第52話 考
「ただいま」
薪拾いを終えてドハン達と別れ、いつものように大量の薪が詰まった背負子を庭先に下ろしたあと、水場で手を洗って土間へと向かう。
昼ご飯の用意をしていたソンジェを手伝い、庭先の縁台の上で乾燥させていた薬材を少しだけ片付けて、そこに小さな円台ごと昼ご飯を運び、ソンジェと二人、向かい合って食べ始める。
少し前まで、昼間はまだ夏のように暑い日々が続いていたのに、気付けばもうすっかり秋だ。庭の柿の木には重そうな実がいくつもぶら下がっており、すり抜ける風も穏やかで、朝晩は少し冷え込む日もあるくらいだ。
ユンファがいなくなって、しばらく―――。
ようやく、少しずつ暮らしが落ち着いてきたところだ。
初めは、生活のすべてが立ちいかなかった。何をするにも、ユンファがもういないことをまざまざと感じさせられ、何も手につかず、食事すらもままならない。スハはもちろん、ソンジェもそんな調子で、今までどんなに体調が優れない時でも仕事を休んだことがなかったソンジェが、しばらく薬房を閉じた。
見かねた近所の奥さんたちが、炊事や洗濯の手伝いは買ってでてくれたが、立ち直るのにはしばらく時間がかかった。
けれど、どんなに塞ぎ込んでいても、働かなければ食べてはいけない。外にはソンジェの薬を待っている人も大勢いる。半ば無理やりにでも薬房を開く準備を始めたソンジェに、初めはスハもただ無心になってその準備を手伝い始めた。
そうしているうちに、少しずつ、本当に少しずつ、ユンファがいない、ソンジェとスハ、二人だけの暮らしをつくっていったのだ。
気付けば季節が完全に変わり、少しずつ近付く冬の気配すら感じる程になっている。
心に大きく開いた穴が塞がることはないとしても、日々の暮らしに明け暮れていれば、ほんの少しだけ、その痛みを忘れられる瞬間もでてくるようになってきた。
「―――父さん、」
目の前で黙々と箸を動かすソンジェを見やり、スハは少し前から考えていたことを口にしてみることにした。
「思ってたんだけど、薬房の仕事に、炊事、洗濯、他にも家のいろんなこと、毎日父さん一人で全部やるのは大変だろ?」
「なんだ、急にどうした。そりゃあ、楽にこなせてるわけじゃないが、だがそのどれも、お前も手伝ってくれてるじゃないか」
「そうだけど、そうじゃなくて。俺はあくまで「手伝ってる」だけで、やってるのは基本的に全部父さんじゃないか。そうじゃなくて、そのうちの一つか二つくらいは、これからは俺がやろうかと思ってるんだけど」
「一つか二つ?」
ソンジェが箸を止め、怪訝そうにスハを見る。それにうん、と頷き、スハは言葉を続けた。
「その中の炊事と洗濯くらいは、俺がやろうかと思って。その方が父さんの負担も減るし、薬房の仕事にも集中しやすいだろ?」
「お前……、「くらい」と言うが、炊事も洗濯も、どちらも楽なもんじゃないぞ?」
「分かってるよ。でもこのままじゃ、いつか無理がくるって父さんも思ってるだろ? だから、そうするのがいいと思う」
「だが、そうは言ってもな……」
箸を止めたまま、ううむ、と唸るソンジェに、スハは残りのご飯をかき込み、「まあ、考えといてよ」と座を立った。
「俺だって、最初から上手くできるとは思ってないよ。母さんがいた時だって、手伝うことはあっても俺だけでやるなんてことはしたことがなかったし。だから、最初はやっぱり失敗すると思うけど、でも、長い目で見れば絶対そうしておいた方がいいと思うから」
そう言って、ごちそうさまでした、と円台ごと器や箸を土間に片付け、まだ唸っているソンジェに「ちょっと出かけてくる」と言って外に向かう。
「なんだ、また出かけるのか。忙しい奴だな」
「うん、ちょっとね」
答えながらソンジェに軽く手を上げ、スハは家をあとにした。
家を出たその足で、スハはヨンギルの家に向かった。
既に日は高いが、この時間、ヨンギルはまだ寝床に転がっていることが多い。だが、もしいなかったとしても、帰ってくるまで待つつもりでいた。
少し、話したいことがあった。今日中に、必ず話しておきたいことだ。
途中、ヨンギルの家に向かう手前で、トボクに会った。会ったというより、傷のせいで草鞋を履くのにも難儀している様子が庭先から見えたため、それを手伝ったのだ。
ようやく履き終えて、すまなかった、とトボクに謝られた。もっと早く知らせていたら―――、いや、助けられる力が自分にあれば、ユンファは死ななくて済んだかもしれないのに―――、と何度も謝られた。そんなトボクに、「そんなことない、トボクおじさんは十分頑張ってくれたよ」と、スハは何度もその肩を叩いた。
そして最後に、今回のことで力を尽くしてくれたことに感謝を伝え、トボクの元を離れてヨンギルの家へ向かった。
まだ寝ていると思っていたヨンギルは、珍しく出かけているようだった。土間や厠まですべて見て回り、その不在を確認したあと、帰ってきたらすぐに気付けるように入口の生垣のところで待つことにする。
ヨンギルが帰ってきたのは、日が傾き始めた夕方近くになってからだった。
「―――スハ、そこで何をしている」
抱えた膝に顔を埋めるようにしゃがみ込んでいたスハは、その声に顔を上げ、ゆっくりと立ち上がる。
風に乗ってヨンギルから仄かに漂ってくる酒の匂い。またどこかで呑んできたあとのようだ。
まったく、このおじさんは。
小さく呟きながら尻についた土を払い、スハはヨンギルの前に立った。訝し気にそれを見守っていたヨンギルを、「―――おじさん、」とスハはまっすぐに見上げる。
「おじさんに、頼みがある」
「頼み? 何だ」
「俺を、おじさんの弟子にしてくれ」
「は? 弟子だと?」
ヨンギルは驚いたように一瞬止まったあと、だが急に聞く気をなくした様子で、「一体何の弟子だ」と返しながら足の向きを変え、生垣の中に入っていく。
その反応は、ある程度予想していた。頼んだところで、簡単に受け入れてもらえるとは初めから思っていない。ヨンギルの背を追って、スハも中に入る。
「おじさん、「強い」だろ。ただの酒呑みのフリしてるけど、本当はそうじゃない。そこら辺の奴らじゃ敵わないくらい、本当はすごく強いんじゃないのか? 前に振り回してたっていう剣だって、演舞の練習なんかじゃなくて、本当に剣が「使える」んだろ?」
「はは、それもまた、一体何の話だ。私が強いだの、剣を使えるだの、何を根拠にそんな話をしている」
縁に座って草鞋を脱ぎながら、まるで真面目に取り合う気がないように、ヨンギルは笑いながら続けた。
「お前の言う通り、私は正真正銘ただの酒呑みだ。できるのは酒をたらふく呑むことくらいで、他には何もない。お前とて知っているだろう」
「それは、おじさんがあえてそう振る舞ってるだけだろ」
草鞋を脱いで足先の汚れを払うヨンギルの前に立ち、スハは言い募る。
「根拠ならある。ちょっと前に、山賊から助けてくれたじゃないか。あれ、たまたまじゃないよな?」
「はて、そんなことがあったかな。酔った勢いでやったことなど記憶にないわ」
まったく身に覚えがないというように頭を掻くヨンギルは、言いながら縁に足を上げ、中に入ろうと腰を上げる。
だが、ここで行かれては、ようやく決意を固めて待っていた今日が無駄になる。一度断られたくらいで簡単に引き下がる気は毛頭ないが、それでも、今日ここに来たのだって簡単な気持ちで来たわけではない。
そのまま木戸を引こうとつまみに手をかけるヨンギルに、「そういうことにしておきたいなら、それでもいいよ」とスハは鋭く放った。
「おじさんにだってそうする理由くらいはあるんだろう。―――でも、少なくとも、あの時俺を止めたおじさんには、俺を受け入れる義務があるはずだ」
ヨンギルの背に、強くそう放った。
近頃、ずっと考えていたことだ。
奴らに近付くためには、自分自身がまず、そうできる力を手に入れなければならない。それには、既にその力を有している人間に教えを乞うのが一番だ。
ここで、簡単に引き下がるわけにはいかない。




