第3話 夕陽に染まる膝枕のひととき
夕焼けの残光が、ゆっくりと校舎の廊下を染めていく。窓から差し込む温かなオレンジ色の光が床に落ち、長い影を映し出していた。放課後の校舎は昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、誰かの足音だけが廊下に反響している。
今日は黒羽が塾に行く日で、帰る方向が違うから一緒には帰れなかった。本当はこの機会に早めに帰って、自分の部屋で夜までゲーム三昧しようと思っていた。けれど、校門を出ようとしたその時、ふいに聞き慣れた声が耳に届いた。
「佐藤さん」
足を止めて振り返ると、そこには神崎さんが立っていた。彼女は口元にうっすらとした微笑みを浮かべていた。
「どうしたの?」
私は首をかしげて尋ねた。
「さっき先生がね、クラス委員にちょっと用があるって言ってたの。それで、私と一緒に職員室に来てほしいって」
彼女は軽やかな口調で言った。その声は、まるで何気なく話題に出したかのようだった。
「そうなんだ?じゃあ、行こっか」
私は特に疑問も持たず、神崎さんと並んで階段の方へ歩き出した。けれど――ちょうど階段に足をかけようとしたその瞬間、ふいにあたたかな感触がそっと私の手首にふれてきた。
「えっ?」
私は思わず立ち止まり、戸惑ったまま振り返る間もなく、神崎さんは私の手を取って、そのまま迷いもなく別の方向へと歩き出した。
「ちょ、ちょっと……そっちは職員室じゃないでしょ?」
私は彼女に手を引かれたまま、驚いた顔で尋ねた。
「あとで説明するから。誰かに見られたら、ちょっと面倒だしね」
彼女は振り向いて、ニヤリと悪戯っぽく笑いながらも、足取りはまったく緩めなかった。
この道は……学校の屋上へと続く通路だった。
「……何がしたいのよ」
私は小さくため息をついたが、結局その手を振り払うこともせず、神崎さんに引かれるまま屋上への階段を登っていった。
屋上の扉を押し開けると、ひんやりとした夕風が頬をなでた。空気には草木とコンクリートが混じった、少し懐かしい匂いが漂っている。空は淡い金橙色に染まり、雲は夕陽に照らされて夢のようにふんわりと広がっていた。まるで、世界全体がこの静かな光に包まれているかのようだった。
「やっぱりさ、ここがいちばん落ち着くよね」
神崎さんは柵のそばまで歩いていくと、大きく両腕を広げて、気だるそうに欄干にもたれかかった。長い髪が風になびいて、なんとも言えない開放感を漂わせている。
「で……結局、何か用でもあるの?」
私は彼女の隣まで歩いていき、ちょっと呆れたような声で問いかけた。
「別に、特別なことがあったわけじゃないんだけど……さっきちょっと人に囲まれてて、疲れちゃって。適当に抜け出す理由がほしくて……そしたら、佐藤さんが見えたの」
神崎さんは肩をすくめて、口元にふっと笑みを浮かべた。
「だからね、今日は佐藤さんが私の救世主ってわけ」
「……強がってるだけでも、たまには疲れるんだよ」
彼女は何気ない調子で言ったけど、その一言に私は思わず言葉を失った。
「なんだ、それだけ? 本当に用事があったわけじゃないの?……じゃあ、もう帰っていいよね」
私はそっけなく言って、くるりと背を向けた。
でも、本当のところ、逃げ出したかったわけじゃない。ただ、ふたりきりだってことに気づいた瞬間、なぜか心の奥がざわついてしまっただけなんだ。
「そんなこと言わないで、ちょっとだけ付き合ってよ〜」
神崎さんは私の袖を引っ張って、少し甘えるような声を出した。
「なんでよ。もう帰りたいんだけど」
「私、やっと風邪治ったばっかりなんだよ? まさか病み上がりの人にそんな仕打ちしないよね?」
彼女は無邪気そうな顔を作りながら、どこか小悪魔めいた光を瞳に宿していた。
「……治ったってことは、もう元気なんでしょ?」
「でもまだちょっとだけ、疲れが残ってる感じ〜」
そう言って、神崎さんは小さく首をかしげる。その目には、ほんの少しの頑固さが滲んでいた。
私はその表情を見て、結局ため息をつくしかなかった。
「……わかったよ。ちょっとだけね」
「やった〜!」
彼女は満面の笑みを浮かべて、私の腕を引っ張ってその場に座り込んだ。
私は手にしていた小説を開き、神崎さんは隣で静かに座って、遠くの夕陽を見つめていた。微かな風が彼女の長い髪を優しく揺らし、その光景は不思議なほど静かで穏やかな空気をまとっていた。
「この前、看病してくれて……本当にありがとう」
神崎さんがふいに口を開いた。その声には、かすかな感謝の気持ちが滲んでいた。
「そんなの、気にしなくていいよ。大したことしてないし」
私は頭を軽く振って答えたけれど、ちょっと居心地が悪くて、声にもそれが出てしまっていた。
「違うってば。佐藤さんって、本当に優しいなって思ったんだ」
彼女はふわっと笑って言った。
「みんなに対して、そんなに優しくしてるの?」
「そんなわけないじゃん」
私は眉をひそめた。
「知ってるでしょ、私、人付き合い苦手だし。誰にでも優しくなんてできないよ」
「ってことは……私にだけ?」
神崎さんは目をぱちぱちさせながら、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「もしかして、つまり――」
「な、なに言ってるのよっ!」
私は慌てて彼女の言葉を遮った。心臓がドクンと跳ねる。
「ただの友達が風邪ひいたから、ちょっと世話しただけだし! 別に深い意味なんてないから!」
「ふ〜ん?」
神崎さんは首を傾げたまま、じっと私の顔を見つめてきた。その視線が、本当に嘘か本当かを見極めようとしているみたいで、息が詰まりそうになる。
「もちろんだよっ!」
私はあわてて話題を変えた。
「それより、あんたの方こそさ……私の前ではちょっと違う感じがするんだけど?」
「どうして?」
「他の人と話してるときは、いつも完璧で、なんでもできるアイドルって感じ。でも、私といるときは……もうちょっと『素』っていうか、本当の神崎さんが見える気がする」
「そうなの?」
神崎さんはふわっと笑い、そして少しだけ顔を傾けて私に尋ねた。
「……そんな私のこと、嫌い?」
「そんなわけないでしょ!」
私は思わずそう答えて、視線を外す。
「ただ……なんで他の人の前では、そんなに完璧に見せようとするのかなって、ちょっと気になっただけ」
「その質問はね……」
彼女はそっと目を閉じ、口元に意味ありげな笑みを浮かべた。
「いつか、機会があったら教えてあげるよ」
そう言って、神崎さんはためらいもなくごろんと横になり、私の太ももにそっと頭を預けてきた。その瞬間、私はびくっと身体をこわばらせた。
「えっ……こ、こんなの……ほんとにいいの?」
私は小さな声でつぶやきながら、視線をどこに向ければいいのかわからず、胸の奥がざわざわしていた。
「病み上がりだから、まだちょっとだけ……疲れてるの。少しだけ休ませて?」
彼女は目を閉じたまま、甘えるような声で言った。長いまつげがかすかに揺れ、柔らかな髪が私の手の甲をくすぐる。くすぐったいのに、なぜか嫌じゃなかった。
「……まったく、しょうがないな」
私は小さくため息をついた。口では文句を言いながらも、彼女を払いのけることはしなかった。
こうして、私は屋上で彼女に膝枕をしてあげた。ただの膝枕なのに、胸がドキドキしてどうしようもなくて。逃げたいような、でも離れたくないような……そんな気持ちがぐるぐるしていた。
彼女の呼吸はだんだんと穏やかになり、しばらくすると、本当に眠ってしまったらしい。彼女の髪がそっと私の手の甲をかすめていく。それがくすぐったくて、でも不思議と目を逸らせない。膝の上に落ちる彼女の吐息はかすかに温かくて、呼吸にあわせて上下する身体の動きが、じんわりと伝わってきた。
風がそっと屋上を通り抜けていく。季節は初秋、どこか肌寒い気配を運んでくる。遠くからは学校のチャイムが聞こえてきて、夕陽が沈む合図のようだった。
今の神崎さんの顔には、いつもの余裕や完璧さなんて微塵もなくて。代わりにそこにあったのは、どこかほっとしたような、少しだけ疲れのにじむ穏やかな寝顔だった。
……きっと彼女も、疲れるときはあるんだ。
私はその静かな寝顔を見つめながら、思わずそっとつぶやいた。
「……本当に、疲れてたんだね」
こんな彼女は、いつも無敵で、笑顔を絶やさない神崎星奈とは全然違って見えた。
やがて空の最後の光が消えかけ、学校の門が閉まる時刻になった頃、私はそっと神崎さんの肩に手を添えて、軽く揺らした。
「ねえ、そろそろ起きて」
彼女はぼんやりと目を開けて、のんびりと伸びをしながら言った。
「なんだ、起こしてくれてもよかったのに」
「だって……すごく気持ちよさそうに寝てたから」
私は正直にそう答えた。
神崎さんは一瞬きょとんとしたあと、ぱっと花が咲いたように笑った。
「ふふっ、たしかにね。全部の悩みが吹っ飛んだ気がするくらい、気持ちよかったよ」
その笑顔に見とれながら、私は小さな声で言った。
「もし……また疲れたら、たまにはここで休んでいいよ」
神崎さんの目がほんの一瞬だけ大きく見開かれたあと、いたずらっぽく笑った。
「それ、本気で言った?」
「た、たまにだけだからね! 毎日はナシ!」
「え〜ケチ〜」
彼女は唇を尖らせて拗ねたような表情を見せた。
「調子に乗らないの」
私はため息混じりに言った。
神崎さんはふわりと笑って、風がそっとその髪を揺らした。そうして、私たちの他愛もないじゃれ合いの中で、この一日がやさしく幕を下ろした。




