第2話 屋上の視線
昼休みのチャイムが鳴った頃、陽射しはちょうど心地よかった。布巾で包んだお弁当を手に、私は小走りで階段を駆け上がる。段を一つ上がるごとに鼓動は速まっていく。それは時間に追われているからだけじゃない。あの屋上の扉の向こうに、待ってくれている人がいると知っているから。
鉄の扉を押し開けると、春の気配を含んだ風が頬を撫でていった。星奈はもう壁際に腰掛けていて、水筒を手に、空を横切る雲を仰いでいた。陽光がその横顔を照らし、まるで一枚の静止画のように見える。
「やっほ〜遙、来たんだね!」
私に気づいた彼女は、笑顔で手を振る。その仕草はまるで、私たちが毎日こうして一緒に昼食をとるのが当たり前かのように自然だった。
私は隣に腰を下ろし、お弁当を彼女の前に置いた。
「今日は全部、私が作ったんだ……見た目はちょっと地味かもしれないけど」
「全然地味じゃないよ、すっごく美味しそう!」
星奈の瞳がぱっと輝き、ためらいもなくお弁当箱を開ける。中には、何度も練習した卵焼き、照り焼きチキン、にんじんと豆腐の炒め物、そして小さな型で花の形に抜いたおにぎりを詰めておいた。
「わぁ……かわいすぎない? 遙、こっそり料理系女子に転職したんじゃないの?」
「そんなことないって……ただ、星奈に少しでも喜んでもらいたかっただけ」
彼女は一瞬箸を置き、ふいに私の手をそっと握った。
「もう十分、嬉しいよ」
指先が触れ合った瞬間、心臓が一拍遅れたように跳ねる。ほんの小さな仕草なのに、彼女の掌のぬくもりは、優しい風のように静かに私を包み込んだ。
私たちはそのまま並んで座り、お弁当をつまみながら、星奈の日常の小話に耳を傾ける。先生が新しい眼鏡に替えたとか、今朝二分遅刻したとか、クラスの男子がまたアニメ談義で盛り上がっていたとか。どれも大したことじゃないのに、彼女の口から出る一つひとつの言葉を、私は一字一句逃さず心に刻みたくなる。
そんな時間は静かで、甘やかで、気づけば私は心の中で祈っていた。――こんな日々が、ずっと続きますように。
階段を降りるとき、私たちは肩を並べて教室へと続く階段を歩いていた。窓の隙間から吹き込む風が、星奈の髪をふわりと揺らす。少し俯いて私を見下ろし、そっと囁いた。
「なんだか毎日、遙のお弁当が食べたくなっちゃいそう。どうしよう?」
「……そ、それは金曜日限定だから……!」
私は視線を逸らし、彼女の得意げな笑みをまともに見ることができなかった。
ちょうど階段の踊り場に差しかかったとき、不意に声が飛んできた。
「まあ——さっき、屋上にいたでしょ?」
思わず足を止めた。声の主は同じ学年の、別のクラスの女子だった。普段から噂好きで、誰と誰が親しいのかを一番に嗅ぎつけるようなタイプ。彼女は踊り場に立ち、唇の端に曖昧な笑みを浮かべながら、私たちの繋いだ手に視線を落とした。
「いいお天気だね。二人も仲良さそうじゃない」
その声は軽い冗談のように響いた。けれどどうしても無視できない、「何かを知っている」ような響きが含まれていた。胸を撃ち抜かれたように、私は呼吸さえ止めてしまう。
「ただ一緒にお昼を食べただけだよ」
星奈は笑みを浮かべて答える。口調は穏やかで、まるで何も気にしていないかのようだった。
けれど、私は気づいてしまう。彼女が私の手を、ほんの少し強く握り返していることに。その女子はくすりと笑うと、それ以上は何も言わずに背を向けて去っていった。歩みはゆったりとしていて、まるで景色を楽しんでいるかのように。私はその背中を見送りながら、手のひらにじんわりと冷や汗がにじむのを感じていた。
――さっきの視線は……何かに気づいていたんじゃないか? 私たちの距離は、今日からもう「私たちだけのもの」ではなくなるのかもしれない。
教室へ戻る途中、星奈は自分から私の手を取り、耳元でそっと囁いた。
「大丈夫だよ。誰に何を言われても、私は遙の手を離さないから」
私は顔を上げ、彼女に何か言おうとした。けれど喉がきゅっと詰まって、結局は小さく頷くだけだった。
その瞬間、私ははっきりと気づいてしまったのだ――もしもいつか、私たちのことが世界に知られてしまったとしても、私は星奈と一緒に向き合いたいと。でも……本当にできるのだろうか? 今のように、掌と掌を重ねて、どんな踊り場も一緒に越えていけるだろうか?




