第9話 一年生最後の日
学年最後の一週間。明日は終業式。つまり、この制服を着て「高一生」として一緒に過ごせる日々は、もう残りわずかだ。
その日の午後、教室の掃除が終わって鞄を片づけていたとき、星奈の声が私を呼び止めた。
「遥、ちょっと待って」
振り返ると、彼女は窓際に立っていた。夕方の陽射しが肩から斜めに差し込み、白い袖口をやわらかく照らし出す。その光に抱かれているみたいに見えた。
「今日……一緒に写真、撮らない?」
声はいつもの落ち着いた調子なのに、語尾だけが妙にやさしく沈んで、まるで大切なものをそっと差し出しているようだった。
「えっ、写真……?」
思わず間の抜けた声が出る。星奈は一歩近づき、スマホを軽く振ってみせた。唇の端に小さな笑みを浮かべながら。
「高一最後に一緒に登校した日なんだよ。撮らなきゃ、絶対後悔すると思う」
「……うん、いいよ」
私たちは校舎の裏手にある小さな庭園へ向かった。そこには背の高くない一本の木があり、細い枝にはここ数日で飾られた「進級祈願」の短冊が結ばれている。風に揺られ、カラフルな紙がちりんちりんと触れ合い、澄んだやさしい音を立てていた。
星奈の隣に立ちながら、できるだけ自然な表情を装おうとしたけれど、頬の筋肉はどうしてもこわばってしまう。彼女はスマホを掲げ、少し身を傾けて私に寄り添った。
「もうちょっと近づいて。そっちの方が光がきれいに入るから」
「う、うん……」
シャッター音が響いた瞬間、私は思わず顔をかしげてしまった。そしてその時、ちょうど彼女の視線とぶつかる。おでこが、ほんの少しで触れ合いそうな距離。
「……この一枚、大事に残しておくね」
小さな声でそう言い、スマホをそっとしまった。その声色にはからかいも軽口もなく、ただひっそりと大切な記憶をしまい込むような、やわらかな響きだけがあった。
うつむいた横顔は、夕陽にやわらかい曲線を描かれている。胸の奥に、一瞬だけ浮かんだ言葉があった。どうしても伝えたかった言葉。けれどそれは、やはり声にならず、風にさらわれていった。
写真を撮り終えたあと、私たちは短冊の吊るされた祈願の棚へと歩み寄った。色とりどりの紙が風に揺れ、いくつかは陽射しにさらされて少し色あせている。その一枚一枚にはさまざまな願いが書き込まれていた。第一志望に合格したいとか、好きな人と同じクラスになりたいとか……字はまだ幼く、ところどころ歪んでいるのに、その真剣さに思わず見入ってしまう。
「私たちも、一枚書いてみようか」
星奈がふいにそう言った。
「えっ? 私たちが?」
思わず聞き返してしまう。
「うん。こういうのって……たまには悪くないでしょ。記録みたいに残せるし」
その口調は軽く聞こえるのに、どこか私の知っている星奈らしい誠実さがあった。多くを語らないけれど、ひとつひとつの瞬間を本気で大切にしようとする、そんな彼女の心が。
私たちはそれぞれ短冊を一枚ずつ取り、ペンを手にして庭園の隅のベンチに腰を下ろした。私は書くのが遅く、ペン先は紙の上で長いあいだ止まり、何度も迷っていた、ようやく小さく書き記した。
「これからも、彼女と一緒に登校できますように」
書き終えて、そっと横目で星奈を見る。彼女はうつむき、真剣にペンを握りしめていた。指先が白くなるほど強く。それが大事な言葉であることは、見なくても伝わってきた。彼女は私に見せず、私も尋ねなかった。
短冊を祈願棚に結びつけて、並んで立つ。色とりどりの紙が風に揺れ、未来の形をまだ定めきれないまま、小さく鳴り響いていた。
「……たとえ私たちが別のクラスになっても、遥のそばから離れたりしないよ」
風よりも軽い声でそう言った。思わず息を呑んで顔を向ける。
「もし不安になったら、覚えてて。遥が振り返れば、必ずそこに私がいるから」
その瞬間、庭園の枝葉を風がすり抜け、短冊がかすかに鳴った。けれど、彼女の声はそのすべてよりもはっきりと、確かに響いていた。
私は何も言わず、ただ深く星奈を見つめる。そして、ゆっくりと手を伸ばし、そっと彼女の指を握った。二人は並んで立ったまま、言葉を交わさずにいた。光が少しずつ薄れていき、夕風が沈黙とやさしさを運んで、そっと流れていく。
その日の夕暮れ、私はスマホを開いて、さっき撮った写真を見た。星奈は画面の中で微笑み、顔を私の肩に寄せている。陽射しが彼女の輪郭を淡い金色に染めていて、それはまるで——絶対に失いたくない光のようだった。




