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第4話 穏


カチャリ。


歩く度に、手元の盆に乗せた茶器がぶつかり、微かな音を立てる。ふわりと吹いた風が、腰まで垂らした長い髪を優しく揺らした。


回廊を歩いていたヒャンはふと立ち止まり、外に広がる庭園に目をやった。

満開の躑躅(つつじ)が日の光を浴びて、鮮やかに輝いている。ざあっと吹いた風がそばの木を揺らし、葉の合間からちらちらと差し込む木漏れ日が眩しい。


「ヒャン様?」


急に立ち止まった主を訝しむように、ユンファが首を傾げた。

外を眺めたままのヒャンの鼻孔を、躑躅の甘い香りがくすぐる。その頬に、穏やかな笑みが浮かんだ。


「少し前までは、こんな風に、今年も躑躅が見られると思っていなかった」


小さく紡がれた言葉が、風に流れる。同時に、ふっと笑みが消え、その表情が僅かに曇る。

ヒャンは頭を振り、ユンファを促した。


「何でもないの。行きましょう」


ユノは、一日の大半を政務を行う執務室で過ごす。

邪魔をしないよう、ヒャンは普段執務室にはあまり近づかないが、あまり根を詰め過ぎると、せっかく治った傷がまたぶり返してしまう。それを止めるために、侍女のユンファと共に執務室に向かっているところだったのだ。


命を賭して紫微国(しびこく)に降伏を申し入れたユノだったが、幸いにも紫微国の君主クァク・ソンドはユノの命を取ることはせず、無条件で配下に下ることを了承してくれた。具体的にどんなやり取りがなされたのか詳しくは聞いていないが、覚悟していたものから解放され、ヒャンは心の底から安堵したのを覚えている。


無条件降伏ができたといっても、戦の爪痕の修復や、真の主が変わったことによる体制の変化など、ユノが早急に対処しなければならない事案は山積みだ。

それでも、もう少し自分の体を労わって欲しいと思うのが、ヒャンの正直な気持ちだった。


深いため息をつきながら、執務室の扉を通る。

ユンフアは中には入らず、呼ばれた時だけ動けるよう、扉の外に控える。


執務室の中に入り、奥に目を向けたヒャンは、だがそこで息を呑んだ。竹簡や地図が雑多に広げられた卓上に、身を投げ出すようにユノがつっぷしている。

ヒャンは手に持っていた盆を手前の長卓に置き、慌ててユノに走り寄った。


「ユノ様! いかがされましたか!?」


肩を揺り動かすが、反応がない。いよいよ慌てたヒャンが、ユンファに御医(おい)を呼ぶよう指示を出そうとした時、もぞりとユノが動いた。


「―――……!」


息を詰めたヒャンを、焦点の合わない瞳が見上げる。

「……………ん、ヒャン?」


大きな欠伸をしながら、起こした上体をぐっと後ろに仰け反らせて伸びをし、思い余って突っ張り過ぎた胸を「痛たた」と軽く縮こまらせる。寝ぼけ眼を瞬かせたユノは、真剣な顔で隣に立つヒャンを再度不思議そうに見上げた。


「ヒャン、どうした?」


詰めていた息を全て吐き出し、ヒャンは胸を撫で下ろした。


「お返事が無かったので、お加減でも悪いのかと」

「ああ、知らぬ間に寝てしまっていたようだ。驚かせてすまない」


そう言いながら、指で眉間を解す。そんなユノに息をつき、ヒャンは呆れたように微笑んだ。


「根を詰め過ぎてはお体に障ります。横になって休まれた方が」


ヒャンの心配をよそに、ユノは快活に笑う。


「大丈夫だ。まだやることがたくさん残っている。少しでも早くこの国の民が落ち着いて暮らせるようにしなければ」

「ですが……、」

「ははは、我が妻は心配性だな。―――ん?」


ユノはおもむろに席を立つと、長卓の端に置いたままになっていた盆に近づいた。


「これは、そなたが淹れた茶か?」

「はい。内腑を温め、疲れを癒すお茶です」


ユノは嬉しそうに微笑むと、立ったまま茶を注ぎ、湯気の立ち昇る器を手にした。


「良い香りだ」

「横にはなられずとも、せめて少しは休まれませんと」


そばに寄り、共に持参した茶菓子も差し出すと、ユノはふっと目を細め、優しくヒャンを見下ろした。


「知っているか? 私にとっては、どんな休息よりも、そなたの笑顔とそなたが淹れる茶が、一番の癒しだ」

「ふふ、そのようなお戯れはおやめください」

「戯れなどと。私は本気で言っているのだが」


少し困ったように眉を寄せるユノに、ヒャンも自然と笑みがこぼれる。


「しかし、確かにそなたの言う通り、少し休憩は必要だな」

そしてユノは一つ息をついた。

「少し外を歩くか」

「ユノ様?」


首を傾げるヒャンを促し、執務室を出て躑躅が咲き誇る庭園の方に向かう。


もしかしたら、思うことは同じなのかもしれない。

ゆったりとした足取りで進むユノの少し後ろを歩きながら、ヒャンはその漆黒の背を見上げた。


こうして連れ立って歩くのはいつ振りだろう。ここで無事を祈り、ただひたすら待っていた時がもう終わったのだと思うと、不思議な心地がしてくる。


まだまだ片付けなければならない問題が山積みとはいえ、またこうして、ユノとともにここを歩けることが素直に嬉しい。


「何を考えている」


ヒャンが、ささやかだけれど他には代えがたい大きな喜びを静かに感じていると、前を歩いていたユノが足を止め、こちらを振り返っていた。


「いいえ。ただ、天に感謝をしておりました」

「天に感謝?」

「はい、またこうしてユノ様と歩けることを。その幸せを、噛み締めていたところです」

「はは、大袈裟だな」


ユノは笑い、そして、ヒャンの手を取る。そのまま手を引いて、躑躅の中を歩いていく。


「それくらい、これからいくらでもできることだろう」

「少し前まで、それは夢のようなことだったのです。戦に敗ければ、どのようになるか分かりませんでしたから」

「ああ、それはそうだな。確かに、そなたとこうしてまた歩けるなど、私も夢にも思っていなかった」


色とりどりの躑躅の香りが混じる風に髪を揺らしながら、ユノが穏やかに目を細める。その胸元にある銀の首飾りが、暖かな陽を受けてきらりと輝いている。


しばらく並んで歩きながら、二人で躑躅を眺めて回った。


ふと足を止め、ユノが近くの花弁に手を伸ばす。そして、ああ、と何かを思いついたように再びヒャンを振り返った。その双眸が楽しそうに笑う。


「夢といえば、私はそろそろ子が欲しいと思っている」

「子、ですか……?」


さっと頬を染めるヒャンに、ユノがからかうように首を傾げる。


「今さら恥ずかしがることでもないだろう? 我らは夫婦なのだ」

「それは、そうですが」


思わずうろうろと視線が動くのを、ユノが面白そうに眺めている。

いくら時が流れようと、ヒャンがこの手の話に慣れることはないと思う。ヒャンに言わせれば、まったく照れる様子もなくそんな話ができるユノの方が分からない。


そんなことを考えている間に、頬の熱は少しずつ落ち着いてくる。


でも、子、か……。


恥ずかしさが落ち着いてくる代わりに、胸中には別の思いが湧き上がってくる。その僅かな不安を察したのだろう、目を伏せるヒャンに、「心配するな」とユノが明るい声を上げた。


「私は別に、「天命の子」が欲しいと言っているわけではない。ただ、そなたと私の子が欲しいだけだ」

「え……?」


ユノの何気ない様子の言葉に、ヒャンは顔を上げる。


「天命など、正直今はどうでもよい。……いや、そんなことを言っては罰が当たるか。そうではなく、ヒャン、私は今こうしてそなたと歩いているように、我らの子ともここを歩きたいのだ。そうして、ここを走り回る子の様子を、そなたと笑いながら眺めていたい。そうできる時が、早く来てほしいと思う」

「それは……」


言いかけて、だがそこでヒャンは言葉を止め、代わりにふふ、と微笑む。


「それはなんとも、素敵な夢ですね」

「そうだろう? だから、恥ずかしがっている場合ではないぞ? 言っておくが、私はたくさん子が欲しいのだ。ここを走り回る子らの笑い声でうるさくなるくらい、この殿閣を賑やかな場所にしてみせる」

「ふふ、叶うとよいですね」

「……そなた、本気にしておらぬな?」

「いいえ、そのようなことは。私もそうなればいいと思っています」

「まことか?」

「ええ」


怪しむように目を細め、唇を尖らせると、普段の堂々とした姿からは想像もできないくらい幼い顔になる。これが、知略に富んだ戦術を駆使し、南の獅子と謳われる程の人物なのだと思うと、ヒャンには不思議に思えてくる。だが、どちらもユノの顔であることに相違ない。そして、そこが好ましいと、ヒャンは心から思う。


この人とともに、いつまでも生きていきたい―――、そう思う。


だが。


首長(しゅちょう)様、首長妃(しゅちょうひ)様」


そこにやって来た重臣が、ユノとヒャンに一礼して厳かに告げる。


「先程知らせが参りました。近く、クァク・ソンド大王(だいおう)様が光海国(こうかいこく)の視察にお越しになるとの由にございます」


突然の知らせに、ヒャンはユノと顔を見合わせた。



―――この時まで、思い描いたそんな未来がそのうちくるものだと、ただ漠然と信じていた。


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― 新着の感想 ―
自分も思わず二人の子どもたちが庭園を走り回る未来が目に浮かびました。 いつかそんな平穏な未来が来てほしいと…… 突然の知らせと最後の一文に「え?」と思う自分と早く続きを確かめたい自分がいます! この先…
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