第5話 雨の中の彼女、やっと傘に出会えた
運動会の賑やかな声は途切れることなく続き、グラウンドでは応援の歓声が次々と響き渡っていた。生徒たちは旗を大きく振り、各選手はトラックの上で全力を尽くして駆け抜けていく。陽光は赤いトラックを照らし、青春の輝きをきらめかせている。私は佐藤さんと並んでグラウンドの端に立ち、この盛大な光景を静かに見つめていた。
「体育祭って、本当に賑やかだね……競技に出なかったら、こんなに楽しいなんて気づかなかったかも」
「でしょ? だから最初にあなたをリレーに誘ったのは正解だったってことだよね?
私は笑みを浮かべる。
「まあね……走り終わった後は死ぬほど疲れたけど……確かに楽しかったよ」
佐藤さんの口元がわずかに上がる。この空気の中では、自然と肩の力が抜けていく。少なくとも、この瞬間の楽しさは本物で、そこにはプレッシャーも仮面もなかった。
しかし、この束の間の静けさは、突然の着信によって破られる。ポケットの中で携帯が震え、画面には「お父さん」の文字が点滅していた。その瞬間、さっきまで軽やかだった気持ちが、重く圧し掛かる何かに押し潰され、息苦しくなる。
——この電話が良い知らせであるはずがない。私は深く息を吸い込み、こわばった指先で画面をスライドし、耳に当てた。
「星奈、今週末、親族の交流会がある。みんな子どもを連れてくる予定だ。母さんと俺も出席するから、お前も来い。その時、恥をかかせるような真似はするな」
お父さんの声は低く、重く、いつも通り冷ややかだった。そこには一片の相談もなければ、拒否権すら存在しない。
「……分かった。当日までに準備しておく」
私はできる限り平静で、礼儀正しい口調を装い、内心の拒絶を隠そうとした。
けれど、正直もう数える気にもならない。こんな場に呼び出されるのは、何度目になるのか。あの集まりは決して家族の団らんではなく、むしろ残酷な比較と見下しの場だ。
あの人たちの目に、私は決して十分な存在ではなかった。会が始まれば、親戚たちは必ず自分の子どもの自慢話に花を咲かせる。
「うちの息子、この前全国数学大会で賞を取ってね。今年は名門大に推薦で行けそうなんだ」
「うちの娘はもう医学部への進学が決まったの。将来はお医者様よ」
そして話題が私に向けられると——。
「あら? 星奈はまだ大学の志望先が決まってないの?」
「星奈、あれだけ多才なんだから、きっと一流大学に行けるわよね?」
その声色には、いつも微妙な優越感が混じっている。まるで「あなたはその程度で終わる人じゃないでしょう?」と言われているようだった。
私は、あの値踏みするような視線にも、そうした場で両親が黙り込む様子にも、もうすっかり慣れてしまっていた。彼らが私に満足したことなど、一度もない。
それは妹が日本を離れ、海外へと進学してから、さらに色濃くなっていった。
妹は「本物の天才」だった。小さい頃から両親の誇りであり、成績は完璧、礼儀も立ち振る舞いも申し分なく、親戚の前ではいつも簡単に賞賛をさらっていったのだ。
「星奈、妹さんを見習ったらどうだ?」
この言葉を、私は何度聞いてきただろう。もう感覚は麻痺していた。どれだけ努力しても、彼女には永遠に届かない。この一年、妹が家にいない間、両親の私への期待は減るどころか、むしろ苛烈さを増した。まるで、妹の「いない」空席を私が埋め、親戚の前で恥をかかせないようにしてほしいとでもいうように。
だけど——私は妹じゃない。両親が夢見る「完璧な子ども」には、どうしたってなれない。
「……星奈、礼儀を忘れるなよ。失望させるな」
お父さんは最後にそう淡々と言い残し、こちらに返事をする隙も与えず通話を切った。
私は呆然としたままスマホを握り、暗くなっていく画面を見つめる。耳に届く運動会の歓声は、まるで現実から引き剥がされるように遠のいていった。胸の奥が重く、何かで押し潰されるように苦しい。
「……は」
小さく笑い、スマホをポケットに戻して遠くを見やる。
さっきまで陽射しに包まれていた空は、いつの間にか厚い雲に覆われていた。雲は低く垂れ込め、風もひんやりと冷たくなる。佐藤さんに気づかれたくなくて、私は適当な理由を口にしてグラウンドを離れ、一人校舎の片隅へと向かった。
やがて、細かな雨が降り始める。雨粒が地面を打ち、小さな光の輪を幾つも重ねていく。私は運動場脇のベンチに腰掛け、傘をささず、雨に身を委ねた。冷たさが肌を伝い、鬱々とした気持ちを少しだけ冷ましてくれる。
「……うっとうしいな」
そう呟き、膝を抱えて顔を腕に埋める。できることなら、あんな集まりには行きたくない……けれど、拒否なんてできるだろうか。そう考えた瞬間、鼻の奥がつんと痛み、堪えていた涙がついに頬を伝った。
その時、頭上から、さらさらと雨を打つ音が途切れる。不思議に思って顔を上げると、一つの傘が静かに私の頭上に差し出されていた。
「……なんで中に入らないの? こんな雨で、しかも冷えるのに……風邪ひくよ」
聞き慣れた声が、少し心配そうな響きを帯びて降ってくる。ゆっくりと視線を上げると、そこには温かい眼差しを向ける佐藤さんが立っていた。手には傘。眉間には、隠すことのない優しい色が滲んでいる。
「……そばにいてもいい?」
彼女はそう小さく問いかけた。
私は一瞬だけ言葉を失い、そして口元をわずかに吊り上げる。少し意地を含みつつ、それでも感謝を滲ませた笑みで、「……もちろん」と答えた。
雨音が静かに落ち続ける中で,私はやっと、一つの傘と、一緒にいてくれる人に出会えた。




