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第50話 哭

 早く―――。

 疾く―――。


 千切れてもいい。もう、使えなくなってもいい。

 だから、間に合ってくれ―――。


 既に限界を超えている足で、スハは走った。


 まだユンファを探しているソンジェの元へ。何が起こったのか、まだ何も知らない父の元へ。


 走って走って、ようやく見つけたソンジェに早口で状況を説明し、それが終わらないうちからソンジェの腕を引っ張ってまた走り出す。


 ともすれば砕けそうになる腰を、もつれて転びそうになる足を、必死に叱咤(しった)して前に進み続ける。

 とにかく、間に合ってほしい、その一念のみがスハの足を動かしていた。


「母さん―――!」


 けれど。


 草木をかき分け、ユンファとヨンギルが待っているはずの小屋へ急ぐ。開け放たれた小屋の中へ、なだれ込むように駆け込む。そして。


「母さん! 父さんを連れてきたよ! これでもう大丈夫! 父さんの薬で手当てすれば、こんな傷すぐに―――」


 ヨンギルに抱きかかえられたユンファのそばに膝をつき、スハは明るい声で、駆け込んできた勢いのままに言葉を連ねた。だがそこで、はっと止まる。


 ユンファの瞼が、固く閉じられている。声をかけているのに、ぴくりともしない。それを抱え、見下ろすヨンギルの顔も、不自然な程に静かだ。


 ざわり、と胸が騒いだ。


「か、母さん……?」


 おず……と伸びた手が、ユンファの肩を揺らした。その体は無抵抗に揺れるばかりで、何の反応も示さない。どころか、二、三度それを繰り返したところで、まるで力を失ったように、ぱたり……と腕が落ちた。


「……か、母さん……」


 我知らず喉が引き攣り、掠れた声がもれる。


 固まったように閉じられた瞼。反応を示さない体。落ちた腕。

 そのすべてが、何かを象徴しているように感じる。


 そんな、まさか。そんなはずない。そんなはずは―――。


「……っ、母さん! 母さん!!」


 両手でユンファの肩を掴み、強く揺すった。なのに、ユンファは目を開けるどころか、まったく動かない。


 スハは、ぐっと奥歯を噛み締めた。泣きたくもないのに、勝手に涙が浮いてくる。視界がどんどん塞がっていく。 


「……俺だよ、スハだよ! 戻ってきたよ! ねえ、起きてよ! 何か、俺に話があるんでしょ? 今、聞くから……、だから、起きて……! 母さん……、母……っ」


 掴む手が、ぐっしょりと濡れた朱に染まっていく。それは既に冷えきり、少し前まで体の中を流れていたとは思えない程に冷たい。

 気付けば、あれだけ大量に胸から溢れていた血も、嘘のように止まっている。


 ざっと音を立てるように、一気に血の気が引いていく。ユンファを掴む手が、がくがくと痙攣するように震え始める。


「……あ、……ああ……」


 違うのに。そうじゃないのに。


 たしかに、溢れ出る血を止めたいと思った。ソンジェの薬であれば、それができると思った。だから走ったのだ。


 でも、これは違う。こんな、まるで生きることをやめたように、流れを止めてほしかったわけではない。それなのに。


「母さん……! 起きてよ……! ねえ、目を開けて……っ、……母さんってば……!」


 堪えきれない叫びが溢れ出る。


 こんなはずじゃなかった。ユンファを助けるために走ったのに。なのに、こんな―――。


「母さん……、いやだ、嫌だ……! 母さん……!」

「スハよ……」


 ユンファの体を激しく揺すり続けるスハの手を、ヨンギルが上からそっと押さえた。


「残念だが、ユンファは、もう……」


 呻くような苦しげな声で、沈痛な表情のヨンギルが言った。


「ユンファ……」


 それを契機に、とさ……と、戸口に立ったままだったソンジェがまるで糸が切れたようにその場に膝を落とした。

 力の抜けた虚ろな瞳を這わせ、手をつくようにして動かないユンファのそばまで寄ると、地に落ちたままだったユンファの手をゆっくりと包む。そして、そっと慈しむように、血に濡れたユンファの頬に震える手を添わせた。


「……っ、ユンファ……!」


 その時初めて、スハはソンジェが泣く姿を見た。痛切な程のその慟哭(どうこく)に、ようやくスハは、ユンファが目を覚ますことはもう二度とないのだということを思い知る。


「……母さん……、なんで……」


 喉から、嗚咽にも似た掠れた呟きがもれた。


 待ってて、て言ったのに。絶対待っててね、て言ったのに。


 ひと筋伝った涙が、冷たく頬を濡らす。そこから、堪えていたものが、堰を切ったように止め処なく溢れた。


「……話が……、話があるって……言っ……てた、のに……、俺、何も……聞かずに……っ」


 こぼれるものを、止めようと思うことすらできなかった。幼子(おさなご)のように激しくしゃくり上げながら、動かないユンファにスハは取り縋る。


「ごめんなさい……! 母さん……、ごめ……、ごめんなさい……っ!」


 悔やんでも、悔やみきれない。 


 大事な話があると言うユンファを置いて、ここを離れなければよかった。

 その言葉を無視せず、ちゃんと聞いておけばよかった。

 あとで聞けばいいなんて、思うんじゃなかった。「あとで」なんて、もう二度と来ないのに。


「……っ、……ごめんなさい、……ごめんな、さ……」


 そこに残って話を聞くことは、認めるようで嫌だった。

 ユンファに残された時間が、もう僅かしかないことを。何をしても、もう助かる術がないことを。これが、最後になるかもしれないことを。


 その現実を認めるのが嫌で、ありもしない希望に縋りつきたくて、その場を離れた。

 助けるためなんて、ただの詭弁(きべん)だ。本当は、ただ怖かっただけで。その現実に向き合うのが怖くて、ただ逃げ出しただけだ。


 でも、そのせいで、自分に必死に何かを伝えようとしていたユンファの最期の言葉を、聞くことができなかった。


「ごめんなさい、母さん……! 謝るから……、だから、逝かないでよ……! ……っ、うわああああああ……っ!!!」


 いくら悔やんでも、悔やみきれない。過ぎた時間は、巻き戻すことができないのだ。


 失ったものは、もう二度と取り戻せない。


 終わることのない後悔と悲しみに、スハは涙が枯れるまで泣き続けた。


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