第3話 朱
紫微国は、蔡景のほぼ中央に位置する大国だ。
数年前までほんの小さな国に過ぎなかったこの国が、凄まじい勢いで国土を広げ始めたのは、王が代替わりをしてからである。
紫微国の現君主、大王クァク・ソンド。
ソンドが玉座に君臨して以降、紫微国は侵略の一途を辿ってきた。燃え広がる火のごとく周辺国を次々と呑み込み、わずか数年でその国土を三倍にまで広げた。
ソンドは、飴と鞭を使い分けることに長けていた。
軍功を上げた者には惜しみなく褒美を与えるが、しくじった者に対しては、例えそれがどんなに些細なことであっても、容赦なく切り捨てる。さらに、しくじった本人だけではなく、その家族をも切って捨てるなど、一切の温情を与えることをしない。そのため、紫微国の軍は末端の一兵卒まで厳しく統率され、それがこの軍の情け容赦ない攻め方に繋がっていた。
蔡景だけでなく、三景全土にその名を轟かせるソンドは、蔡景覇者の座に一番近い王として恐れられている。
だが、国内外からソンドに寄せられる畏怖の念は、もう一つの顔に由るところが大きい。
実の親兄弟を弑逆し、王位を簒奪した血も涙もない王。
ソンド自身は、自分のことをそのように評されるのは実に可笑しな話だと思っている。
たしかに、もともと王位継承者であった王太子の兄を出し抜き、王位を継いだことは事実だし、それに対して異を唱えた先代王である父や、他の兄弟たちを力で捻じ伏せたのも事実だが、弑逆した覚えも、簒奪した覚えもない。
ソンドは幼い頃より、欲しいと思ったものは必ず手に入れなければ気が済まないという性格だった。だがその反面、手に入れば無駄なことはしないという人間でもある。
王位が手に入れば兄の命など興味は無かったが、兄は自ら命を絶ったのだ。そして、ソンドが王位につくことに反対し、先に刃を向けてきたのは、先代王や他の兄弟たちの方だ。それを返り討ちにしてやっただけのこと。
ソンドに言わせれば、それは単なる自業自得に過ぎない。
だから、ソンドが弑逆したのではなく、向こうが自ら死への道を選択しただけだ。
王位は、より強く、より優れ、より力のある者が継いでこそ、国が繁栄するというもの。自分に敗れた兄になど、初めからその資格は無い。
兄よりも勝っているソンドが王位を継ぐのは至極当然のことなのだから、簒奪と評されることも理解に苦しむ。
とにかく、至極当然の流れで王位を手にしたソンドが、今狙っているものこそ、三景の統一。
蔡景のみならず、三景全土を手中に収め、この一手のもとに全てを掌握することである。
手始めに、まずは蔡景の覇権を手に入れる。そのために、じわりじわりと侵略の手を伸ばし、先日はついに南の光海国を手に入れた。
ソンドとは違った意味で三景にその名を轟かせる、南の獅子ファン・ユノ。
そのファン・ユノが率いる光海国に向けて兵を挙げたのは冬に入る前だったが、春になってようやく降伏を申し入れてきた。これはなかなか持ち堪えた方である。
戦は引き際も肝心だ。
降参したとはいえ、ファン・ユノは光海国への紫微国軍の侵入を徹底して阻み、自国の民を一切傷つけることなく戦を終わらせたのだ。さすが、南の獅子と称されるだけのことはある。
まだ二〇をいくつか過ぎたばかりだと聞いていたが、一〇ほども年嵩の、かつ自分の命運を握っているソンドに対して、負けない強い瞳と堂々たる貫録を兼ね備えていた。
聞けば、胸に大きな傷を抱えていたという話だ。御前に引き出されるまで手荒な扱いを受けただろうに、ソンドの前では顔色一つ変えなかった。
―――面白い。
ソンドは、先日降伏を申し入れてきた若者の様子を思い出し、くっと喉の奥で笑った。
編み込んだ髪を頭の上で一つにまとめ、ぴったりとした臙脂の衣の上には、龍の刺繍が施された羽織を纏っている。鷹のように鋭い光を放つ切れ長の目を細め、ソンドは卓上に視線を落とした。
筋肉質の体躯には似合わない細い筆を置き、今しがたまで描いていた画を見下ろす。
躑躅。
今の時期、見頃の花だ。腰の高さほどの植木に、白や薄桃、紅の花が群咲く。蜜は甘く、吸えば芳醇な香りが広がる。
「―――大王様」
唐突にかけられた声に、ソンドは眉一つ動かすことなく、置いた筆を再度持ち直した。
鎧に身を包み、肩から垂らした掛布を翻しながら部屋に入ってきたのは、ソンドの側近、紫微国の将軍チャン・ギテだった。卓を挟んでソンドに向かい、ギテが軽く頭を下げる。
「光海国のことで、気になる話を耳にしました」
「―――無条件降伏のことなら、覆す気はないぞ?」
ソンドは顔を上げることもなく、朱色の顔料が入った絵皿に筆を伸ばした。
「いいえ、そのことではございません。大王様のご性格は承知しておりますれば」
動じることなく言うギテに、ソンドの口は笑みの形をつくる。
欲しいものはどんな手を使っても手に入れる。だが、手に入れば、それ以上無駄なことはしない。誰が何と言おうとも、だ。ソンドと付き合いが長いギテは、そんなソンドの性分をよく心得ている。
今回、ファン・ユノの降伏を無条件で受け入れたことに対して、各所で不満が上がっていることは知っているが、考えを曲げるつもりはない。降伏を申し入れた言葉に偽りがあれば別だが、ファン・ユノにはそれを感じなかった。これ以上責めるのは、時間と労力の無駄でしかない。
光海国は紫微国の配下へ下ることになり、ファン・ユノへは属国の主として、引き続きかの地を治めるよう命じている。
「実は、光海国に放っていた密偵から妙な話を聞いたのです」
ソンドは黙したまま筆を走らせ続けた。構わず、ギテは続ける。
「南の獅子、ファン・ユノの奥方ですが、話によると、「三景全土を統一する王の母になる」という天命を持っているそうにございます」
その言葉に、ソンドの筆がぴたりと止まった。
「天命は必ず果たされるもの。これが事実であれば、ファン・ユノの子が三景全土を統一するということ。今はこちらに反旗を翻すつもりなど毛頭ないことは確かではありましょうが、いずれ我らの脅威になることは間違いありません」
黙って聞いていたソンドは、口の端を吊り上げ、うっそりと嗤った。
「―――ほう?」
それまでとは違った、凄みのある低い声で呟く。
面白い―――。あの男、捨て身の覚悟で光海国を守ろうとしているのだと思っていたが、それ以上の甘い花を隠していたということか。
動きを止めたままの筆先から朱色が滲み、じわりじわりと躑躅を侵食していく。
ファン・ユノの真意がどうであれ、天命の話が事実であれば、ファン・ユノの夫人が三景統一の要になることは確実だろう。だが重要なのは、その天命の鍵になるのが夫人の「夫」ではなく、「子」だということだ。
躑躅から離した筆をゆっくりと置き、顔を上げたソンドの目が、狙いを定めた鷹のようにぎらりと光った。
「光海国の首長の館には、躑躅の咲き誇る美しい庭園があるそうだな……?」
「そう聞いております」
ギテは静かに首肯する。
「ファン・ユノに遣いを出せ。せっかく気軽に見られるようになったのだ。―――花を、愛でに行こうではないか」
ソンドは咲き誇る朱色の躑躅を撫でるように、画に指を滑らせた。心の奥底から込み上げる笑いを楽しむように、喉の奥でくつくつと嗤う。
三景統一の王母。
このクァク・ソンドが三景統一を狙っていることを、あの男が知らぬはずはない。
ならば、あえて黙しているということだろう。
朱色の花を呑み込むように画上に手を広げ、ゆっくりとそれを握りつぶす。
さて―――。
南の獅子の隠し花は、夢に近づく一歩か否か。
それとも。
欲しいと思う程の、香りを放っているだろうか―――。