのに、そんな神崎さんは本当に幸せなのだろうか。
「……もしよかったら、私には話してほしい」
私はそっと口にし、思わず懇願めいた響きを含ませてしまう。
「一人で全部を抱え込んでいるのを見ると、本当に気になって仕方ないんだ」
神崎さんはすぐには答えず、静かに私を見つめたまま、やがてふっと笑みを浮かべた。
「できるなら、私も……でも、今この瞬間は、まだ無理かな」
「大丈夫」
私は微笑み、はっきりとした声で言った。
「待ってるから」
彼女の瞳がかすかに揺れ、それから小さくうなずいた。
「そういえば、サッカー部の先輩たちが佐藤さんに興味を持ってて、ぜひ入ってほしいって言ってたよ」
神崎さんはふいに話題を切り替え、声色もいつもの軽やかさを取り戻した。
「今日の放課後、ちょっと会ってみない?」
「そんな急に?」
私は少し驚いて彼女を見つめた。
「急ってほどでもないよ。もうすぐ学校代表の大会があるみたいで、佐藤さんが入ってくれたらきっと戦力アップになるはず」
「でも……もう長いことサッカーやってないし、技術だって落ちてる。それに……」
私は一瞬ためらい、小さな声で続けた。
「子どもの頃に喘息があって、長時間は走れないんだ……そんな私でも受け入れてくれるかな」
「とりあえず行ってみなよ。あの人たち、本当に君のこと知りたがってたし」
彼女は笑みを浮かべ、少しだけ背中を押すような口調で言った。
「チームメイトになるかどうかは、そのあとで決めればいいでしょ」
私は彼女の真剣な表情を見つめ、最後には小さくうなずいた。
「……わかった。じゃあ、行ってみる」
神崎さんは笑顔を見せ、その瞳はさっきよりもいっそう明るくなった。
――神崎さんの心の扉はまだ完全には開いていないかもしれない。それでも、こうして少しずつ私の前で本音を見せてくれるようになった。その距離は、きっと前より近づいている。




