第7話 最初の一歩を踏み出す
昼休み時間、担任の先生が新しい課題を発表した。
「これから、特別研究を行います。四人一組で進めるので、早めにメンバーを決めてください」
先生の声が終わるや否や、教室内にはざわめきが広がった。椅子や机を引く音があちこちで響き、みんなが友達同士で声をかけ合い、あっという間にいつもの仲良しグループでチームを作り始めた。
その光景を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられる感覚がした。
今までは、黒羽と二人だけでやればよかった。でも今回は四人組……つまり、他の人にも声をかけないといけない。
「遥、グループのこと決めた?」
と黒羽がこちらを向いて尋ねる。
「……まだ」
私はため息をつきながらも、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
もし断られたらどうしよう? 迷惑だと思われたら? 「面倒なやつ」って思われるくらいなら、最初から声をかけない方がいいんじゃないか……そんな不安でいっぱいになったとき、不意に昨日の神崎さんの言葉が頭をよぎった。
「チャンスは、踏み出せる人のものだよ」
あの自信に満ちた、けれど優しい声が心の中に広がっていく。まるであたたかい流れが胸に染み込むみたいに。
そうだ……彼女が信じてくれるなら、私も少しくらい、自分を信じてみてもいいのかもしれない。
深呼吸をして、スカートの裾をぎゅっと握りしめ、今までにない勇気を振り絞って、ゆっくりと立ち上がる。そして、教室の別の角へ向かって歩き出した。
「えっと……二人とも、もうメンバー決まった?」
小さな声で問いかけながら、顔を上げることさえ怖くて目を合わせられなかった。
クラスの女子二人が驚いたように私を見上げた。心臓が太鼓みたいに鳴り響いて、手も小さく震え、頭の中は「どうしよう」「変に思われないかな」でいっぱいだった。やばい、絶対おかしいって思われたよね……。
「ううん、まだだよ」
片方の子がにこっと笑って答えた。
「誘ってくれるの?」
「う、うん……私と黒羽、まだ二人で……あと二人探してて……一緒に組んでくれないかな……」
息が止まりそうなくらい緊張して、心臓が痛いくらいドクドクしてたけど、どうにか言い切った。
数秒の沈黙のあと、二人はあっさり頷いた。
「もちろん、いいよ。ちょうどどうしようか悩んでたんだ」
え、そんなに簡単に……?
笑顔で頷く二人は、それが本当にただの当たり前のことみたいで、全然ためらいなんてなかった。私はぽかんとしたまま数秒遅れてやっと理解して、目をちょっと見開いた。胸の奥に、不思議な感覚がじんわりと広がっていった。
こうして、私たち四人は無事にチームを組むことができて、それぞれの役割分担やテーマの構想を話し合い始めた。
「遥、すごいじゃん。まさか自分から声をかけてチーム組むなんて思わなかったよ」
黒羽が珍しく少しだけ感心したような表情を見せた。どうやら、彼女ですら私がそんなことをするとは予想していなかったらしい。
「……うん、私もまさか、こんなにうまく他の人と話せるなんて思わなかった。」
苦笑いしながら後頭部をかく。指先が無意識に教科書の端を摘んでいた。
勇気を出して一歩踏み出すだけで、ずっと怖がっていたものを壊せるんだ……今日の私は、ほんの少しだけ前に進めた気がする。
***
放課後、私はいつも通り図書室に向かった。静かな隅の席を見つけて座り、本を開いて黒羽の部活が終わるのを待つ。
でも、今日の気持ちはいつもと少し違った。きっと、自分で一歩を踏み出せたからだろう。心の中にあった重苦しさが、ほんの少しだけ軽くなっていた。
本をめくろうとしたとき、どこか茶目っ気を含んだ声が聞こえた。
「今日はなかなか頑張ってたね」
驚いて顔を上げると、神崎さんが優しい笑みを浮かべてこちらを見ていた。瞳には柔らかな光が揺れている。
「……もしかして、ずっと見てたの?」
「うん。必要になったら出ていこうって思ってたんだ」
わざとらしく片目をつむって、少しだけ身を乗り出す。
「でも、今日の佐藤さんには私の出番なんていらなかったみたいだね」
くすりと笑うその声は、何気なく放たれたものなのに、不思議と心があたたかくなった。
「……本当にありがとう。神崎さんがいてくれたから、勇気を出せたんだ」
心からそう伝えた。もし彼女がいなかったら、私はきっとまだ自分の殻に閉じこもって、人と関わることを怖がっていたんだと思う。
神崎さんは静かに私を見つめ、唇の笑みがいっそう柔らかくなった。目元も少し優しさを増す。
「佐藤さんは、自分で思ってるよりずっと眩しい人なんだよ」
その声は小さくて――でも、まっすぐに胸の奥に届いた。
「もし佐藤さんが、私の目に映る自分を見られたら、きっとそんなに自信をなくさずにいられるんじゃないかな」
心臓が一気に跳ね上がる。頬が熱くて、もうどうにもならない。
「……い、いきなりそんな変なこと言わないでよ」
慌てて顔を伏せる。彼女の優しい目が、どうしても直視できなかった。
「今はまだ、自分が眩しいなんて思えなくてもいいんだよ。でも、少なくとも……私はそう思ってるから」
神崎さんは微笑んだまま上体を起こし、肩を軽くすくめる。
「……今日はこれ以上からかわないでおくね。でも、これからも頑張って。私、ずっと佐藤さんのそばにいるから」
その明るい笑顔を見つめていたら、胸の奥に、今まで感じたことのないざわめきが生まれた。
その言葉が、心を小さく震わせる。不慣れで……だけど、嫌じゃなかった。ただ、神崎さんの存在が、私の中で少しずつ変わっていくのを感じていた。
神崎さんと出会ってから、彼女は当たり前のように私の生活に入り込んできた。最初は正直、少し戸惑っていた。でも不思議と、嫌だとは思わなかった。むしろ……だんだんと拒む気持ちすら薄れていった。
彼女の言葉は、いつも何気ないようでいて、私の考えを少しずつ変えてしまう。ときどき見せる仕草は、私の心拍を乱す。
——私、本当にただ神崎さんのことを知りたいだけなの?
そんな思いが、そっと胸の奥に芽生えた。今はまだ、この気持ちの意味をすべて理解できるわけじゃない。だけど、ひとつだけはっきりしている。
このありふれていて、それでいてあたたかい午後に。私は確かに、自分の殻から一歩を踏み出せたんだ。




