第3話 もう二度と、ひとりで泣かせたりしない
昨日のことを経験してから、小休みや昼休みになるたび、私はそっと誰も使っていない空き教室に身を潜めるようになった。ここにいれば、あのひそひそ話も聞かずに済むし、探るような視線を受ける必要もないし、背後から急に誰かに引っ張られたり触れられたりする心配もしなくていい。
教室の隅に座り込み、まるで自分がまだ「普通の生徒」であるかのように装う。そんなふりをしていれば、この世界を騙せる気がした。でも目を閉じれば、頭の中では勝手にあの吐き気を催す言葉たちが再生され、強引に触れてきた指先の感触が蘇ってくる。私は思わず膝を抱きしめ、額を腕に押しつけた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。顔を伝うのが汗なのか涙なのかも分からなくて、ただ全身が冷たい湖水に沈んだみたいに固まり、それなのに内側だけが焼けるように苦しかった。
もうすぐその虚無に沈み込んでしまいそうなとき……。
「……遥?」
扉が開く音と共に、優しくて、よく知っている声が聞こえた。深い闇の底に差し込む光みたいに、その声が息の詰まる水面を貫いてくれた。
私ははっと顔を上げる。そこには星奈が立っていた。頬には薄い汗が浮かび、息を切らし、瞳には焦りと心配が混じっていた。
「ずっと……探してたんだよ……」
その瞬間、心臓が一拍遅れて止まりそうになった。私は慌てて涙を拭い、立ち上がって平気なふりをしようとする。でも膝はもう力が入らなくて、身体を起こした途端、よろめいて床に崩れ落ちてしまった。
「遥……!」
迷いなく駆け寄り、そのまま私を強く抱きしめた。その腕の温かさと確かさは、久しぶりに見つけた避難所みたいで。私はもう、強がることなんてできなかった。
「ごめん……星奈……私……もう……」
言葉がこぼれた瞬間、また涙が溢れた。押し込めてきた恐怖も悔しさも、ぜんぶが堰を切ったみたいに溢れ出し、嗚咽と途切れた声が入り混じる。星奈は急かすことも、すぐに何かを言うこともせず、ただそっと顎を私の肩に乗せ、ゆっくりと背中を撫でてくれる——強すぎず、急ぎすぎず、でも確かで、私の呼吸をひとつずつ取り戻してくれるような動きで。
「わたし……ほんとは……言いたくなかった……知られたくなかった……乗り越えられると思ってて……でも……でも……」
唇を噛みしめ、指先は彼女の制服の袖をぎゅっと握りしめる。まるで世界で唯一奪われないものを掴むみたいに。そしてようやく、胸の奥に何日も沈んでいたあの言葉を絞り出した。
「みんな……わたしのこと、気持ち悪いって……それに……あんなふうに触ってきて……」
星奈の息が一瞬止まった。
「それに……『まっすぐにできるか試してみれば?』って言われて……星奈、わたし……ほんとに怖かった……」
彼女の手がふいに震え、軽く抱いていた指先がぎゅっと強まった。まるで私の恐怖も傷も全部、その腕の中に引き寄せようとするみたいに。低く問いかけた。その声は、壊れそうなほど震えていた。
「……触られたの?」
声に滲む怒りと不安がはっきりと聞こえて、私の心臓がぎゅっと縮んだ。ほとんど反射的に、私は首を振った。
「やめて……責めないで……星奈まで狙われたら……巻き込まれたら、嫌で……」
「もういい」
星奈は突然そう言った。その声は耳元にそっと落ちる羽のように静かで、でも私が言葉を重ねるたびに深みに沈んでいく思考を、たった一瞬で断ち切る力があった。そこには責める気配なんてひとかけらもなくて、むしろ暖かい風の層がふわりと広がって、私を恐怖と羞恥の底からまるごと包み込むようだった。
「遥は、何も悪くない」
彼女は私を見つめ、その声はまるで私のために光を支えてくれているみたいに、静かで、安定していた。その強さは強引さじゃなくて、傷の縁をそっと溶かしていくような、やわらかな温度だった。
「彼らの行為は、どう考えても傷つけて、狙い撃ちにしてるだけ。悪いのは、自分と違うってだけで相手に問題があるみたいに決めつける人たちだよ。遥は……私のことを好きだからって、そんな傷まで全部背負う必要なんてない」
その言葉はとても静かなのに、一つ一つが、ずっと心に刻まれてきた影を代わりに受け止めてくれているみたいだった。
言い終えると、星奈はそっと、慎重に私の頬を包むように手を伸ばした。無理に顔を上げさせることも、慌ててみっともない涙を拭うこともしない。急がず、強くもなく、ただ軽く支えるだけ——壊れやすくて、大切なものを扱うみたいに。
涙はまだ頬を伝っていた。彼女の親指が、その濡れた頬をなぞり、指先はそこで止まる。拭いもしないし、押しのけもしない。ただ静かにそこにいてくれる。その触れ方は、慰めるみたいでもあり、今この瞬間の私が、本当に彼女の手の中にいることを確かめるみたいでもあった。
そして星奈は身を屈め、私の額にそっと口づけた。額同士が触れ合い、呼吸が重なる。彼女の声が、かすかに震えながらも真っ直ぐに届いた。
「遥、私はここにいるよ。もう一人で怖がらなくていい。今度は……私が守るから。ね?」
私は彼女を見つめたまま動けなかった。涙が、糸の切れた真珠みたいにぽろぽろとこぼれ落ちる。
「で、でも……こんな私で……本当に大丈夫なの……? わ、私は……弱くて、何もできなくて……いつも星奈に迷惑ばっかり……」
「違うよ」
星奈は今にも泣きそうな笑顔を浮かべ、指先でまだ乾ききらない私の涙をそっと拭った。声は相変わらずやわらかいのに、そこには少しだけ強い意思が宿っていた。
「ここまで来た遥は、誰よりも勇敢だよ。謝らなきゃいけないのは私のほう。私が鈍くて……遥にこんな思いをさせてしまった」
「ちが……違う……星奈のせいじゃ……」
私は小さく呟いた。
「分かってる。でも、それでも伝えたかったんだ」
そこまで言うと、星奈は一度息を吸い込んだ。まるで私の痛みや傷を、その胸の奥の柔らかな場所にすべて抱き取ろうとするかのように。そして私を強く抱きしめた。
「これからは、もう一人で泣かせたりしない。何があっても、何を背負うことになっても……私は遥のそばにいる」
耳元に触れるように囁く。風よりも静かで、風よりも温かくて。
「全部一人で抱えさせたりしない。今度は……私が前に立つ番だよ」
私の身体は小さく震え、そしてついに崩れ落ちるように、長いあいだ押し込めてきた悲しみも恐怖も痛みも、全部あふれ出した。私は星奈を強く抱き返し、顔を彼女の肩に深く埋め、声にならないまま泣きじゃくった。泣き方はぐしゃぐしゃで、震えていて、指先は彼女の袖を必死に掴みながら、まるで世界で最後に残った安全な場所を離れたくないみたいに。
星奈は何も言わなかった。ただ抱きしめ、背中を優しく撫でてくれた。それはまるで「ここにいるよ、もう大丈夫」と静かに伝えてくれるみたいで。
それは、声のない救いだった。大きな叫びも、派手な言葉もいらない。ただ一度の抱擁で、何千もの言葉が要らなくなる。孤独だった二つの心が、ようやく触れ合い、寄り添い、帰る場所を見つけた。
窓の外では夕日が沈みかけ、金橙色の光が空き教室に差し込んで、私たちの抱き合う影をそっと照らしていた。誰も悪くなかった。好きでいることが、踏みにじられる理由になるはずがない。この抱擁こそが、その何よりの答えだった。
——君がいてくれるなら、私はまた強くなれる。




