第54話 後
腰の後ろに組んだ手から下がる酒が、ぶらぶらと揺れる。
歩みに合わせて、たぷん、と揺れる酒を時折口に運びながら、ヨンギルは通りを歩いていた。
左右には、小さな露店が通りを埋めるように並んでいる。
相変わらずこの通りは活気であふれている。裕福でなくとも、身の丈に合った毎日を日々暮らす。庶民のすべてがそこに込められているようだ。
ふと、そばの露店の品が目に入った。菓子だ。いつぞやも見た、隣国のものである。そう言われてみれば、この店構えも前に見たことがあるような。
そう思って見回したところで、隣に人の気配が立った。
「主人、珍しい菓子を置いているな」
これも、覚えのある声かけだ。「よくお気付きになった」だの何だのと言って、機嫌よく菓子の説明を始める店主は、前にもまったく同じやり取りを交わした相手であることに気付いていないようだ。
そうしているうちに、店には他の客が立ち寄り、主人は呼ばれてそちらの方へ離れていった。
「―――なんだ、今日は買わんのか」
また素手で菓子を摘まみ、さして興味もなさそうにそれを眺める間諜に、ああ違ったな、とヨンギルは言葉を言い直す。
「今日は買うと言って直前でとんずらをこく、詐欺まがいのことはしないのか」
「俺がいつそんなことをした」
ふん、と短く言い返しながら菓子を放る間諜は、表情を変えないままだ。
いつしたか、だと? 適当なことを言いおって。それでこちらが面倒な目に遭いかけたことを忘れたとは言わせないぞ。
……ああ、そういえば、その持ち前の逃げ足の早さで私の酒を奪い去ったこともあったな。あの酒の恨み、どう晴らしてやろうか。
そんなことをつらつらと考えていると、「聞いたぜ?」と隣から聞こえてきた。
「あの小僧を抱えてやることにしたようだな。なんだ、生き方を変える気にでもなったか?」
指についた菓子の粉を払いながら言う間諜は、こちらを見ることはしない。どこから聞いたのか、ヨンギルがスハの師になったことを知っているようだ。
ヨンギルはちらとその横顔を見やってから、そばに並ぶ色とりどりの菓子を見るともなしに見下ろし、ふっと小さく笑った。
「そんな大層なものではない。ただ、あやつが、どこを翔ぶのか、どこに向かうのか、見届けようと思っただけだ」
答えるヨンギルに、間諜はただ、ふーん、と返してくる。
―――都城の、王宮に。
あの時。
スハの産みの母はどこに、と聞いた言葉に対し、自分の聞き間違いでなければ、あの時ユンファは確かにそう言った。
ユンファが斬られる直前、あの小屋の中で一体どんな会話がなされていたのかは分からない。だが、この国の頂にいるはずのチョンミョンが、わざわざあの場所まで足を運び、直接言葉を交わす程の何かがそこにはあったのだ。
そして、その最中に、ユンファは斬られた。それも、今後もこの世で息をすることを許さない程に深く。
それが、ユンファの死に直接関係があるのかは分からない。だが、スハの本当の親は恐らく、この国の中心にいる。それは、つまり―――。
けれど、ヨンギルはあえてそのことをスハには話さなかった。危険だと分かっているところに、あえて自分から足を突っ込ませる必要はないと考えたからだ。
それに、真実その通りだとして、あの少年の運命が彼を本来の場所に戻すものであるのならば、その運命の方が少年を放っておかないだろう。
私があやつに教えてやるのは、万一その時が来た時に備えておくためだ。……まあ、そんな時は来ないのが一番ではあるがな。
そして、もう一つ、ヨンギルの頭に引っかかっていることがある。
スハは、天命の子―――、あの時、ユンファはそうも言っていた。
「天命」というのが何を指していたのか、もはや知る術は無い。仮に何かの天命を持つ者がいたとして、その内容はその者によって異なるからだ。だが―――。
今の王宮にも一人、「天命」と呼ばれるものを持つ女人がいる。
それは、ヨンギルが大王の元を離れるきっかけとなった女人だ。
たしか、大王との間に生まれた子を不慮の事情で失くしたと聞いたが、それ以来何の話も聞こえてこない。辺境の地にいるせいもあるかもしれないが、生きているのか、死んでいるのかすらも不明だ。
果たして、あの女人の天命と、スハの天命は、無関係なものなのだろうか。
そして、ふ―――っと、頭の端を何かが掠める。
産みの親が忍ばせたのだという、スハのあの首飾り。ふいに、それとよく似たものを昔どこかで見たことがあるような気がした。
漆黒の上に、燦然と揺れる白銀の印。それを確かに、自分は見た覚えがある。
あれは、どこだっただろうか。……いや、誰の首元だっただろうか―――。
思い出そうとする頭に、何か靄のようなものが広がっていく。手を伸ばせば届くところに核心がある気がするのに、それは徐々に濃く深く白い靄に包まれていって、どんどん遠ざかっていく。まるで、核心を掴むことを見えない何かに阻まれているようだ。
「―――どうした、急に黙りこんで」
ふいに横からかけられた訝し気な声に、ヨンギルの思考は一気に現実に引き戻された。今しがたまで考えていたことは、もはやその影すら感じられない程、遥か彼方遠くへ消え去っている。
……なんだ? 私は今、何を考えていた―――……?
その感覚に少々眉を顰めつつ、「何でもない」と返すヨンギルに、「やはり、剣仙は剣仙だな」と間諜は呟いた。
「なんだ、どういう意味だ」
「気まぐれに俗世に現れては、気まぐれに去っていく。だが、そこに残される者はたまったものじゃない。あの小僧がそんな仙人に振り回されんことを祈ってるよ」
その言葉に、ヨンギルは瞳を瞬いた。
今のはなんだ、皮肉か。気まぐれに動いて、その責任も取らずにその場を放棄すると。
「待て、気まぐれに動くのはお前も同じだろう」
人のことを言えた義理か、と思わず隣を指差して振り向いたヨンギルだが、それを向けた相手はそこから既に姿を消していた。
また絶妙な瞬間にいなくなるものだ。その察知能力はどう身につけたのか、今度会ったら聞いてやろう。
そう息をついて、ヨンギルもその場を離れた。
ふと見上げた空を、黒い影が通り抜ける。白みの強い薄い中にあっては目立つ、大きな影だ。
鴉か―――。
しばし足を止めて、飛んでいくその影を眺める。
影が遠くに見えなくなり、ようやくヨンギルは再び歩き始めた。
家に戻ると、縁に胡坐をかいてスハが書物を開いていた。そばには、床を拭いていたらしい雑巾が放り出されている。
少し前、ちょうどやって来たスハに掃除を命じて、散歩に出かけたところだったのだが。
あいつは、またさぼっているな。
生垣の中に入り、大袈裟に咳ばらいをしてみせた。あ、と気付いたスハが顔を上げる。
「戻るまでには終わらせていろ、と言ったはずだが? お前はそんなところで何をしている」
「ねえ、これの続き書かないの?」
投げかけた問いに対し、返ってきたのはまったく異なる答え。ヨンギルは軽く息をつきながら、掲げられた書に目をやった。
剣術指南之書―――。
手慰みに書いて、放っていたものだ。元々あるものを書き写したものだ、とスハには説明していたはずで、自分が書いたものだと言った覚えは無い。
「そんなの見れば分かるよ。こんな分かりにくい出来のものが、世に出回ってるわけがない」
「お前……、仮にも師匠に対して、何だその言い草は……」
だが、スハはそんなヨンギルの言葉など聞こえていないかのように、「続き、書けばいいのに」などと呟きながら次を捲っている。
ヨンギルは再び息をつき、どん、と縁に酒を置いた。そして、スハが手にしていた書物を取り、ぱらぱらと捲る。
「こんなもの、書いたところで何の足しにもならん。あとで火にでもくべてしまえ」
「ええ、なんで。もったいない」
「分かりにくい出来なんだろう。残しておく必要もない。そんなものはごみだ、ごみ」
言いながら、スハの方にぽいと放る。元々、誰に向けて書いたものでもない。人に見せようと思って書いたものではないのだ。それに、伝える相手が一人なのに、わざわざ書に残す必要も無い。それよりも。
傍らの少年の胸元に向けた目を僅かに細め、ヨンギルは口を開いた。
「それより、スハよ」
「何?」
「その首飾りだが、もう少し人目に触れぬようにしておけ」
「は? なんで?」
まったく、こやつは。いちいち歯向かわんと気が済まんのか。
「いいから、そのように衣の上ではなく、肌の一番近いところにでもしまっておけ。いいな?」
念を押すヨンギルに胡乱な表情を浮かべつつ、スハはそれを衣の下にしまう。
確信があるわけではないが、それはあまり人目に触れぬ方がよい。今日、そう感じた。
よくよく考えてみれば、いかにもいわくありげなスハの身の上を表すものに、これ以上の代物はない。見る者が見れば、ひと目で分かる何かであることは間違いないのだ。そんなものを、わざわざ表に出している必要はない。
それに、それだけではない何かが、その首飾りにはあるようだ。
この首飾りが「白い鴉」のように見えることと、何か関係があるのだろうか。
先程の妙な感覚を思い出しながら、ヨンギルは傍らの少年を見やる。雑巾を放り出したままのスハは、何が面白いのか、まだ指南書を眺めている。
こんな首飾りが、一体なぜスハの手元にあるのか気になるところではあるが……。まあ、今は考えても仕方のないことだな。
ヨンギルは自身の気持ちを切り替えるように、「それよりなんだ、この拭き方は」と言いながらスハの頭をはたいた。
「スハ、これがお前の思う掃除か? まったくなってないぞ」
そばの木枠の桟に指をかけ、さっとそこに指先を走らせる。指の腹を見ると、拭ききれていない埃がこびりついていた。片眉を上げてそれをふっと吹き飛ばし、大げさに呆れてみせる。
「何が「鴉は翔ぶことをやめない」だ。これでは翔ぶどころか、鳴くのがせいぜいな雛だな。いや、雛ですらない。そこに転がっているだけの、ただの卵だ」
言って、隣家との垣根のそばに新しく設けた鳥小屋を指した。中には鶏が三羽おり、適当に藁を敷いた中には、卵が二つ転がっている。「痛いなあ」と頭を押さえるスハは、「ていうか、なんだよあの鶏」と不服そうに声を上げた。
「なんで急にあんなもの飼う気になったんだ?」
「知らんのか。鍛えるのに、卵ほど栄養のあるものは無いのだぞ」
「へえ、それじゃあ、わざわざ俺のために?」
「馬鹿言え。誰がお前のためだと言った。私のために決まっておろうが」
「は?」
「私の鶏が産んだ卵だぞ。すべて私のものに決まっている」
「あの鶏の世話をしてるのは、俺なんだけど」
「だからどうした」
当然の顔で言うと、心底辟易した様子で「……なんでもない」とスハは息をついた。
「鶏に、鳥小屋に……。よくそんなもの飼う金があったな。すぐ酒に使いきるくせに」
「黙れ。借りた金ならとうに返しただろうが。それに、お前は知らないようだが、私は結構金持ちなのだ」
「はあ? これのどこが」
言って、家の様子をぐるりと見回す。言外に、かなり失礼なことを思っているのが伝わってくる。
こいつめ、どんどん生意気になってきおる。口調も改めろと言ったのに、気付けばそのままだ。辛うじて、呼び方だけは師匠が続いているが、それもいつまで保つか。
「無駄口はいいから、さっさと掃除せんか!」
再び、スハの頭をはたく。今度は、先程よりもやや強めに。痛っ、と頭を押さえたスハは、しぶしぶの体で雑巾を手に取り、縁を拭き始めた。
それを眺めながら、人知れず、ヨンギルはそっと口元を緩める。
まあ、安心しろ。覚悟は決めたのだ。たとえ何があっても、かつてのように、お前まで途中で放り出すことはせんさ。
置いていた酒を取り、ぐいと傾ける。
軒の先に見えるのは、清々しい空だ。それに、眩しく目を細める。
まだ卵と大差ない雛が、これからどう大きくなるのか。どこを翔び、どこに向かうのか。
最後までしっかり見届けてやろう。
流れる白い雲にそう思って、ヨンギルは再びぐいと酒を煽った。
こちらで、第二部は完結となります。
最後はヨンギル視点、少し長めのお話になりました。
次の第三部は、少し大人になったスハ達の姿をお見せする予定です。その前に、少しだけ番外編を入れるかも?
引き続き、白い鴉をよろしくお願いします!
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