第6話 私の彼女への疑問
鉄の扉をそっと押し開けると、初秋の涼しい風が頬を撫でて、こもった感情を少しずつ攫っていった。雲間から差し込む陽光が白い柵を淡く照らし、まるで世界全体がやわらかな静けさに染まったようだった。
屋上はいつも通り静かで、下の賑やかな校庭とは対照的で、まるでここだけが別の世界——私たち二人だけが共有する場所のようだった。
周りを見渡してもまだ彼女の姿はなく、私はそっと壁際に腰を下ろし、指先で弁当箱の縁をなぞりながら、自然と心拍が少し早くなった。
正直、今も心の中は落ち着かない。
神崎さんみたいな人気者なら、誰とだってお昼を食べようと思えばできるだろう。でも——彼女が応じたのは「私」の誘いだった。学校でいちばん存在感の薄い、この私の。
胸の奥に複雑な感情が込み上げて、鼓動がはっきりと耳に響く。そのとき、不意に背後から聞き慣れた軽やかな声が響いた——。
「ごめんごめん、遅くなっちゃった!」
顔を上げると、神崎さんが小走りでこちらに向かってくるところだった。長い髪が風に揺れて、前髪は少し乱れている。軽く息を切らして頬がほんのり赤く染まっていて、陽射しの中でひときわ眩しかった。
「ううん、私も今来たところ……」
私は慌てて答え、心の高鳴りをごまかそうとした。
「ふぅ……良かった、待たせたらどうしようって思ってたんだ」
彼女は私の隣に腰を下ろし、少し仰ぎ見るように青空を眺めて、口元に安堵の笑みを浮かべた。
「さっきの休み時間も、何人かに話しかけられてさ、ギリギリで逃げてきたんだよね」
「それが『学園のスター』の代償ってやつでしょ?」
思わず茶化すように言ってしまって、普段より素直な調子になった。
「ん? 今のってからかってるの?」
神崎さんはわざと不満そうに私を睨むように見つめたけど、すぐにくすっと笑ってみせた。その声には、ほんの少しだけ諦めたような無邪気さが混じっていた。
「でもさ……こうやって静かにお昼を食べられるの、すごくいいんだよね」
その一言に、胸がかすかに揺れた。
みんなが彼女に近づきたがって、囲んで、話したがる。でも神崎さんが本当に欲しかったのは、こんな静かな時間だったの?
それぞれ弁当を開ける。私のは、お母さんが作ってくれた鮭のおにぎり。神崎さんは、相変わらずコンビニのサンドイッチを手にしていた。
「わぁ、美味しそうだね」
視線が私のお弁当に注がれて、ちょっと羨ましそうな声になる。
「……半分あげよっか?」
ほとんど考える前に口をついて出て、次の瞬間、自分の言葉に気づいて頬が一気に熱くなる。慌てて付け加える。
「あ、別に私も全部は食べきれないし……その……そっちのサンドイッチも半分ちょうだい? それで公平……だし……」
神崎さんは一瞬きょとんとした後、ふっと笑って小さく頷いた。
「ふふ、それじゃあ……取引成立だね」
私たちが食べ物を交換する瞬間、不意に指先が触れ合った——彼女の指は少し冷たくて、それなのに電流みたいに心臓まで伝わって、一気に心拍が乱れてしまった。
彼女はそんな私とは対照的に、何事もないようにおにぎりを頬張って、満足そうに口元を緩めた。
「本当に美味しい……お母さんの手作りって、いいな」
その声は軽やかだったけれど、次の瞬間、神崎さんの表情が一瞬だけ固まったのを私は見逃さなかった。
「……うち、みんな忙しいからさ。もう慣れてるよ」
低く補足するその声は、まるで大したことじゃないみたいだった。
でも私は、その笑顔の奥に小さな寂しさが隠れているのを感じた。
——本当に、慣れてるのかな。
短い沈黙のあと、私は思い切って口を開いた。
「神崎さん……ひとつ、聞きたいことがあるんだ」
神崎さんは小首を傾げて私を見た。瞳に浮かぶのは、ほんの少しの好奇心と、そして警戒。
「……なに?」
私は深呼吸して、ようやく絞り出すように言った。
「どうして……小説、書くのやめたの?」
その瞬間、神崎さんの笑顔がぴたりと止まった。
「神崎さんのあのライトノベル、本当に上手だった。私……すごく好きだったんだ」
彼女の瞳が一瞬揺れて、睫毛がかすかに震えた。答えを探すように、口を結ぶ。
そして、小さく息をついて、苦笑を浮かべた。
「そっか……それが気になってたんだ」
わざと軽い声で言う。
「ただ、私には向いてないかなって思っただけ。将来の進学にも役立たないし、やめちゃった」
言葉は理屈としては真っ当だったけど、その声の端に、少しだけ無理をしている気配があった。
「……本当にそれでいいの?」
私はおそるおそる問い返した。声はほとんど聞こえないくらい小さくて震えていた。
「本当に、諦めきれるの?」
彼女はわずかに視線を上げ、遠くの空を見つめた。口元に浮かべたのは、はっきりしない薄い笑み。
「……そうかもね」
その瞬間、私は感じた。神崎さんの心の奥には、たぶん誰にも触れてほしくないような小さな傷があるんだろうなって。
「ねえ、佐藤さん」
不意に神崎さんが笑って、話題を変えるように言った。
「え?」
彼女が少しだけ身を寄せてくる。柔らかい声色が、心臓の鼓動を一気に跳ね上げた。
「どうして……私と話そうって思ってくれるの?」
いきなりの質問に言葉を詰まらせて、顔が一瞬で熱くなるのが分かった。
「そ、それは……こっちが聞きたいくらいだよ!」
「ふふ、そうかもね」
神崎さんはくすっと笑った。その声は今まで聞いたどんな声よりも穏やかで、優しかった。
「私も上手く言えないんだけど……でも、佐藤さんって、すごく優しくて、すごく正直な人だと思う。佐藤さんといるときだけ、ちょっとだけ本当の自分に戻れる気がするんだ……そういうの、すごくいいなって思ってる」
「そ、そうなの……?」
私は小さく呟いた。心臓がめちゃくちゃに暴れているのが、自分でも分かった。
そして神崎さんはふっと笑って、そっと手を伸ばして私の額を軽く突いた。
「佐藤さんさ、もうちょっと自分を信じなよ。いつも断られるのが怖いって思ってたら、踏み出すことでしか得られないものなんて、ずっと手に入らないよ。チャンスっていうのは、踏み出す勇気がある人のためにあるんだよ」
私は呆然としたまま、彼女の明るい瞳を見つめた。胸の奥が、彼女の言葉でゆっくりと温かく満たされていく。
——そうだ、ずっとその場に立ち尽くしていたら、結果なんて分かるはずもないんだ。
視線を落とすと、手の中のサンドイッチが目に入った。思わず口元がほんの少しだけ緩む。
たぶん、彼女の言う通りなんだろう。私も、もうちょっとだけ、自分を信じてみてもいいのかもしれない。
そしてもう一度顔を上げた。彼女の柔らかくて温かな笑顔を見ていると、胸の奥でぼんやりしていたこの気持ちが、少しずつだけどはっきりしていくような気がした。




