第2話 病気の彼女
昨日、私は正式にクラス委員長になった。
正直に言えば、幼い頃の私は少しだけ憧れていたことがある。みんなの前に立って、誰かに信頼されて、クラスのために何かをする──そんな自分になれたらいいなと。でも、人付き合いが得意ではない私は、その夢をずっと叶えられずにいた。まさか今になって、本当に現実になるなんて思ってもみなかった。
実際に委員長としての役目を果たし始めてみると、思っていた以上に大変なことばかりだった。みんなとコミュニケーションを取ること、クラスメイトの意見を聞くこと、前に出て物事を発表すること……どれも私にとっては大きな壁だった。でも、クラスのみんなは、思っていたよりもずっと優しかった。うまく話せなくても、動作が不器用でも、彼らは笑って、やさしく「こうしたらいいよ」と教えてくれる。
昨日は誰かが文房具をなくしてしまって、私は思い切ってみんなに聞いて回った。冷たくされるんじゃないかと不安だったけど、意外にもみんなが積極的に応じてくれて、最終的には無事に文房具も見つかった。
信頼されること、必要とされることって、こんなにも嬉しくてあたたかいものなんだ。私にとって、それは初めての感覚だった。
***
「今日は神崎さんが欠席です」
朝のホームルームで先生がそう言った。
「風邪をひいたらしくて、今日の宿題と資料、誰か届けてくれる人はいますか?」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず手を挙げていた。
「先生、私が行きます……一応、委員長ですし」
先生はにっこり笑ってうなずいた。
「じゃあ、お願いね、佐藤さん」
放課後、先生は神崎さんの住所が書かれた紙を私に渡してくれた。帰り道、私は歩きながらようやく気づいた。自分がすごいことを引き受けてしまったんじゃないかって。だって、他のクラスメイトの家に行くのなんて、これが初めて。しかもよりによって……あの神崎星奈の家だなんて。
コンビニの前を通ったとき、私は足を止めて、少し迷ったあと店に入った。スポーツドリンク、熱さまシート……この辺りはあった方がいいかもしれない。彼女が本当に必要としているかはわからないけれど、それでも何かしてあげたい気持ちが抑えられなかった。
彼女の家の前に着いたとき、私は思わず立ち尽くしてしまった。
目の前に現れたのは、まるでおとぎ話に出てきそうなほど大きな洋館だった。ヨーロッパ風の洗練された外観に、高くそびえる黒い鉄製の門。それを見上げた瞬間、胸の奥に何とも言えない距離感が広がっていった。指先がインターホンの前で止まり、なかなか押すことができない。
──こんな華やかな世界に、私みたいな平凡で目立たない人間が、本当に足を踏み入れてもいいの?
迷いながらも、最後には思いきってインターホンを押した。ピンポーン、ピンポーン……何度かチャイムが鳴るけれど、家の中からは一向に応答がない。
「……もしかして、誰もいないのかな……?」
そう思いかけたそのとき、突然門が開いた。
「……あっ、ごめん。さっきまで寝てて……体にあまり力が入らなくて……」
出迎えてくれたのは神崎さんだった。やわらかい素材のルームウェアを身にまとい、長い黒髪は少し乱れていて、頬には不自然なほど赤い熱の色が差している。その姿はどこか儚くて、小さくて、今にも壊れてしまいそうだった。
「大丈夫? 家に誰か……看病してくれる人はいないの?」
つい心配になって、私はそう尋ねた。
彼女はかすかに微笑んで、小さな声で答えた。
「……家族はみんな仕事で。もう慣れてるよ」
その言葉には、どこか投げやりで、だけどどこかで諦めているような響きがあった。その何気ない口調が、逆に胸を締めつけるほど切なく感じられた。
「部屋に戻って休んだほうがいいよ。けっこう熱があるみたいだし……」
神崎さんは何も言わずにうなずき、私はそっと彼女を支えながら家の中へと入った。室内のインテリアは確かに洗練されていたけれど、どこか冷たく感じられた。リビングはまるで「誰も住んでいない場所」みたいに整然としていて、生活感がまるでなかった。家族の写真もなければ、散らかった日用品も見当たらない。静かすぎるその空間には、何か大切なものが欠けているような寂しさが漂っていた。
本当に、ここに誰かが暮らしているの?
神崎さんの部屋も、思っていたよりずっと綺麗だった。けれど、その整いすぎた空気の中に、どこかぽつんとした孤独が滲んでいた。いつも人前で輝いている彼女とは正反対の、静かな部屋だった。
私は宿題と資料を机の上にそっと置いて、コンビニの袋を彼女に差し出した。
「これ……持ってきたんだ。スポーツドリンクと熱さまシート、入ってるから……」
神崎さんは驚いたように一瞬固まり、それからおそるおそる袋を受け取った。指先が少し震えていて、目を伏せたまま袋をじっと見つめている。どう反応していいのかわからないような、そんな戸惑いが感じられた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……佐藤さんって、ほんとにやさしいんだね」
「えっ、そんなの……普通のことだよ。風邪ひいた人には、みんなこうするんじゃない?」
だけど彼女は、ふっと笑った。その笑みには、ほんの少しだけ苦みが混じっていた。
「誰も……そんな普通のこと、私にしてくれたことなかったから……」
「……え?」
私は思わず目を見開いた。
「それって、どういう──」
言いかけた言葉を遮るように、神崎さんはそっとベッドに横たわった。声はどんどん小さくなっていく。
「ごめん……ちょっと疲れちゃって……少しだけ、ここにいてくれる……?」
「……うん。じゃあ、先に熱さまシート貼ってあげようか?」
彼女は静かにうなずき、目を閉じた。長いまつげがわずかに震え、寝息のような静けさが部屋を包む。私は熱さまシートを手に取り、そっと額に触れた。火照った肌が、心にチクリと刺さるように熱かった。
神崎さんは小さく身を震わせながらも、目を開けることなく、かすかに呟いた。
「……ありがとう」
部屋の中には、彼女の穏やかな呼吸だけが静かに響いていた。
私は心の奥で、何か言葉にできない気持ちを抱えていた。神崎さんはずっと、みんなの中で眩しく輝いていた存在。でも、今こうして、病に伏せて無防備な姿を見ていると、こっちの方が、彼女の本当の姿のような気がしてならなかった。
彼女と家族との間には、何か深い傷があるんだろうか。いつも笑顔でいるその裏に、どれだけのものを背負っているんだろう。
眠っている神崎さんの顔を見つめながら、私はふと、もっと彼女のことを知りたくなった。たとえ少しでも、その心の中を……もう少しだけ、近くで感じていたいと思った。




