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第40話 影

 ―――あら?


 ソンジェとスハが出かけたあと、薬房(やくぼう)の片づけをしていたユンファは、(えん)の隅に置かれていた包みを取り上げ、首を傾げた。

 中を開いてみると、そこには大小の包帯を巻いたものが入っている。


「父さん、持っていくのを忘れたのかしら」


 薬箱を入念に確認していたソンジェが、その中にしっかり包帯を詰めていたのはユンファも見ている。であれば、ここにあるのは予備として用意していたものだろうか。


 火祭りの夜は、当然ながら火傷の怪我人が多く出る。通常、火傷には、すり潰した薬草を塗り込み、その上から包帯を巻きつけて火傷の鎮静化を図る。そのため、大量の包帯が必要になるのだ。


 もしかしたら、必要ないと考えて置いていったものかもしれないが、今まで予備として用意したものをソンジェがそのまま置いて行ったことは一度もない。不要だとしても、所定の位置に片付けてから行くのが、ソンジェという人だ。


 忘れていったのなら、届けないときっと困るわよね……。


 火祭りが始まってしまえば、もし包帯が足りなくなっても、取りに戻る余裕など無いはずだ。包帯は、無ければ困るが、たくさんあっても困るものではない。


 ユンファはそれを包み直し、脇に抱えて外へと向かった。


 既に日が沈んでいることもあり、皆が祭りに向かっているようで、近くの家々はしんと静まり返っている。流れてくる風に、遠くの賑やかな喧騒がほんの僅かに感じられる程度だ。


 じゃり。


 流れてくる喧騒の方へ向かっていたところ、ふと、背後でそんな音が聞こえた気がした。

 が、聞こえた気がしたのはその一度だけで、そのあとは何も聞こえてこない。


 気のせいかしら。


 ユンファは思いながら、少し足を引きずるようにしつつ、また足を動かし始めた。


 じゃり……。


 再び聞こえた音に、びくっ、と足を止める。


 やはり、後ろを誰かが歩いている。だが、もし本当にそうなら―――妙だ。


 ユンファの進む足はゆっくりだ。少し前に聞こえたのが足音なら、普通であればその相手はとうに自分を追い越しているはずだ。けれど、後ろにいる相手は足音を立てるだけで、一向にユンファを追い越していかない。まるで、ユンファのあとをゆっくりとついて来ているようだ。


「―――……っ」


 それに気付いた瞬間、ぞくり、と悪寒が背筋を走った。足を止めているにも関わらず、……どっ、どっ、どっ、どっ! と心臓が急に早鐘を打ち始める。


 背後に誰かがいるにも関わらず、完全に足を止めてしまっている今の状況が、急にとてつもなく恐ろしいことのように思えてきた。


 こうしている間にも、誰かが後ろから襲い掛かってくるかもしれない。いや、今この瞬間も、相手は立ち止まり、息を殺してこちらの動向をうかがっているかもしれない。その想像の方が、遥かに恐ろしい。


 ユンファは弾けるようにその場から走り出した。脇に抱えていた包みを取り落としてしまうが、構っている余裕はない。渾身の力を振り絞り、自分にでき得る限りの速さで足を前に運ぶ。


 そうだ、先日もこんなことがあった。請け負っている縫物の仕事を終えた、帰り道でのことだ。その時も、誰かにつけられている気がした。あの時は、遠くにスハとヨンギルの姿が見え、そこから急に追われているような気配は消えたけれど……。


 なぜ追われたのか、そもそも本当に追われていたのかも分からない。だが、今後ろにいるのは、その時と同じもののように思う。


 影が、ざっと動く。一気に距離を詰めてくる気配が、まざまざと感じられた。


 どぐり―――、と心臓が騒ぐ。


 何か、思い出すものがある。


 ―――そうだ、前にも、こんなことがあった―――。


 先日のことではない。もっと、遠い昔。ここではない、どこかで―――。


 夜闇を橙に染め上げる炎。

 しんと静まり返った中に響く足音と、自分の激しい息遣い。

 そして、暗闇に閃く鈍い光。―――己の死が、はっきりと近付いてくる、とてつもない恐怖。


 それは、確実に自分の中に刻まれた記憶。


 だが、いつ、どこで―――。


 思った時には、ユンファは多数の影に囲まれていた。




 ◇   ◇   ◇




 人々が、通りを連れ立って駆けていく。子どもも大人も関係なく、嬉々としてそちらへ向かう。どの顔にも、浮かんでいるのは高揚だ。

 この先を行けば、火祭りの中心広場である。誰もがそこへ向かっているのだ。


 そんな喧騒とは離れて、ヨンギルは細い通りが臨める小さな酒場で一人、酒を傾けていた。


 誰もが火祭りに向かう夜とあっては、酒場にはほとんど客はいない。ちらほらとはいるが、それだって片手で数える程度だ。


 大王の活躍を称える祭り。


 だが、燃え盛る炎は、まるでその侵略の勢いを表しているようだ。その火は、全てを燃やし尽くすまで消えることはない。


 火は諸刃の剣だ。人々の生活に必要なものではあるが、使い方を一歩でも間違えば命取りになる。

 大王の活躍の裏で、その炎に踏みにじられる人間がいることに目を向ける者は、ほとんどいない。


 また、前の通りを親子連れが過ぎていく。それを眺めて、ぽつりとこぼれた。


「……皆、物好きよなあ」

「あんたは行かないのかい?」


 空いた卓の片づけをしていた酒場の女将が、わざわざ振り返って言う。


「火事と喧嘩はどこそこの華、て言うだろう」

「何だそれは、初めて聞いたぞ。それに、あんな人だかりの中に行くより、私は酒でも呑んでいる方がよいわ」


 火祭りの夜は、通りは人でごった返し、前に行くにも後ろに行くにも思うように進めない。

 広場を出発した男衆は、燃え盛る松明を手に村中を駆け巡る。火の粉を振りまいて回ることで、厄を払う―――ということになっているらしいが、それ優先になってしまうため、帰りたい時に帰れない。


 中には、旅芸人を見物する人だかりもできているはずだ。隣人のトボクも、今頃はそんな連中に交じって、通りの片隅で下手な歌を披露しているだろう。


 毎年、火祭りの日には歌いに行っていることを知っている。こんな日に呑気にあの歌を聴く人間がいるのか、と首を傾げたくもなるが、トボクにそういうことは関係ないらしい。それを思い出して、自然と笑いがもれる。


「一年に一度の夜だってのに、ただ酒を呑んで明かすだけなんて、あんたも物好きだねえ」


 言って、女将は通りの方に目をやる。また、祭りに向かう連中が前を過ぎたところだ。先程から女将は、人が通る度にそうやって通りに目をやっている。


「気になるなら、行ってきたらどうだ? 店番なら私がしておいてやるぞ?」

「だめだよ、あんたに任せたら店の酒全部呑まれちまうじゃないの」

「はは、バレておったか」


 笑うと、女将は呆れたように「まったく」と呟き、片付け終わった器を下げていった。


 そんなことをしていると、遠くから太鼓の鳴り響く音が聞こえてきた。どうやら、祭りが本格的に始まったらしい。


 どん……、どん……、どん……と、初めはゆっくりと始まった太鼓の音は、次第にその速度を増し、どどどどどど! と絶えず耳朶(じだ)を打ち始める。

 男たちの息遣いや、力強く走り出す足音―――、聞こえるはずのないそれらまで聞こえてくるようだ。


 器の酒に細かな波紋が広がる。ヨンギルはそれに視線を落とした。

 響く振動が大地を伝って、卓を振るわせている。それを受けて、酒までが震えているのだ。


 鳴り響く音に、大地が、大気が振動している。


 それを感じるでもなく、流すでもなく、目を閉じて酒を吸う。そして、傾けたその酒を呑みきろうかという時―――、


「ぎやあっ……!!」


 酒場の裏手の方から、陶器が割れる激しい音と、耳をつんざくような女将の叫び声が聞こえた。


 ヨンギルは急いで卓を立ち上がる。柱の影を曲がって、ようやく女将の背が見えた。その足元には、割れた破片が飛び散っている。恐らく、先程下げていった器だ。裏にある洗い場に足を向けて、そこで見た何かに驚いて落としてしまったようだ。


 まるでそこに縫い留められたように立ち尽くす女将の視線の先には、息も絶え絶えという様子で(うずくま)る大きな影が見えていた。


「な……っ、お前は、トボク……!?」


 立ち尽くす女将を押しのけ、ヨンギルはすぐさまそこに駆け寄る。裏の通りの方から入ったのだろうトボクの顔は、真っ赤な血に濡れて、額には大量の脂汗が浮いていた。


「お前、その傷はどうした……!何があった!」

「お、おじさん……っ」


 倒れ込んだまま荒い呼吸を繰り返すトボクを抱き起し、必死に揺さぶる。閉じていた目を辛うじて開けたトボクは、ヨンギルの姿を認めるなり、


「た……、大変だ……! 早く……、早く、人を……っ」


 震える手でヨンギルを掴み、必死に何かを伝えようとしてくる。だが、痛みがよっぽどなのか、トボクの口からはそれ以上の言葉が出てこない。


 ヨンギルはさっと視線を走らせ、トボクの傷の具合を確認した。

 右肩から左脇腹にかけて、大きく胸を斬られている。だが、犯人にトボクを「殺す」意図はなかったようで、致命傷という程には深くはない。しかし、それは現時点で、というだけで、放っておけば出血量が(かさ)み、どちらにしろ命が危うくなる。


 このままではまずい……!


 ヨンギルはトボクを抱いたまま振り返り、大きく声を張り上げた。


「女将、すぐに医者を呼んでくれ! ……いや、祭りの方に、薬房のソンジェがいるはずだ。先にソンジェを探してくれ!」


 ソンジェならば、必要な薬をすぐに用意できるだけでなく、多少の医術を施すこともできる。なんせ、その元を教えたのはヨンギル自身なのだ。今この場に必要なのは、その辺の適当な医者よりも、確実な知見を持ち、ヨンギル同様に対処できるあの男だ。


 ヨンギルは、頷いた女将が走り出したのを確認したあと、急いで上着を脱いだ。そして、それを一気に裂き、まだ血が溢れるトボクの傷をそれで強く縛る。


 そうして、その場でできる応急処置を急いで施していった。


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