表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冴えない私が輝く星と出会った  作者: 雪見遥
第14章 校舎に忍び寄る闇

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

110/115

第8話 近づく悪意

 翌日、授業が始まる前、私は席に座って本を読んでいるふりをしていた。目は文字を追っているのに、一言も頭に入ってこない。胸の奥が何かで塞がれているように重く、息苦しかった。


「最近、なんだか元気ないけど……何かあった?」


 隣の席の黒羽がふいに声をかけてきた。その声は穏やかで、どこか優しい鋭さを含んでいた。まるで、もう全部見透かしているかのように。


 私はわずかに体を強張らせ、指先で本のページをぎゅっと掴んだ。


「……なんでもないよ。気にしすぎ。最近ちょっと疲れてるだけ」


 うつむいたまま、机の上に指で円を描く。彼女の視線を真正面から受け止めることができなかった。


 少しの沈黙のあと、黒羽は静かに「そう……」とだけ言った。


 それ以上は何も言わず、ゆっくりと教科書を開く音だけが響く。私たちはそのまま授業の流れに身を任せた。もう会話はなかった。


 けれど——あの短い間に、「いつか話してくれるのを待ってるね」という言葉にならない声が、確かに耳の奥に残っていた。


 朝の校舎はいつも通りに騒がしく、耳には予鈴とクラスメイトたちの声が入り混じっていた。私は本を胸に抱え、うつむいたまま廊下を歩く。あのざわめきの中に溶け込んでしまえば、誰の視線にも触れずにいられる気がした。


 そう思った矢先だった。


「おっと、ごめん、見えなかったわ」


 高い背の男子生徒が、わざとらしく肩をぶつけてきた。力は強くなかったが、体が軽く揺れた。


 彼はわざと私のすぐ耳元まで顔を近づけてきた。息がかかるほどの距離で、私だけに聞こえるような小さな声で囁く。


「おまえみたいな女、『本物』を試してみたくなるんじゃない? レズだって欲しくなるだろ?」


 その瞬間、体が固まった。背筋が冷たくなり、足元がふっと浮くような感覚。その言葉は、どろりとした汚れた水のように頭の中に流れ込み、いつまでも消えなかった。


 逃げ出そうとしたけれど、背後から響く笑い声がそれを許してくれなかった。


「あー、もったいねぇな。レズじゃなかったら、俺が『まっすぐ』にしてやるのに」


「ほんとは男知らないだけだろ? 一回でハマるかもよ〜」


   笑い声はどんどん大きくなり、通りすがりの生徒たちの視線も集まっていく。 そのうちの一人が、わざといやらしい手つきをしてみせた。 周りの人たちは——誰も止めなかった。 見て見ぬふりをする者、口元を押さえて笑う者。


 私は唇を噛みしめ、何も言わずに教室へと歩いた。


 けれど、それで終わりじゃなかった。


 休み時間、水筒を持って二階の廊下を歩いていると、突然背後から制服の裾を引かれた。力は強くなかったのに、体が反射的に固まった。


「レズの遥ちゃん登場〜」


「みんな隠れて〜、彼女取られちゃうよ〜」


 声の調子は軽く、笑い混じりだった。けれど、私はわかっていた。それは冗談なんかじゃない。その笑い声が次々と背中に落ちてきて、まるで冷たい水を浴びせられるようだった。濡れた顔を拭う私を見て、さらに笑うような、そんな笑い。


 私は振り返らなかった。何も聞こえないふりをして、ただ前に歩いた。一歩踏み出すたびに、足の裏が空気を踏むようで、重さがなかった。


 ——本当に壊れたのは、そのあとの授業が終わったときだった。


 廊下で落とした教科書を拾おうとしゃがんだ瞬間、一人の男子が同じように身をかがめてきた。助けるふりをして、指先がスカートの内側をなぞる。冷たくて、刃物みたいだった。


「ん……そんなに敏感になるなよ〜」


「ちょっと試してみようか、俺が『まっすぐ』にできるかどうか」


 彼の声は低く抑えられていて、ふざけたような調子だった。まるで下品な冗談を言っているだけのように。


 私は全身が電流に打たれたみたいに固まった。立つことも、逃げることもできない。その数秒が、永遠のように長く感じられた。


 昼間で、学校で、周りには他の生徒たちもいるのに——その瞬間、世界が真っ白に消えた。耳に残るのは、彼らの笑い声だけ。


「ははは、ほんとに怯えてるじゃん」


「そんなに強くすんなよ〜、うっかり『まっすぐ』になったら困るだろ?」


 その声は、刃のように鼓膜をなぞった。胃の奥がきゅっと縮み、息が止まる。耳の中が水に沈んだみたいに、周りの音がすべて遠のいていく。聞こえるのは、自分の心臓の音だけ——どく、どく、と不規則に響いていた。


 誰も彼らを止めなかった。誰も、私のために声を上げなかった。


 通りすがりの生徒たちは、一瞬だけこちらを見て、すぐに目を逸らした。小声で囁く者、口元を押さえて笑う者。そして、多くの人はただ通り過ぎていった。まるで、何も起こっていないかのように。


 私は震える足で数歩あとずさり、バランスを崩してよろけた。手にしていた教科書が床に落ち、ページがばらばらと散る。拾うこともできず、ただ本能のままに走り出した。視界が滲み、息が乱れる。走る……走る……走る……。この学校から、この世界から逃げ出すように。


 頭の中で、ひとつの言葉だけが繰り返されていた。


 ——逃げたい。ここから、どこでもいいから、離れたい。たとえ、ほんの数分でも。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ