第1話 リレーに出場する
十月の第一週、秋の気配はすでに一層深まっていた。涼やかな風が木々の梢を揺らし、黄ばんだ数枚の葉を舞い上げ、ふわりとグラウンドのトラックへと落とす。午後の陽射しは校内のバスケットコートを照らし、数人の男子が大きな声を上げながらパスを回していた。校舎全体に活気が満ち、もうすぐ訪れる体育祭の雰囲気でいっぱいだ。
「来週はいよいよ体育祭です。皆さん、自分が出る種目は決まりましたか?」
先生が講台に立ち、落ち着いた口調で言う。
「まだ決まっていない人は、今日の放課後までに参加申込書を提出してくださいね」
その言葉を合図に、教室は一気にざわめき始めた。
「俺、百メートル走に出る!」
「リレーのチーム作ろうぜ!」
「ねぇ、走り幅跳びやりたい人いる?」
クラスメイトたちはそれぞれが参加する種目について熱心に話し合い、椅子や机のきしむ音があちこちから響き、教室全体が興奮した空気に包まれていた。だが私はただうつむき、ノートを整理するふりをして、自分の存在感をできるだけ薄くしようとしていた。
運動会なんて、出たいわけがない。
その時、横から強い視線を感じた。私はそっと顔を上げ、案の定、少し離れた場所からこちらを見つめる神崎さんの目とぶつかった。彼女は何かを考えているような表情で私を見つめ、口元には意味ありげな笑みを浮かべていて、まるでターゲットをロックオンしたかのようだった。
ま、まさか……? この笑い方……私は思わずにらみ返し、「ぜっ、た、い、に、や、め、て!」と目で訴える。
すると彼女はわずかに眉を上げ、ゆっくりと口を動かし、声を出さずにいくつかの言葉を紡いだ。
「放課後、会おう」
……嫌な予感しかしない。
***
放課後のチャイムが鳴った瞬間、私は人混みに紛れてこっそり教室を抜け出そうとした。しかし、廊下の角で神崎さんに行く手を塞がれる。
「ねぇ、一緒に体育祭に出ようよ」
彼女は自然な笑顔で、まるでランチに誘うみたいに軽く言った。
「……本気で言ってる?」
私は眉をひそめ、一歩下がる。
「私、小学生の頃からずっと応援席専門なんだよ。運動会なんて向いてない」
「今回くらい挑戦してみたら?」
神崎さんは小首を傾げ、少し悪戯っぽく笑う。
「一生応援席なんて、もったいなくない?」
「全然もったいなくないから!」
思わず強めに返してしまう。
神崎さんはくすっと笑い、予想通りという顔を見せた後、不意にこう尋ねてきた。
「そういえば、運動やってたことってある?」
「……昔、少しだけサッカーをやってたことはあるけど、もうずっと前の話だよ」
私は少し気まずそうに答える。
「へぇ、サッカーね……」
彼女は意味ありげに頷き、それからふっと意味深な笑みを浮かべた。
「じゃあなおさら出るべきだね」
「その理屈は何!?」
「だって、あなたと一緒にリレーを走りたいから」
天気の話でもするみたいに、あっけらかんと言ってのける。
「……なんでそんなに私じゃなきゃダメなの?」
私は疑問を隠さず彼女を見る。
「きっと出てみたら、自分が思ってるよりずっと楽しいって思えるはずだから」
迷いのない眼差しで、即答する。
この自信は一体どこから……?
私はため息をつき、もう一度断る口実を探そうとしたが、神崎さんは不意にこう付け加えた。
「そうそう、もう佐藤さんの名前で申し込んじゃった」
「……」
私は固まり、それから勢いよく顔を上げる。
「……はぁっ!?」
「ふふっ、冗談だよ」
彼女は軽く手を振って笑う。
「でもね、本当に試してみてほしいんだ。それでやっぱり無理だと思ったら、そのとき断ってくれていいから」
その口調は軽やかだったけれど、瞳は意外なほど真剣だった。私は言葉に詰まり、思わず視線をそらす。胸の奥が妙にざわつく。
……神崎さん、本気で私に出てほしいと思ってるのかな?
深く息を吸い込み、結局またため息をついて、小さな声で言った。
「……わかった。でも、先に言っとくけど、きっとすごく遅いよ。後悔しないでね?」
「しないしない!」
彼女はぱっと花が咲くような笑顔を見せる。
「じゃあ決まりだね。練習で会おう!」
***
数日後、放課後の校庭。夕陽の残光が赤いトラックを照らし、空気にはほんのりと涼しさが混じっている。私は同じチームの女子二人と一緒にスタートラインの前に立ち、リレーの練習に備えていた。
「佐藤さん、走るの速いじゃん!」
一人の女子が驚いたように声を上げる。
「全然速くないよ……」
私は少し恥ずかしそうに頭をかいた。
「謙遜しないで!」
神崎さんは笑いながら私の背中を軽く叩く。
「昔のサッカーの練習、ちゃんと役に立ってるじゃん」
「もうずっと前のことだし……それに、本当に速くないんだって」
私は小声でぼそりとつぶやく。
「だからこそ、アンカーは佐藤さんに決まりだね!」
神崎さんが突然そう宣言した。
「……え?」
私は驚いて目を見開く。
「実はもう、他の二人とも話し合ってあったんだ」
神崎さんは肩をすくめる。
「全員一致で、佐藤さんはスピードが安定してて、しかもそこそこラストスパートもできるから、アンカーが一番合ってるって」
「そんな……急すぎでしょ?」
私は少し慌てる。
「アンカーって、すごくプレッシャーかかるじゃん?」
「大丈夫大丈夫、うちらの目標は優勝じゃなくて、楽しむことだから」
神崎さんは柔らかく笑う。
「でももしゴールまで駆け抜けてくれたら、それはそれで嬉しいけどね?」
「……もう、好きにすれば」
私は呆れたようにため息をつくが、口元はいつの間にかほんのり緩んでいた。
こういうチームでの一体感って……意外と悪くないかも。
夕陽の光がトラックを照らし、頬を撫でる風が心地よい。四人で肩を並べてスタートラインに立ち、互いに視線を交わす。
運動会の本番は、もう静かにカウントダウンに入っている。そして私はなぜか少し、楽しみになってきていた。




