第8話 計
ソンドの部屋をあとにしたユノは、兵が守る扉を振り返り、深いため息をついた。
ほんの少し対峙しただけだというのに、この疲労感は何だ。属国と宗主国としての付き合いはまだ始まったばかりだというのに、この先のことを思うと気が重くなる。
あれだけ明確に釘を刺したのだから、今回の視察で何かをどうにかしようとすることはないだろうが、この次はどうなるか分からない。
属国とはなったが、光海国がそのままの形で残っていることがどれ程恵まれたことで、その分、忠義を示さなければならないと思っているのも確かだが、それ以外のこととなれば話は別だ。
すべてがただの取り越し苦労であればいいが、恐らくソンドはヒャンに対して一方ならぬ念を抱いている。
ユノの表情が途端に険しくなる。
何かが起きる前に策を講じなければ……。
眉間に深い皺が刻まれ、剣を帯びた瞳が細められる。もう一度深くため息をついて、ユノはその場を立ち去った。
回廊を遠ざかっていく足音が聞こえなくなるのを待って、ソンドはギテを呼んでくるように外の兵に伝えた。
部屋に一人になったソンドは、卓上の躑躅に手を伸ばし、触れたその一つをぶつりと引きちぎった。そして、そのままぐしゃりと握りつぶす。
いくらかは、愉しいひと時であった。
脳裏に、ちらと先程のファン・ユノの首飾りが蘇る。
曇りの一切ない石英はかなり珍しい。恐らくその稀少な白玉を使っているのだろう、鴉の彫刻が施された銀の首飾り。
鴉といえば、普通は黒。だが、あの首飾りはまるで、勇壮な白い鴉がその堂々たる白翼を広げているようにも見える、実に見事な意匠だった。
銀糸の刺繍が施されたファン・ユノの漆黒の衣に、あの白銀の首飾りはよく映える。
あれがファン・ユノの誇りそのものなのだろう、と容易に想像できる。
とはいえ―――。
この世に二つとない貴重な代物。それだけで、ソンドの気は大いにそそられる。
思わず舌なめずりをして、だがソンドはそれをなんとか押し留めた。今は、それよりもっと欲しいものがある。
ユノの「牽制」を思い返し、ソンドはふっと目を細めた。
先程、答えを迫ったソンドに対し、言葉を返したユノの瞳は全く揺れていなかった。それどころか、強い眼差しが突き刺さるようにソンドに注がれていた。
忠義を尽くしたのだと言う言葉は、確かに筋が通っていた。だが、思惑は別にあったのだろう。
忠義のために、ユノが堂々とヒャンの天命を認めたのは公然の事実だ。その上で、ソンドがヒャンに手を出せば、それはユノの忠義を裏切ることになり、ソンドの不義になる。
ソンドの「頼み」はあくまでも冗談として流し、忠義を名分に釘を刺そうということだ。
―――ふん、面白い。
だが、それしきのことでこのクァク・ソンドが止められると思っているところが、まだまだ青い。
卓上の茶器に手を伸ばし、まだほんのりと湯気が立ち昇る茶を口に含む。口内に広がる香ばしい香りを感じるように、ソンドは目を閉じた。
先人たちも成し得なかった夢、三景統一。
ソンドが何よりも惹かれるその言葉を持つ者の姿が、茶の香りと重なる。
ユノがあそこまで躍起になって自分を阻もうとするのも分かる気がする。ヒャンの姿を鮮明に思い描いたソンドの口元に、微かに笑みが広がった。
惹かれているのは、天命だけではない。瞼の裏に、あの儚げな相貌と匂い立つような美しさが浮かぶ。
―――――欲しい。
猛烈に湧き上がる感情。
その激しい思いが、歯止めを失った激流のように身の内に広がる。
ヒャンの姿を思い浮かべ、胸の奥がちりっと焼けるのをソンドは感じた。
ヒャンを見ていると、なぜか胸の奥が熱くなる。しかも、胸が焼けるというのに、不思議と不快ではない。どちらかというと心地よく感じるその熱の正体を、なぜか無性に知りたいとソンドは思った。
それは、ファン・ユノをあそこまで躍起にさせる何かと関係しているのかもしれない。
「失礼いたします」
一礼し、音もなく近寄る側近に、ソンドは目だけを向ける。ぎらりと底光りする鷹の目が、その鋭さを増していることに気づき、ギテは頭を下げた。
「―――決められましたか」
「……ああ」
短く答え、ソンドは腰帯から玉牌を引き抜いた。すべてを察した様子のギテが、それを恭しく受け取る。
「王命だ。機会は一度きり。失敗は許されぬ」
低く呟いたソンドに静かに頷き、ギテは踵を返した。
その背を見送り、ソンドは卓上に活けられた躑躅に目をやった。微かに甘い香りを放つ花に触れ、にたりと嗤う。
「存分に堪能した次は、摘み取ってやらねばな……」
欲しいと思ったものは、どんな手を使っても必ず手に入れる。
例えそれが、義に反することでも。ファン・ユノが、いくら釘を刺そうとも。
初めて見えた時には強い目だと感心したあの眼差しにも、もう飽きた。我が行く手を阻む者は、誰であっても容赦はしない。
「ファン首長、そなたの言う通り、このクァク・ソンドの臣であることを存分に思い知らせてやろう」
そして臣は、主には絶対に逆らえないのだ。
クァク・ソンドの一行が光海国の視察を終えて紫微国に戻ってから、幾ばくもしないうち―――。
光海国の西の境を隣接する吏那国との国境付近で、盗賊が暴れているという知らせが入った。盗賊は近くの村々を焼き払い、蹂躙し、非道の数々を繰り返しているという。
境には曖昧なところがあり、このまま盗賊が暴れ続ければ、光海国だけの問題ではなく、吏那国、さらには、こちらも同じように境を隣接する紫微国まで巻き込んでの、国同士の争いに発展しかねない。吏那国は紫微国にとっても、その属国である光海国にとっては当然、敵国にあたる国だ。国の争いに発展する前に、早急に盗賊を討伐する必要がある。
光海国の首長であるファン・ユノは、討伐のための兵を率いて吏那国、紫微国との境付近に向かった。