第5話 宴
クァク・ソンドが光海国に入ったのは、それから一〇日余り経ってからのことだった。
ソンドが乗る輿を中心に組まれた隊列は、北の街道から入って南下し、光海国の中心部を目指してゆっくりと進んだ。
人々が頭を下げて道を空ける中、朱塗りの絢爛豪華な輿は大きな広場に到着した。
首長の館でもある殿閣の入口である大門の外には、およそ数百人が一堂に会することのできる広場が広がっている。
その広場の一角で隊列を出迎えるユノとヒャンの姿を認め、輿の先導を務めていた将軍のチャン・ギテが馬を下り、隊列に止まるよう号令をかける。
後ろに連なる家臣たちと共に、ユノとヒャンが頭を下げた。中からかけられた低い声を受けて、輿が静かに下される。
「―――大王様」
緩慢な動作で輿から降りてきた人物に、ユノが深々と一礼した。それに合わせて、半歩後ろに控えたヒャンも深く一礼する。
「お久しゅうございます。お変わりありませぬか」
「ああ。そなたも変わりなさそうだな」
頭を下げるユノを斜めに見下ろし、ソンドは目を細めた。その様子を、ヒャンは注意深く伺う。
ユノも長身だが、ソンドの目線はさらにその上を行くようだ。頭の高い位置でまとめられた髪が、相当な長身をより強調していた。
齢は三十路に差し掛かったところだというから、ヒャンよりも一〇ほど上の計算になる。腹の底に響く低い声は、大国の君主たる威厳も感じさせるが、同時に、容赦のない冷たさも感じられた。
「この度の突然の行幸、すまぬな」
「いえ、遠い道のり、お疲れのことかと存じます。まずは中へ―――」
ユノの言葉の途中で、つ……とソンドの目がヒャンに向けられる。目を伏せ、静かに頭を下げたヒャンを、ソンドはじっと見つめた。
「大王様?」
ソンドの視線が別の場所に向けられていることに気づき、ユノが訝しげに眉をひそめる。「ああ……、」とユノに視線を戻したソンドは薄く笑った。
「そうさせてもらおう。―――ところで、」
言葉を切って、ソンドは再びヒャンに視線を向ける。
「こちらは、そなたの奥方か?」
「はい。ご紹介が遅れまして申し訳ありませぬ。我が妻、ヒャンにございます。ヒャン、大王様にご挨拶を」
呼ばれたヒャンはユノの隣に進み、しとやかに一礼した。
「お初にお目にかかります。光海国の首長ファン・ユノが妻、ヒャンにございます」
肩口から零れた髪がさらりと落ちる。一礼した姿に向けられたソンドの目が、僅かに細められた。
「―――そうか、そなたがファン首長の奥方か」
呟かれた声音が、心なしか違うものに変わった、ような気がした。注がれる視線に何かの予感のようなものを感じ、ヒャンの胸の奥底がざわりと騒ぐ。
だが、それはほんの一瞬のことで、ヒャンが顔を上げた時には、ソンドの口元にはまた元の薄い笑みが浮かべられる。
「噂に違わず、目を瞠る美貌だな」
「いいえ、そのような。勿体なきお言葉にございます。今宵は宴の席も用意しております。狭いところではございますが、ゆるりとご逗留くださいませ」
頷くソンドに、こちらへ、とユノが先に立って殿閣の中へと先導する。
ヒャンは道を空け、頭を下げたままソンドがユノに続くのを待った。そのヒャンをちらりと一瞥し、ソンドは歩き出す。その背に施された金糸の龍が、風を受けて大きく翻った。
並べられた色とりどりの料理の数々と、杯いっぱいに注がれた酒の甘い香りが、宴の席を満たしている。
中央に設置された大輪の花が描かれた円形の舞台では、華麗な舞が披露されていた。その舞に合わせて、楽師たちが奏でる優雅な旋律が宴に色を添えている。
舞台を縦に貫くように敷かれた赤い毛氈の先の、数段上がった上座に座していたソンドは、目を細めてその光景を眺めた。
舞台を挟んで左右に向かい合うように並べられた席には、ソンドから見て左に紫微国の臣、右に光海国の臣が座し、それぞれが思い思いに出された膳に舌鼓を打っている。
沈みかけた夕日が、宴の席全体を橙に染めていた。
宴になど興味はない。あるのは―――……。
視線を巡らせたソンドは、ある一点でその動きを止めた。その目が一層細められる。
ファン・ユノに寄り添うように隣に座す女。たしか、名をヒャンと言った。
三景の王母となるからには、さも強靭な女なのであろうと想像していたが、ソンドがヒャンの容姿から感じたのは、儚さだった。 透き通るような肌も、たおやかな肢体も、三景統一からは程遠いように感じられる。
今も、夫に笑いかけながら舞を眺める横顔に、背後から差し込んだ夕日で影ができ、その影が儚げな相貌を際立たせ、はっとするような美しさをつくり出している。
ふと、夫に向けられていた瞳が、上座のソンドの方を向いた。ソンドと目が合ったヒャンは、瞬きをした後、穏やかに微笑み、頭を下げる。それに気づいたユノも振り返り、ソンドに杯を掲げる。
胸の奥で、ちり……と何かが焼けるのを、ソンドは感じた。だが、ふっと表情を緩め、手に持った杯をユノに軽く掲げて一気に飲み干す。
同時にユノも杯をあおるのが視界に映ったが、ソンドの視線はヒャンに注いだまま動かなかった。その目に、僅かに熱いものがこもる。
飲み干した杯を再度掲げ、膳に下ろした時、拍手が沸き起こった。見ると、楽の音が止み、舞台上では舞手たちが退場の礼をしている。
宴に意識を戻したソンドは、一番傍に座していたギテに目をやった。静かに頷いたギテが、音もなく立ち上がる。
「この度は、我ら臣も交えての宴を催して頂き、感謝致します。まずは一献」
ギテはそう言って、ユノに掲げた杯を一息に飲み干し、空になった杯を再度掲げて膳に下ろす。
「ファン首長殿の奥方の噂に違わぬ美しさにも、心洗われる思いです」
その言葉に、ヒャンはユノと見合わせて微笑み、並べられた宴席の双方からも感心と頷きの声が上がる。
「―――ところで、以前より一度お聞きしたかったことがあるのですが、この機によろしいでしょうか?」
「遠慮なく、どうぞ」
答えたのはユノだ。その言葉に、ギテが軽く頭を下げる。ちらりとソンドに視線を送った後、ギテは再びユノに目を戻した。
「実は一つ、噂を耳にしまして。ファン首長殿の奥方ですが……」
言葉を切ったギテは、ついとヒャンに目を向ける。引き合いに出されたヒャンは、戸惑ったように軽く首を傾げた。
「奥方が、三景統一の王母になられる天命をお持ちだというのは、まことですか?」
「―――――!」
予想もしていなかったのだろう問いに、ヒャンが息を呑んだ気配が伝わってきた。傍らのユノもまた、驚きで言葉を失くしている。
紫微国の臣はさることながら、その場にいた光海国の臣も驚愕の瞳で互いの顔を見合わせた。当然だ。首長妃であるヒャンの天命は、ごく限られた者しかその内容を知らない。
首長妃になる者に与えられる神託はそういうもので、決して外に漏らすべきものではないのだという。
ソンドはもちろん、ギテも当然、そのことは知っている。
それを、紫微国の人間があえて問うのだ。
問われた相手は様々な考えを巡らせるだろう。
そもそもこの発言がただの憶測なのかか、それとも確信に至っているものなのか。それすらも判断できない状況では、どう答えるのが正解なのか分かる者はいないに等しいに違いない。
さて、南の獅子はどう出るか。
返答に窮して押し黙ったままのユノに、ソンドは口を開いた。
「案ずるな。光海国や、奥方をどうこうしようという話ではない。その話がまことであれば、我が陣営から三景統一の王が生まれるということ。今のこの世に、これほど心強いことはないではないか」
そしてソンドは、試すようにユノを見つめた。