第3話 広がっていく囁き
それからの日々、私たちは表面上はいつも通りの日常のリズムを保っていた。昼休みには屋上で一緒にお弁当を食べ、授業の合間には廊下ですれ違う瞬間にこっそり視線を交わし、放課後も以前と同じように並んで帰る。そうした習慣は変わらなかった。けれど、どこかで何かが——静かに変わっていった。
最初は、あの日あの子に見られてからだった。教室の空気が、ほんの少しだけ違って感じられたのだ。毎朝必ず声をかけてくれていた子は、その日、小さく会釈しただけで慌てて背を向けてしまった。以前はノートを借りに来ていた同級生も、今日は別の子と席を替え、一日中ほとんど私に話しかけてこなかった。
私は馬鹿じゃない。これらの変化が偶然なんかじゃないことくらい、分かっている。
それは、言葉にも態度にも表れない「無音の距離感」だった。あからさまな排斥でもなければ、直接的な敵意でもない。けれど、それは空気の中に静かに漂い広がる霧のように、気づかぬうちに私と世界を、じわじわと隔てていった。
だけど星奈は……まだ気づいていないみたいだった。彼女はいつも通りに休み時間に笑顔で私のところへやって来て、「昼休み、小説一緒に読む?」と声をかけてくれるし、私が疲れているときには耳元で「お疲れさま」と柔らかい声を落としてくれる。
私はいつも笑顔で「大丈夫だよ」と返す。でも本当は、心の中で分かっていた。何かが少しずつ、確かに変わり始めていることを。
階段の踊り場で何度か星奈と鉢合わせした。彼女はいつも通り明るく手を振り、私も自然な笑顔を作った。けれどすれ違った瞬間、背後からひそひそ声が聞こえてくる。
「……あの二人でしょ?」
「そうそう、屋上で見られたって……あの子たちだよね?」
声は大きくなかった。でも風のように隙間から入り込んで、耳にも心にも突き刺さってくる。刃物みたいに鋭いわけじゃない。けれど細い針で何度も刺されるように、じわじわと痛みを残していく。
ある日の放課後。私は女子トイレに入り、手を洗おうとしたとき、ドアの外から数人の足音と会話が聞こえてきた。
「ねえねえ、聞いた? 私の友達の友達が神崎のクラスなんだけどさ」
「なに? また何か噂?」
「神崎って、ほんとに女の子とめちゃくちゃ仲良しなんだって」
思わず手を止めた。水道の下で指先に水滴が落ちていく。ぽたり、ぽたりと掌を濡らす音が、外の声にかき消されていった。
「へえ〜もしかして、あのセミロングの子? この前隣に座ってた子でしょ?」
「そうそう! お弁当一緒に食べてるし、帰り道も一緒で……しかも手をつないでるって」
「手をつなぐ!? マジで? それってやばくない?」
「正直言ってさ……女同士でそういうのって、ちょっと……気持ち悪くない?」
「うーん……まあ仲良しに見えるのはいいんだけどね……でも、やっぱりちょっと変だよ」
彼女たちはわざと声を張っていたわけじゃない。けれど、その一つひとつの言葉は針のように耳に突き刺さった。私は洗面台の前で固まり、指先はまだ水の流れの下に置かれたまま、まるで時間が止まったかのように動けなかった。水の音は途切れることなく流れ続け、冷たさが掌を洗い流していく——でも、私が感じていたのは水ではなく、鋭い痛みだった。
彼女たちは私が中にいることを知らなかったのかもしれない。もしかしたら知っていたとしても、気にもしなかっただろう。だが、もしこの扉を開けて私が出て行ったら……彼女たちが見せるであろう顔はもう想像できた。隠しきれない驚きと動揺、それから慌てて口元を押さえる忍び笑い、そして何事もなかったかのように背を向けて去っていく軽薄な仕草。
——あの二人って付き合ってるんじゃない?
——なんか気持ち悪くない……?
——神崎さんってあんなに可愛いのに、どうして女の子が好きなの?
頭の中が爆撃を受けたみたいに、その言葉が繰り返し響き渡り、ぶつかり合った。胃の奥がぎゅっと縮み、何かに引きずられるように息が詰まる。思わず手に力が入り、指の関節が白く浮かび上がった。冷たい水流でさえ、胸の奥に渦巻く重苦しい混乱を洗い流してはくれなかった。彼女たちの声は止まず、私はただ一刻も早くここから逃げ出したかった。
私は俯いたまま、足早にトイレを出た。廊下の光が一気に明るさを増し、目に刺さるように痛む。心臓は太鼓のように速く、乱打する音が胸の内を揺らし続ける。まるで次の瞬間にでも破裂してしまいそうなほどに。さっきの会話は、形のない影となって背中に貼りつき、どれだけ歩いても剥がれ落ちることはなかった。
恋というものは、一度「見られてしまえば」、たちまち他人の口に上る話題となり、「噂される対象」に変わってしまうのだ。私はずっと信じていた。互いを大切にして、互いを信じ合えれば、それだけで十分だと。けれど今、初めて気づいてしまった。この想いは、もうとっくに「二人だけのもの」ではなくなっていた。一度世界に見つかってしまえば、その視線と評価を背負わざるを得ないのだ。
その瞬間、私は言葉にできない無力感を覚えた。まるで見えない手に押しやられるように、日常の境界から外へと追いやられ、凍えるように冷たい隅へ追い込まれてしまう感覚。そして私は、その想いを誰に打ち明ければいいのかすら分からなかった。
教室の扉を開けると、窓際の席に斜めの陽光が差し込んでいた。その光はやわらかく、これまで幾度となく見上げて安心してきた、あの春の日差しだった。けれど今日のそれは、どう見ても——もうあの頃のように温かくはなかった。




