第10話 言えないこと
教室に戻った瞬間、窓辺から斜めに射し込む陽射しが、まるで優しい刃のように差し込んでいた。その光は穏やかな顔の上にも、私の影の上にも落ちていた。耳に届くのは聞き慣れた音——クラスメイトの会話、プリントをめくる音、黒板にチョークが走るかすかな音。
それらはいつも通りそこにあるのに、まるで私とは関係のない世界の音のように思えた。私は一滴の墨のように、この日常の絵の中に溶け込めず、ただ滲んで浮いていた。足音をできるだけ小さくして、膝の震えが音にならないように、心臓の狼狽が誰にも聞こえないように。
鞄から教科書を取り出した瞬間、ファスナーの音がやけに鋭く響いた。私はすぐに視線を落とし、何事もないようにページをめくる。けれど紙の上の文字は水面のように揺らいで、どうしても頭に入ってこない。誰にも気づかれてはいけない。この小さな綻びを見つけられたら、もう隠せなくなってしまうから。
「……さっき、どこ行ってたの?」
黒羽の声が隣から聞こえた。口調はいつも通りなのに、逃げ場のない優しさと静けさを帯びている。
胸の奥がきゅっと縮まり、指先が無意識にページの上で丸まった。
「ちょっと……トイレで顔を洗ってただけ」
なるべく自然に、落ち着いて聞こえるように言葉を紡ぐ。
黒羽はすぐには何も言わなかった。ただ、静かに私を見つめていた。その穏やかな視線は、窓の外の春風のようだった——急がず、緩やかに、それでいて私の心の薄い雪を簡単に揺らしてしまう。
「さっき、何人かの男子と廊下を歩いてたって……聞いたけど。何かあったの?」
私はすぐに首を振った。視線を下に落としたまま、まるで最後の平静を抱きしめるように。
「……何でもない。ただ……ちょっとした冗談を言われただけ。本当に、何でもないの」
その言葉は、自分に言い聞かせるように、かすかに、震えるように落ちた。もうこれ以上聞かないで。そう懇願する声だった。
黒羽は信じていないことを、私は分かっていた。けれど、彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ、静かに息を吐き、窓の外へと視線を向けた。
「……分かった」
その声は、まるで何事もなかったかのように淡々としていた。けれど、その「分かった」の一言が、どんな問いよりも胸に刺さった。理解と無力を飲み込んだ、静かな妥協の響きだった。
私はうつむいたまま、ノートの余白に意味のない円を描いていた。指先の動きは乱れ、心臓と呼吸のリズムもとっくに崩れていた。
その瞬間、私が気づかなかったのは、黒羽が机の下からそっとスマホを取り出し、視線の届かないところでメッセージ画面を開いていたことだった。
チャイムが鳴る頃、私は機械のように教科書を片づけていた。動作も姿勢も、表情さえも、「平気」を装うためのコピーのように。
けれど魂だけは、今朝のあの瞬間に取り残されたままだった。あの囁き、あの笑い声、あの触れられた感触、そして見て見ぬふりをした無数の瞳——すべてがまだ、私の記憶の中で生々しく息づいていた。影のように、どこまでも離れてくれない。
黒羽は立ち上がり、教室を出るとき、ドアのそばで一度だけ私を見た。私は顔を上げず、心の中でそっと呟く。
「お願い、もう聞かないで。私はまだ……もう少しなら耐えられるから」
けれど、私が聞かなかったのは、そのすぐ後に響いた「送信完了」の小さな音だった。
「彼女は大丈夫って言ってたけど、目が赤かった。たぶん、我慢してる。お願い……見てあげてくれない?」
ずっと、自分ではうまく隠せていると思っていた。言わなければ、誰にも気づかれない。涙をこぼさなければ、誰にも知られない。だけど、もしかしたら心のどこかでずっと、誰かに気づいてほしいと、手を伸ばしてほしいと、願っていたのかもしれない。この音のない闇の中から、私を引き上げてくれる誰かを。
——その「誰か」は……君なのかな、星奈。




