第27話 汁
はあ、俺のタラ汁とおこげ……。
布のかけられた平籠の中身を思い、はあ、と大きくため息をつきながらスハはヨンギルの家へ向かう。
自分の分は食べたとはいえ、満腹にはもう少し足りない。せめて匂いだけでももう少し……、と布の下に鼻を寄せながら歩いていると、
「あはっ、はっ、はっ、はあーっ!」
ヨンギルの家へ向かう道の手前に差し掛かったところで、突如、なんともいえない珍妙な声が聞こえてきた。
「いひっ、ひっ、ひっ、ひいーっ!」
少しの間を空けながらも、声は変わらず続いている。発声は微妙に違うが、それでも聞こえてくるのは同じ声で、それが激しく珍妙な声であることに変わりはない。
トボクおじさん、またやってるんだ……。
それ程早いわけではないが、まだ一日は始まったばかり。外に出て動き出している者が昼間より少ない分、その気が抜けるような、逆に耳につくような、もはや素っ頓狂とも言えるようなおかしな声が、ここまでよく聞こえてくる。
「うふっ、ふっ、ふっ、ふうーっ!」
歌芸人を目指すトボクが、独自の不可思議な発声練習を日夜問わずほぼ毎日行っていることは、この辺りでは有名な話だ。トボクいわく、昔憧れの歌芸人に教えてもらった、いい声を出すために必要な発声練習らしいが、その話がどこまで本当なのか知る者はいない。
だがそれが、近くに住む者にとって歓迎すべきものかというと当然そうではなく、特に、隣に住むヨンギルには、かなり頭の痛い話のようだ。
二人がいつもそのことで口論しているのを思い出し、スハはなんとも言えない心地でその声を聞いた。
ヨンギルではないが、これはたしかに、朝っぱらから聞かされたら気が滅入るかもしれない。
「よお、なんだ、スハじゃないか」
家の手前で足を止める形になっていたスハに気付き、トボクが軽く手を上げて声をかけてくる。その首には手拭いがかけられ、朝からいい汗かいたぜ、と言わんばかりの満足そうな笑顔が浮かんでいるのが見える。
「どうしたんだ、こんな朝っぱらから」
その朝っぱらから庭先で妙な声を上げているトボクには言われたくないだろうな、とご近所の人々のことを思い、ははは、とスハは乾いた笑いを浮かべた。
「ちょっと、朝ご飯にこれを届けに」と言って、布がかけられた平籠を掲げて見せると、「ああ、おじさんのとこか」と納得したようにトボクは頷いた。
「スハも大変だな。こんな朝早くから、おじさんの世話なんて」
「世話っていうかなんていうか、ははは……」
「ああ、そういえば、おじさん、ようやく働く気になったみたいだぞ」
「えっ、何だって!? 働くって、おじさんが!? ほんとに!?」
汗を拭きながら、何でもないような様子で言うトボクに、スハは驚きのあまり、声が裏返りそうになりながら聞き返した。
あの呑んだくれのおじさんが働く気になったなんて! それが本当なら、天地がひっくり返るくらいの衝撃だ!
だがトボクの方は、まったくけろっとした顔で軽く首を傾げる。
「何って、なんだよ、スハも知らなかったのか? あのおじさん、昨日一人で剣舞の練習をしてたんだ」
「け、剣舞?」
それはまた、一体何の話だ?
ヨンギルが働く気になったという話だと思ったが、聞き間違いだったのだろうか。
藪から棒に、突然始まった話の意味が分からず、スハは困惑の表情を浮かべた。
「なんかよ、昨日ちらっと隣を覗いてみたら、庭先で立派な刀剣を振り回してたんだ。あんなもの、どこから持ってきたのか知らねえが、陰で相当練習を積んでたな、あれは。まったく、おじさんも芸人を目指してるなら早く言ってくれればいいのに。隣人なのに、水臭い」
トボクはぶつぶつと言いながら、昨日ヨンギルがそんな風にしていたのか、首にかけていた手拭いを掴み、それっぽいような形でぶんぶんと振り回し始める。
おじさんが芸人を目指してる? しかも、剣舞だって??
年中呑んだくれているヨンギルが働く気になったらしいというだけでも衝撃なのに、その上、芸人に、剣舞だなんて。俄かには信じがたい話だが、トボクには嘘を言っているような様子はない。だが、とはいえ。
「おじさんが刀剣を振り回してたなんて、見間違いじゃないの? おじさんの家には何度も言ってるけど、そんなもの、今まで見たことないよ」
「けど、振り回してたのは事実だぜ? まあ多分、刀剣自体は偽物だと思うけどな」
トボクは言って、「まったく、ほんとに水臭いな……」とまた小さくぼやきながら、隣のヨンギルの家の方を見た。
日が完全に昇りきる前にヨンギルが起きているということはほぼ無いので、今日も多分そうだろうなあと思いながらヨンギルの家に行くと、やはりスハの思った通りだった。
生垣の中に入り、庭先から呼んでみるが、何の反応もない。それを何度か繰り返して、それでも変わらない状況に、「まったく、いい大人が……」とため息をつきながら、スハはヨンギルの家の縁に上がった。
「朝だよ! いつまで寝てるんだ」
ガコン! と思い切り木戸を引いて中を覗くと、狭い板間には布団も敷かずに転がっているヨンギルの姿があった。
周りには飲み干された酒瓶がいくつも転がっており、部屋のいたるところに、脱ぎ捨てられた衣服や、読むためにあるとは到底思えない書物が散乱しており、控えめに言ってもひどい荒れ具合である。
その様子に、はあ、と呆れつつ、一度身を引き、平籠から盆に移したタラ汁とおこげを手に、今度はその部屋の中に遠慮なく上がり込む。
「おじさん、ちょっとは掃除しなよ。人が住んでるところだとは思えないぞ」
二日酔いに大きな音は、頭に響くとは知っている。が、スハの方にそれを気遣うつもりは毛頭ない。ひどい顔色のヨンギルが、迷惑そうにこめかみを押さえながらのっそりと起き上がるのを見ても、まったく無視だ。
転がっている酒瓶を蹴ってどかし、空いた場所にガチャンと盆を置く。
「母さんが持って行けって。酔い覚ましによく効くからって、タラ汁。あと、おこげも」
半身を起こしたまま、まだこめかみを押さえているヨンギルに、呆れ顔の半目で言う。
まったく、呑んだくれもここまでくると、人としてどうなのかと問いたくなるような有り様だ。
どうすればこの狭い部屋をここまで荒せるのかも、もはや分からない。いや、狭いからこそ、こうなのか。どちらにしろ、いい歳して、このおじさんはもう少し「己を律する」ということを覚えた方がいい。
そんなことを思っている横で、のそのそと動き出したヨンギルは、「タラ汁か……、有難い……」と言いながら、盆の上の匙に手を伸ばした。
実はこの盆も、匙も、最後に使ったのがいつなのか分からない程、あちこちに蜘蛛の巣がかかった土間からスハが発掘してきたものだ。そのままでは埃を被っていて使えないため、きれいに洗い落としてからここに持ってきたものである。そのことに、ヨンギルは気付いているのだろうか。……いや、きっと気付いていない。
タラ汁をひと匙掬って口に運び、噛み締めるように味わうヨンギルは、「はあ……」と息をついて、次のひと匙を口に運ぶ。
「うちの母さんのタラ汁は、沁みるだろ」
「ああ、ユンファに礼を言っておいてくれ」
ひと口、ひと口……から、徐々にがつがつと口に運び始めるヨンギルに、「だから、酒も程ほどにした方がいいって言ってるのに……」と呆れ気味にスハは呟く。その呟きは絶対に聞こえているはずなのに、ヨンギルは知らない振りでタラ汁を口に運び続けている。
まったく……。
胃に優しいタラ汁のおかげか、食欲も出てきたようで、ヨンギルは隣のおこげも掴んでばりばりと頬張り始めた。
「……ぐっ、ごほっ……!」
「はい、水」
すかさずスハが差し出した水で、とんとんと胸を叩きながら詰まりかけたものを押し流し、再び食べ始める。その勢いは、もはや凄まじい。この水を入れた器も土間からスハが発掘してきたものだとは、もちろん気付いていないに違いない。
そうして、二日酔いに苦しんでいたとは思えない程凄まじい勢いで完食したヨンギルは、最後に「……ぐげええっっ!」と蟇蛙のような盛大なゲップをかまして、ようやく匙を下ろした。
本当は、スハがもう少し食べられるはずだったものたちだ。二日酔いのお腹に、満足いっぱいに食べられたことを、もっと感謝してほしいと思う。
……まあ、どうせそのことにも気づかないんだろうけど。




