第53話 進
遠くで、鴉が鳴くのが聞こえた。
木戸のつまみを掴んだ形のまま、ヨンギルが動きを止める。
あの時、ユンファを救うために出て行こうとしたスハを阻んだヨンギルには、自分を受け入れる義務があるはず―――それを言えば、どんなにしらばっくれていようと聞く耳を持たざるを得なくなる。
真面目に取り合う気がなさそうなヨンギルに対し、分かっていてそれを口にした。
思った通り動きを止めたヨンギルは、木戸のつまみを掴んだ形のまま、こちらを振り返ることなく低く呟く。
「……弟子入りなどして、何をしようと言うのだ」
低い口調のまま、だが背は向けた形のままで、ヨンギルは続けた。
「力を欲しているのは、仇討ちのためか。お前の母が、そんなことを望んでいるとでも?」
「仇討ちなんて、しようとも思わないし、できるとも思ってない。俺はただ、真実が知りたいだけだ」
「真実?」
「母さんがなんで殺されなきゃならなかったのか。俺はなんで今ここにいるのか。一体、俺は誰なのか。でも、それを知るためには力がいる。今のままじゃ、奴らがいるところに近付くことすらできない」
ユンファを死に追いやった奴ら。奴らがいるところは遠く離れていて、その場所は、少し力をつけたくらいでは到底及ばない遥か彼方にある。そこに行くためには、果てしない程の力が必要なのだ。
「だから、俺は強くなりたい」
ここ数日、ずっと考えていた。想像もできないような果てしない力を手に入れるためには、どうすればいいか。
何度も考えて、そしてようやく、ヨンギルに話す覚悟ができたのだ。
己の決意を強く答えたスハに、だがヨンギルは低い口調のまま問う。
「―――この世を知らぬお前に、天を相手にすることができるのか?」
「え―――?」
つまみから手を離し、ヨンギルが静かに振り返った。
縁の下から見上げるスハを、今度はヨンギルが見下ろしてくる。その顔は影になっていて、そこにどんな色が宿っているのか読み取ることはできない。
「真実を知るということは、天にも近しい場所にいるあの者たちと、対等に肩を並べるということだ。それが、どういうことか分かるか」
低く問うヨンギルを、スハはただ見上げる。ヨンギルの口調は静かで、どうしてか、ヨンギル自身も何かの「覚悟」を前にしているように思えた。
「一歩でも間違えば、簡単にそこから落とされる。そのまま奈落の底に落ちて、二度と戻れない。にも関わらず、こちらのことなどまったく歯牙にもかけていない向こうには、その一存で容易にすべてを覆せる力がある。立ち上がろうとしたことすら、後悔するかもしれない。まさに、天―――、お前が相手にしようとしているのは、そういう連中だということだ」
日が暮れる。遠くで鴉が鳴いている。
「お前は、天が恐ろしくはないのか」
圧するような強い視線に、ぐっと一瞬だけ喉が詰まった。だが、それは本当にほんの一瞬。
唇を固く引き結んでヨンギルを見上げていたスハは、やがてゆっくりと口を開いた。
「―――たとえ、空に呑み込まれることがあったとしても、鴉は翔ぶことをやめない」
答える手が、自然と胸元に動いた。そこには、白い首飾りが下がっている。産みの親が忍ばせたという、あの首飾りだ。
自分を産んでくれた人が誰なのかは知らない。だが、今までソンジェとユンファが守り、この首飾りを繋いでくれたのだと思えば、大切に思えないわけがない。
受け取った時には戸惑いの方が大きかったが、胸にかけている内に少しずつ馴染んで、近頃ではようやく自分の一部だと思えるようにもなってきている。
スハはその首飾りを、気付けば右手で強く掴んでいた。なぜか、この鴉の白い首飾りが、自分が求めている場所へと導いてくれるような気がしたからだ。
しばらく睨み合って、やがて、ふ……っとヨンギルの気配が緩まるのを感じた。緊張で張り詰めていた空気が、一気に和らぐ。
「……ああまったく、お前ときたら……」
小さく呟きながら、はあ、と嘆息したかと思うと、ヨンギルは急にどっかりとその場に腰を下ろした。そして、まるで自身にも呆れるようにがしがしと頭を掻きながら再び大きく息をつき、立ったままのスハを見上げる。
「分かったよ、私の負けだ」
「え……?」
「まるで端から負けが決まっている賭けに乗るような気分ではあるが……。しかし、そうだな……、本当にお前の言う通りならば、どれ、ひとつ、その賭けに乗ってみるとしようじゃないか」
そうして、言いながら、自分自身を納得させるように、また大きく息を吐き出す。
「え、何? それは結局、どういうこと……?」
「受け入れてやると言っとるんだ、この馬鹿者」
「え、受け入れ……? てことは、弟子にしてくれるってこと……? え、ほんとに!? 嘘じゃなくて!?」
思わず瞳を瞬くスハに、ヨンギルは睥睨するように斜めに視線を寄越してきた。
「……お前は私を何だと思っとるんだ。こんなことで嘘をついてどうする」
「じゃあ、本当なんだな! やった! ありがとう、おじさん!」
先程までの雰囲気で、まさか受け入れてもらえるとは思っていなかった。
急に緊張が解け、足から力が抜けてよろめきかけるのを、なんとかすんでのところで堪える。そして、スハは盛大に安堵の息を吐き出した。
「―――ところで、スハよ」
「え、何?」
「お前、白い鴉などいないと言っていなかったか?」
「へ?」
急に言われた意味が分からず、きょと、と見返すと、縁に胡坐をかいたヨンギルは半目になってスハを見上げた。
「先程言っていたではないか。空に呑み込まれたとしても、鴉は翔ぶことをやめないと。その鴉というのは、ほれ、その「白い鴉」のことじゃないのか」
顎をしゃくるように、ヨンギルはスハの胸元を示す。そこには、先程まで握りしめていた首飾りがある。
「それを首から下げるようになって、お前もやっと白い鴉を信じる気になったかと思ってな。何やら感慨深いものだ」
「何言ってるんだ、おじさん。信じるも何も、俺は別に白い鴉のことを言ったわけじゃないよ。そうじゃなくて、さっきから鴉が鳴いてるのがずっと気になっててさ。気付いたらそう答えてただけだ」
「む、何だと?」
「ていうか、そもそもこれだって、ただ白い石にたまたま鴉が彫られてるだけだろ。ただそう見えるだけで、別に白い鴉ってわけじゃないじゃないか。白い鴉なんて、ただの与太話だよ」
首飾りを見下ろしながら何でもない顔でスハが言うと、「お前は……本当に夢のない奴だな」とヨンギルは思いきり眉をしかめた。そして、その顔のまま、ふいに何かをこちらに投げつけて寄越す。
合図も何もなかったため受け止め切れず、べしょっ、となんだかひどく湿った音を立てながらスハの腕に当たって落ちたのは、薄汚れた雑巾だ。
「な、雑巾……!?」
いきなり何するんだよ!、とスハが目を剥くと、ヨンギルは、かかかっ、と今まで見たどんなものよりも意地の悪い笑みを浮かべて、楽しそうに腕を組んだ。
「ほれほれ、何をいつまでもそんなところに突っ立っている。私の弟子になるというのなら、今日から早速やることは山ほどあるぞ。まずは、この家の掃除だ」
「……は?」
状況が呑み込めないスハを尻目に、ヨンギルは嬉々とした様子で次々と指折り並べ立てていく。
「それから、そうだな……、水汲み、炊事、洗濯、……ああ、壁の修繕と、そこの戸の紙もすべて貼り直してもらおうか」
「な、何言ってんだ、おじさん。それじゃあ弟子なんかじゃなくて、ただの雑用じゃないか!」
なんか、思ってたのと違う。弟子ってもっとこう、動きが素早くなる方法とか、力が強くなる方法とか、そういうのを教わる修行のようなものを想像していたのに、これは全然違う。
羅列されていくヨンギルの言葉にぱくぱくとただ無意味に口を開閉するスハに対し、ヨンギルの言葉はまだ止まない。
「ああそうだ、その「おじさん」という呼び方も変える必要があるな。うむ、これからは私のことを「師匠」と呼べ」
「は? 師匠?」
「は? とは何だ、は? とは。私に弟子入りするのだから、師である私のことを師匠と呼ぶのは当然のことだろう」
「ええ、そういうもんなの……?」
思わず口をへの字に曲げて首を傾げると、もう一つ濡れた雑巾が飛んできた。今度もよけきれず、なお悪いことに、今回は顔の方に思いきり、べしょっ! と張り付いたあと、剥がれるように落ちていく。
「……うへえっ!」
「その口調もなっておらんな。師に対しては、常に敬う心を持つことだ。今までは多めに見てやっていたが、私の弟子となれば話は別。その口調と心持ちも改めてもらうぞ」
「……口調はともかく、心持ちの方はおじさんの日頃の行いのせいもあると思う」
「うん? 何だと?」
落ちた雑巾を指先で摘まみ上げながら呟いたところでじろりと見られ、「ああっ、冗談だよ、冗談―――」と返しかけるが、その眼光がさらに鋭くなり、スハは慌てて「―――です」とそこに付け加えた。
さっきまでめちゃくちゃ圧をかけてきてたくせに、この変わり身の早さは一体何だ。
満足そうに頷くヨンギルに、ぐぬぬ、と思わず唸りかけるが、ここで逆らっては弟子入りをなかったことにされる可能性もある。それだけは避けたい。……避けたいが、しかし。
「弟子たるもの、まず第一に、師匠の身辺を常に整えておくことを心掛けよ。話はまずそれからだ」
「……おじさん、いきなりちょっと調子に乗り過ぎじゃないか? ……ああ、いや、師匠……!」
大仰に腕を組んでふんぞり返っているようにも見えるヨンギルから、再びじろりと見られ、反論は呑み込んで、大人しく言うことを聞いておくことにする。
受け入れてもらえたはいいが、まったく予想外の方向で、明日から忙しくなりそうだなあ……と思いながら、スハは夕暮れに飛んでいく鴉の影を遠い目で見上げた。




