第31話 素
これからお堂に籠ると言うチョンミョンの元を辞し、言われた通り、あてがわれた自分の部屋へ戻る途中。
「どこで、何をなさっているんですか?」
斜め後ろに付き従う、というより、もはやほぼ隣に近い位置を歩くヒョリが、周りに誰も見えなくなった辺りでこちらを向いた。
「昨日も、その前もですよ。深くは聞かずにいようと思っていましたが、王女様、ただ部屋を抜け出しているだけじゃないですよね?」
「え? 急にどうしたの?」
首を傾げるセヨンに、ヒョリは何かを怪しむように、目を眇めてこちらを見てくる。
「いくら考えても、わざわざ部屋を抜け出してまで、このお寺に見るものがあるとは思えないんですよね。それに、先程の……『白い鴉』、でしたっけ? あんな話、どこから聞いて来たんですか?」
「それは、さっきも言ったじゃない。このお寺の僧侶に教えてもらったって」
平静を装って答えるが、ヒョリはふっと笑ってひと言呟いた。
「嘘ですね」
確信に満ちた顔で、迷うことなく否定する。どうしてか分からないが、ヒョリの中には、そう言いきれるだけの揺るぎない何かがあるようだ。
「王女様がそのように素直に事情を説明されるとは思えません。そういう時は、たいてい裏があるのです」
「ふふ、何よそれ。いつだって、私に裏なんてないわ。母上様の前でそれを話してしまったのは確かに失敗だったけれど、私はただ、お寺の近くを散策しているだけよ」
ヒョリにどんな自信があろうと、認めさえしなければ、それはどこまでいってもただの憶測に過ぎない。だから、セヨンは軽く笑って受け流すことにする。
―――とはいえ、チョンミョンはもちろんだが、このヒョリも、あまり長く正面から対峙していると、気を付けていてもボロが出そうになる。ということで。
「もういいから、この話はおしまい!」
そう打ち切って、セヨンは再び前に立って歩き始めた。が、歩き始めたところで、向こうから別の女官見習いが一人、こちらへやって来るのが見えた。
急ぎ足でやって来たその女官見習いは、セヨンに一礼すると、ヒョリに近付き、何やら小さく耳打ちをする。その内容は当然セヨンには聞こえないが、耳打ちをされた当のヒョリは腑に落ちない様子で首を傾げている。
「どうしたの?」
再び一礼をして女官見習いが立ち去ったあと、セヨンはヒョリの方を向いた。
「何か伝言?」
「ええ、そのようなのですが……」
歯切れの悪い様子で答えるヒョリは、片眉を寄せて首を捻っている。
「よく分からないのですが、スハという者が、私に会いに来ていると言うのです」
「えっ!?」
「お寺の入口の方で待っていると言うので、王女様がお部屋に戻られたあと、少し行ってきますね」
「ま、待って!」
思わず、ぐっとヒョリの腕を掴んでしまってから、あ……っ、とセヨンは慌てて手を引っ込めた。
「あ、ごめんなさい。ええと……そうだ! 少し喉が渇いてしまったから、部屋に戻ったらお茶を淹れてほしいんだけど……」
そちらに行くよりお茶を淹れる方を優先してほしいな、という気持ちを込めて上目遣いで見つめる。だがヒョリの方は、とてつもなく胡散臭いものを見るような目でセヨンに言った。
「―――王女様、つかぬことをお伺いいたしますが、」
「な、何かしら」
「まさか、王女様に限ってさすがにそんなことはないだろうとは思いますが―――」
ゆっくりと腕を組んで斜めにこちらを見下ろす姿は、もはやどちらが主か分からない。
「私の名を騙って、誰かと会ったりしてないですよね?」
「ええと、それは……」
質問の体を取っているが、ヒョリの言葉には確信の響きがある。だが、証拠となる存在が実際に待っているというのだから、これ以上の言い逃れはできない。セヨンは諦めて、素直に頷くことにした。
「だって、そうするしかないでしょう? 着ていたのはヒョリの服だし、実は王女だと言うわけにもいかないし」
「だからって、そのまま会い続ける人がいます? その者なのでしょう、抜け出して会っているのは」
「だって、この辺りを案内してくれるって言うんだもの。一人で行くよりはいいでしょう?」
もはや開き直って話すセヨンに、ヒョリはここに来てもう何度目かも分からないため息をついた。
「だからと言って……」
「だって、初めてなのよ」
理由を挙げようと思えば、いくらでも思いつく。けれど、結局はその一つなのだ。
「立場も何も関係なく、純粋に「友達」と呼べる相手ができたのは。私だって分かってるわ、これが正しいことじゃないってことくらい。でも、初めての友達なんだもの。できるだけ大切にしたい。だから、お願い!」
そして、顔の前で両手を合わせ、きらきらと光る瞳でヒョリを見つめる。
「もう一度、その服を貸してくれないかしら」
「な……」
セヨンの懇願に、完全に言葉を失くしたようにヒョリがぱくぱくと口を開閉する。
あら、ヒョリったら、そんなお魚さんみたいに―――と思っても、口にはしない。渾身のお願いのために、さらに言葉を尽くす。
「大丈夫よ、母上様は明日の朝までお堂に籠るというし、気付かれることはきっと無いから」
「ですが、王女様、」
「ね、お願い! 早くしないと、スハが帰っちゃう」
両手を合わせたまま、強く見つめる。今や、互いの顔は文字通り目と鼻の先だ。
やがて、耐えきれなくなったように「もうっ!」とヒョリは顔を逸らした。
「なんでそう向こう見ずな行動ばかりしようとなさるんですか。これでは身がいくつあっても足りないですよ、私の!」
その言葉に、セヨンはぱあっと表情を明るくした。既に長い付き合いだから分かる。これは折れてくれたということだ。
「ありがとう、ヒョリ!」
「まったく……、仕方なくですからね」
「ええ、もちろんよ。もしバレても、嫌がるヒョリを私が力づくで説き伏せたって言うから」
そうと決まれば善は急げ、と自室に早足で向かい始めたセヨンについて歩きながら、けれどヒョリはまた小さく息をついた。
「ですが、バレるのもそろそろ時間の問題だと思いますよ?」
「ええ、だから、母上様の前では細心の注意を払わないとね」
「いえ、そちらだけではなく」
「え?」
「いえ、なんでもありません」
ヒョリの言葉は聞こえているようで聞こえていない。セヨンはにやけそうになる唇を必死に噛み締め、自室へと急いだ。
昨日はギテに見つかりそうになったから、外に出るのなら、今日はそんなことがないように十分気をつけなければ。
そう心に刻みながら、先程までヒョリが着ていた女官見習いの衣装を纏い、セヨンはスハが待っているというお寺の入口の方へ急いだ。
「ヒョリ!」
入口の辺りをうろうろと歩きながら待っていたらしいスハは、セヨンの姿を見つけるなり大きく手を振ってくれた。その満面の笑みに、ふふ、とこちらも笑顔になってしまいつつ、こっち、と物陰の方へ手招きをする。二人で話しているところを誰かに見られるのは、さすがにまずい。
「なかなか来なかったから、今日はもう会えないのかと思った」
笑って言うスハに「遅くなってごめんなさい」とセヨンは少し目線を下げる。
「ちょっと、手が離せない用事があって」
「大丈夫だよ。むしろ、約束もせずに来たのはこっちだし。逆に、急に来て迷惑じゃなかった?」
「ううん、それは全然!」
両手をめいっぱい振って否定するセヨンに、スハは軽く驚いたようにしてから、ふっと噴き出して「そっか、よかった」とまた笑った。
「実は、今日はちょっと、ヒョリに見せたい場所があってさ」
「見せたい場所?」
「うん。ほら、今日は天気もいいし」
人差し指を立て、頭上できれいに晴れた空を指して言うスハに、セヨンはただ首を傾げる。
その場所と今日の天気がどう関係しているのかは分からないが、話すスハはとても楽しそうだ。
「そこ、俺の一番お気に入りの場所なんだけど、他のやつには内緒の場所なんだ。そんなに遠くはないから、あまり遅くなるってことはないと思うけど、もし時間があれば―――」
「行く!」
スハが言い終わる前に、セヨンは身を乗り出して返事をしてしまう。
「スハのお気に入りの場所なんでしょう? 私も行ってみたい!」
遠くに行くのも、帰りが遅くなるのも問題はあったが、頭で考えるより先に口がそう動いていた。けれど、そのことを反省する前に、目の前でスハがとても嬉しそうに笑っていて、自分がそう返事をしたのは正解だった、むしろそれ以外に答えはなかった、とセヨンは思ってしまった。
どうしてか、こちらまで嬉しくなる、そんな笑顔だ。
「よしっ、それじゃあ、行こう!」
差し出された手を「うん!」と握って、並んで歩き出す。
初めて会った時は、出された手に戸惑って断っていたけれど、今となってはそれが嘘のようだ。この手を握っていれば何も怖くない、自然とそう思えていることが不思議だ。
「うん? 何?」
繋いだ手を見下ろしていると、スハが不思議そうにこちらを振り返る。それに、「ううん、なんでもない」と返して、セヨンはぎゅっとその手を握った。




