第8話 近づく悪意
翌日、授業が始まる前、私は席に座って本を読んでいるふりをしていた。目は文字を追っているのに、一言も頭に入ってこない。胸の奥が何かで塞がれているように重く、息苦しかった。
「最近、なんだか元気ないけど……何かあった?」
隣の席の黒羽がふいに声をかけてきた。その声は穏やかで、どこか優しい鋭さを含んでいた。まるで、もう全部見透かしているかのように。
私はわずかに体を強張らせ、指先で本のページをぎゅっと掴んだ。
「……なんでもないよ。気にしすぎ。最近ちょっと疲れてるだけ」
うつむいたまま、机の上に指で円を描く。彼女の視線を真正面から受け止めることができなかった。
少しの沈黙のあと、黒羽は静かに「そう……」とだけ言った。
それ以上は何も言わず、ゆっくりと教科書を開く音だけが響く。私たちはそのまま授業の流れに身を任せた。もう会話はなかった。
けれど——あの短い間に、「いつか話してくれるのを待ってるね」という言葉にならない声が、確かに耳の奥に残っていた。
朝の校舎はいつも通りに騒がしく、耳には予鈴とクラスメイトたちの声が入り混じっていた。私は本を胸に抱え、うつむいたまま廊下を歩く。あのざわめきの中に溶け込んでしまえば、誰の視線にも触れずにいられる気がした。
そう思った矢先だった。
「おっと、ごめん、見えなかったわ」
高い背の男子生徒が、わざとらしく肩をぶつけてきた。力は強くなかったが、体が軽く揺れた。
彼はわざと私のすぐ耳元まで顔を近づけてきた。息がかかるほどの距離で、私だけに聞こえるような小さな声で囁く。
「おまえみたいな女、『本物』を試してみたくなるんじゃない? レズだって欲しくなるだろ?」
その瞬間、体が固まった。背筋が冷たくなり、足元がふっと浮くような感覚。その言葉は、どろりとした汚れた水のように頭の中に流れ込み、いつまでも消えなかった。
逃げ出そうとしたけれど、背後から響く笑い声がそれを許してくれなかった。
「あー、もったいねぇな。レズじゃなかったら、俺が『まっすぐ』にしてやるのに」
「ほんとは男知らないだけだろ? 一回でハマるかもよ〜」
笑い声はどんどん大きくなり、通りすがりの生徒たちの視線も集まっていく。 そのうちの一人が、わざといやらしい手つきをしてみせた。 周りの人たちは——誰も止めなかった。 見て見ぬふりをする者、口元を押さえて笑う者。
私は唇を噛みしめ、何も言わずに教室へと歩いた。
けれど、それで終わりじゃなかった。
休み時間、水筒を持って二階の廊下を歩いていると、突然背後から制服の裾を引かれた。力は強くなかったのに、体が反射的に固まった。
「レズの遥ちゃん登場〜」
「みんな隠れて〜、彼女取られちゃうよ〜」
声の調子は軽く、笑い混じりだった。けれど、私はわかっていた。それは冗談なんかじゃない。その笑い声が次々と背中に落ちてきて、まるで冷たい水を浴びせられるようだった。濡れた顔を拭う私を見て、さらに笑うような、そんな笑い。
私は振り返らなかった。何も聞こえないふりをして、ただ前に歩いた。一歩踏み出すたびに、足の裏が空気を踏むようで、重さがなかった。
——本当に壊れたのは、そのあとの授業が終わったときだった。
廊下で落とした教科書を拾おうとしゃがんだ瞬間、一人の男子が同じように身をかがめてきた。助けるふりをして、指先がスカートの内側をなぞる。冷たくて、刃物みたいだった。
「ん……そんなに敏感になるなよ〜」
「ちょっと試してみようか、俺が『まっすぐ』にできるかどうか」
彼の声は低く抑えられていて、ふざけたような調子だった。まるで下品な冗談を言っているだけのように。
私は全身が電流に打たれたみたいに固まった。立つことも、逃げることもできない。その数秒が、永遠のように長く感じられた。
昼間で、学校で、周りには他の生徒たちもいるのに——その瞬間、世界が真っ白に消えた。耳に残るのは、彼らの笑い声だけ。
「ははは、ほんとに怯えてるじゃん」
「そんなに強くすんなよ〜、うっかり『まっすぐ』になったら困るだろ?」
その声は、刃のように鼓膜をなぞった。胃の奥がきゅっと縮み、息が止まる。耳の中が水に沈んだみたいに、周りの音がすべて遠のいていく。聞こえるのは、自分の心臓の音だけ——どく、どく、と不規則に響いていた。
誰も彼らを止めなかった。誰も、私のために声を上げなかった。
通りすがりの生徒たちは、一瞬だけこちらを見て、すぐに目を逸らした。小声で囁く者、口元を押さえて笑う者。そして、多くの人はただ通り過ぎていった。まるで、何も起こっていないかのように。
私は震える足で数歩あとずさり、バランスを崩してよろけた。手にしていた教科書が床に落ち、ページがばらばらと散る。拾うこともできず、ただ本能のままに走り出した。視界が滲み、息が乱れる。走る……走る……走る……。この学校から、この世界から逃げ出すように。
頭の中で、ひとつの言葉だけが繰り返されていた。
——逃げたい。ここから、どこでもいいから、離れたい。たとえ、ほんの数分でも。




