第6話 疑
「私が三景統一を狙っていることは、ファン首長も知っているだろう?」
微かに笑みを孕んだような声が壇上からかけられる。
「……ユノ様」
俯いて険しい表情を浮かべるユノの手に、ヒャンはそっと自分の手を重ねた。
外に漏れるはずのない話が、どのようにソンドに伝わったのかは分からない。だが、今問題なのは、誰が漏らしたのかということではなく、この場をどう切り抜けるのかということだ。
これがただの憶測から出た言葉であれば、いかようにも言い逃れることはできるかもしれない。だが、確信を持っての言葉であれば話は変わってくる。既に属国となったこちらが、宗主国の君主であるソンドに偽りを告げることは、謀反の意ありとみなされる可能性だってある。
どんなに小さくとも、しくじれば容赦なく切り捨てるのがクァク・ソンドという王なのだと聞いている。否と告げればこの場は収まるかもしれないが、後々、光海国の民に大きな災厄が降りかかる可能性は高い。それだけは、なんとしても避けなければならない。
首長であるユノには、何よりも光海国の民を守る義務がある。三景の王母になるというヒャンの天命が事実である以上、下手なことは言えないのだ。
だが。
実のところ、三景の掌握を狙うソンドにヒャンの天命が知られてしまうことを、ユノはずっと危ぶんでいた。天命が悪用されるようなことになれば、ヒャン自身の身もどうなるか分からない。
押し黙ったユノが何を懸念しているのか、ヒャンにもよく分かっていた。それでも。
初めに問いを投げかけたのはギテだが、それ以上に、ソンドの突き刺すような視線がこちらに向けられているのを感じ、ヒャンの背がぞくりと震える。
「案ずるな」
心を決めたように小さく呟かれたユノの声に、ヒャンははっと我に返った。
瞳を閉じ、腹の底に力を溜めるようにして息を吐き出したユノは、ヒャンの手を強く握り返し、すっくと立ち上がる。そして、双眸に力を込めてソンドを見据えた。
「……先の戦による禍根を全て水に流し、我らを「紫微国の陣営」と仰ってくださる大王様の広いお心を信じて、申し上げます」
低く静かな声で、ユノは告げた。その場の誰もが、次の言葉を逃すまいと意識を傾ける。
「先程のチャン将軍の言葉………、まことに、ございます」
宴席にどよめきが広がる。各所であがる声には目もくれず、ただ一点のみを注視するユノの視線を追って、ヒャンはソンドを見つめた。表情は先程と寸分違わないが、その口端が俄かに吊り上ったのを捉える。
「―――――ほう?」
それまでとは違った低く凄みのある呟きに、ヒャンは全身の毛がぞっと総毛立ったのを感じた。だが、ユノは顔色一つ変えることなく、より一層喉に力を込めるようにして声を張る。
「先ほど大王様が仰った通り、我らはすでに紫微国の臣。いくら我らの子が三景を統一しようと、それは大恩ある大王様と宗主国である紫微国のために他なりませぬ」
ソンドはふっと笑い、気怠そうに卓上についた片肘に、顎を乗せた。
「子細を聞かせてくれるか? 何故そのような天命を持っておるのか」
既に知っているのではないかと思えるような口調で、ソンドが言う。だが、ユノは頷き、光海国の首長妃冊封に関わる掟について説明した。
「天命は必ず果たされるもの。それがゆえに、本来は胸の内に秘して守るべきものでもあります。ですが、私が今それを大王様にお話ししたのは、大王様への忠義がゆえ。紫微国の臣として、大王様に隠す必要などないと信じているからにございます」
「……………ふっ、はは、はははははは!」
突然響き渡った笑い声に、皆戸惑ったように顔を見合わせた。ユノも警戒するようにソンドを見上げる。ただ一人、ギテだけは、その反応を予想していたかのように無表情でソンドに向き直り、頭を下げた。
「なるほど。相分かった。だが、それほどまでに念を押さずとも、そなたの忠心は分かっておる」
「それは……、ありがたきお言葉にございます」
「よい、座れ」
「は」
そのままユノが席につき、何事も無かったように宴が再開される。
ヒャンは知らず知らずのうちに詰めていた息を吐き出した。
安心させるようにヒャンに笑いかけたユノは、再びソンドに目をやる。その目が剣呑に閃いている。
だが、やがてソンドが満足そうに杯に手を伸ばしたのを認めて、ユノはそこから視線を外した。
だから、ユノもヒャンも、その後に続いたソンドの含みのある呟きを聞き逃した。
「……そうか、やはり、まことであるか」
ならば。
くっと小さく嗤い、ソンドは杯を屠る。
今よりさらに夢に近づく一歩を、踏み出すか―――。
「こちらです」
少し先を歩いていたヒャンが、明かりが灯された回廊の一角で立ち止まる。
後ろに付き従っていた侍女二人がヒャンの示した両開きの扉を引いて開け、中にソンドを通した。護衛のためにソンドの後ろに続いていた紫微国の兵たちが、扉の両側に控える。
入り際、横目でちらりとヒャンを見やるソンドの瞳に、言い表せぬ何かが宿っている気がして、ユノは心の中で舌打ちをした。
やはり、何かの引き金を引いてしまったか……。
どんなに些細なことでも、選択を誤ればそれは大きなひずみとなって返ってくる。失態の許されない肝心のところで、自分は取り返しのつかない誤った道を選んでしまったのかもしれない。
……いいや。
ユノはすぐさま頭を振り、もたげた不安を打ち消した。
あの場では、あの答えが最善だった。ソンドからヒャンと光海国の民を守るためには、ああ答えるのが一番の良策だったはずだ。
だが、そう考える間も、眉間に刻まれた皺が知らず知らずのうちに深くなる。
「ユノ様? ……大丈夫ですか?」
はっと見やると、微かに首を傾けたヒャンがユノを見つめていた。その心配そうな瞳に、ユノは眉間に入っていた力をなんとか抜き、無理に笑顔をつくる。
「……ああ、何でもない」
表情が険しくなっていたためか、かなりぎこちない笑みになったと思うが、ヒャンはそれ以上何も聞いてはこなかった。
「ヒャン」
そのまま室内に入ろうとするヒャンを呼びとめ、茶を淹れてきてくれるように頼む。あまり意味はないとしても、ヒャンを少しでもソンドから遠ざけた方がいいと、頭のどこかが警告していた。
立ち去って行くヒャンの背を見つめ、ユノは小さくため息をついた。そして、気合を入れ直してソンドの部屋に入る。
ソンドに用意した部屋は、この殿閣の中で一番広い場所だった。
「お寛ぎ頂けるようにと、紫微国の様式の調度を取り揃えましたが、もし足りないものがあればこちらの二名にお申し付けください」
示された侍女二名が深々と一礼する。
「これほどの気遣い、かたじけない」
ソンドは言っておいて、「ところで―――」と卓上に置かれていた花立てに目を向けた。そこには、今が盛りの躑躅が白や紅に咲き誇っている。
「これは、噂に聞くこの殿閣の躑躅か?」
「まさしく。お気に召したようでしたら、明日改めて庭を案内させましょう」
花を撫でるように指を這わせていたソンドは、うっそりと呟いた。
「……いや、よい。そなたの花なら、今堪能させてもらっているところだ」
ぎらりと光る瞳に不穏なものを感じ、ユノは眉根を寄せた。
「私の花? 大王様、それはどういう―――……」
「失礼いたします」
響いた声に、ソンドを取り巻いていた不穏な空気が一気に霧散する。入り口を振り返ったソンドの顔に笑顔が浮かべられているのを見て、ユノは得も言われぬ不安を覚えた。
盆を持って部屋に入ってきたヒャンは、ソンドに一礼すると卓上に静かに茶器を置く。
「酔い覚ましのお茶をお持ちしました」
「これはありがたい。……ああ、せっかくだ。一杯一緒にどうだ?」
卓に腰かけながら、ソンドはユノを斜めに見上げた。その横でヒャンが注ぐ茶がとくとくと小気味よい音を立て、ふわりと立ち昇る湯気から香ばしい香りが広がる。
「しかし、お疲れでは?」
「いや、まだ呑み足りぬほどだ」
片手を無造作に卓上に投げ出し、背もたれに全体重を預けるように深く腰かけたソンドは、鷹揚な態度で答えた。
そばで、かちゃりと陶器がぶつかる小さな音が上がる。ソンドに茶を出したヒャンが、ユノにどうするかという視線を向けてくる。
そのヒャンを、後ろからソンドがちらりと見上げる。その瞳の奥に光るものを認め、ユノの眉がぴくりと跳ねた。だが、ユノが口を開くより先に、にやりと細めた目をヒャンからユノに移し、ソンドが言を発する。
「実は、ファン首長に、折り入って相談したいことがあってな」
「……私に、相談?」
「まあ、座れ」
そう言って、ソンドは向かいの椅子を目で示した。しばし逡巡した後、ようやく椅子に手を伸ばしたユノに、ヒャンが茶を出す。
「それでは、私はこれにて失礼いたします。ごゆっくりお寛ぎください」
「ああ」
頷くソンドに一礼し、頭を下げたまま後ろに下がったヒャンが退室する。ソンドの目が、退室するヒャンの姿を捉えたまま離さないことに、ユノはすぐに気がついた。そして、ヒャンを見つめるその目が微かに嗤ったのを捉え、ユノは思わず目を吊り上げる。
「―――大王様!」




