第9話 もし、少しのあいだだけ消えられるなら
自分でも、どうやって耐えていたのか分からない。足はふらつき、視界は滲んで、ただ必死に、よろめきながら近くの空き教室へと駆け込んだ。ドン、と音を立ててドアを閉めた瞬間、ようやく気づいた——膝が、震えていた。まるで全身の力が抜け落ちて、空っぽの殻だけが残っているみたいだった。
壁に背を預け、そのままゆっくりと床に滑り落ちる。指先は丸まり、呼吸は乱れ、体はくしゃくしゃに潰された紙のようで、もう広げることすらできない。胸の奥が苦しくて、喉に何かが詰まっているみたいだった。吐き出せない。飲み込めない。
涙が、いつから流れていたのか分からなかった。熱い雫が頬に落ちても、音ひとつ立てない。ただ肌の上を焼くように滑っていく。私は歯を食いしばり、手の甲を強く噛んだ。声を出しちゃいけない。誰にも聞かれてはいけない。誰にも気づかれてはいけない——もう限界だなんて、知られちゃいけない。
嗚咽が喉の奥から零れ落ちる。壊れた泡のように浮かんでは弾け、また沈んでいく。歯が皮膚を破りそうなほど噛み締めても、震えは止まらない。私は自分の体を抱きしめた。壊れかけた自分を、必死に繋ぎとめるように。
頭の中では、あの光景が何度も何度も再生されていた。壊れた映写機みたいに止まらない。あの軽蔑を含んだ囁き。あの、わざとらしい指先の感触。あの見下すような笑い声。そして、見て見ぬふりをした目。ひとつひとつの映像が針のように突き刺さり、そのたびに息が詰まる。
そして、考えてしまった。ひとつの思いが、冷たい水のように胸の中へ染み込んでいく。もし、私があんなに星奈に近づかなければ、こんなふうにはならなかったんじゃないか。もし、私たちが「友達」で、恋人じゃなかったら……あんなふうに扱われることはなかったのかな。もし……私が彼女から少し離れたら、すべてが元に戻るんじゃないか。
私は、何も悪いことをしていない。ただ、彼女のことが好きなだけ。誰の邪魔もしていない。誰も傷つけていない。誰かに見せびらかしたわけでもない。ただ、そっと大事にしていた——私だけが知っている光を。星奈だけが照らしてくれる、たったひとつの光を。
なのに……どうして。どうして罪人みたいに、隠れて生きなきゃいけないの。
私は体を小さく丸め、さらに強く抱きしめた。世界のすべての音を、自分の外へ閉め出すみたいに。もし選べるなら……ほんの少しでいい、この世界から消えてしまいたい。少しの間だけでいい。一時間でも、一分でも、たとえ十秒でも。見られなくていい。笑われなくていい。触れられなくていい。踏みにじられなくていい。それだけで、少しは……息ができる気がする。
涙で視界が滲み、教室全体が水の中に沈んでいくように見えた。重く、静かで、音のない世界。聞こえるのは、自分の心臓の激しい鼓動と、胸の奥の痛みだけ。
痛みよりも深いのは、無力さだった。中身を全部抜かれたみたいに、空っぽの体がただそこにある。「大丈夫」「すぐ終わる」——そう言い聞かせても、何もできない。逃げることしかできない。怯えることしかできない。泣くことしかできない。
星奈には言えなかった。怖いからじゃない……彼女を傷つけたくなかったから。
星奈は、もし知ってしまえば、きっと迷わず私のそばに立つだろう。だけど、そうなれば——彼女も巻き込まれてしまう。私と同じように、指をさされ、嫌われ、孤立して……きっと、傷つく。それだけは嫌だった。どんなに痛くても、私はひとりで耐える方を選ぶ。
——たとえ、もう限界が近いとしても。




