第123話 居
※そして、セヨンです。
片付けのためにしばしこの場を離れていたヒョリが戻ってくると、途端に腰に手を当て、大きく息を吐き出した。
「……王女様、今しがた片付けてきたところだというのに、何故またここにこうして山のように書物が積まれているのでしょうか」
「あら、ヒョリったらおかしなことを言うのね。新しく持ってきたからに決まってるじゃない」
書庫からここまで、書物が勝手に歩いてくるわけでもあるまいし、何を眉をひそめることがあるのかしら、とセヨンは首を傾げる。
だが、当然のことを返したセヨンに対し、「そういうことではありません」とヒョリは再び大きく嘆息した。
「片付けたそばから、なぜまた新たな山ができているのかということです。こんなに持ってきて、どうするつもりですか」
「どうするって、読む以外に無いじゃない。もうすぐ予定されている登用試験は、王宮の官吏を登用するものなのよ? 監督する側が出題内容について何も知らなくては、試験を受けにくる者たちに失礼でしょう。こちら側もそれなりに理解を深めておくのが礼儀というものじゃない?」
それは、今回の登用試験を王女として監督することになった時から考えていたことだ。
試験全体を監督するのであれば、ただ場を整えるだけでなく、それぞれの試験内容自体についてもできる限りは把握しておきたい。それが、監督する者の責任だとも思う。
どうせやるなら徹底的に。
それは、登用試験に関わらず、セヨンが常々心がけていることである。
しかし、ヒョリの考えはそうではないようで、腰に手を当てたまま眉間にシワを寄せた。
「そんなものは、王女様が理解される必要はないでしょう。そうしたところで、合否の判定は試験問題を作成した各部署の担当者たちが行うんですから。だいたい、こんな量、軽く目を通したくらいで理解できるわけないじゃないですか」
「そうかもしれないけど、まったく知らないよりはいいと思わない?」
いつもながらヒョリからは辛辣な言葉を投げられるが、セヨンはそれを軽く受け流す。どころか、何も堪えていない顔で、それまで広げていたものをまたぱらぱらとめくり始めた。
そんなセヨンに、ヒョリは盛大にため息をつく。「いつもより少ないだなんて、前言撤回です……」などと、よく分からないことを言っている。
そうこうしている間に、片付けに出ていた他の女官たちも、一人、また一人と戻ってきた。
「王女様、お手を」
「え?」
戻った女官の一人から何かを受け取ったヒョリに唐突に言われ、セヨンは右手を出した。
「いえ、そちらではなく、左手です」
「左?」
訳も分からず言われた通り左手を差し出すと、指に取った軟膏をヒョリが塗ってくれる。
ちょうど、自分からは見えにくい小指側の側面に、自分でも気づかないうちに擦り傷ができてしまっていたようだ。
「あら、いつの間に。ありがとう。そういえば、置いていた薬草も持って行ってくれたのね」
「ええ、あんなもの、いつまでもここに置いていても仕方ないですから」
「あんなものだなんて、あれはとっても体にいい―――」
登用試験の準備をする合間にも、時間ができた時には自作の庭に足を向けるようにしている。少し前に採れた薬草について説明をしようとすると、「はいはい、そうですね」と面倒くさそうにヒョリに遮られた。
「居所が多少散らかるのはまだいいとしても、お怪我をされているのに気づかないというのは、さすがにいかがなものかと思いますよ? 以前から申し上げている通り、この国の王女ともあろうお方が、王宮内に密かに拵えた畑で土いじりをしているなんて、民が知ったら卒倒します」
「あら、そうかしら? むしろ、高い壁の向こう側にいる遠い存在なんかじゃなく、もっと身近な存在として感じてくれるんじゃない? 王女も民も、この国に生きる同じ人間なんだから」
「はあ、そんなことを思っているのは、きっと王女様だけですよ」
ヒョリはそう言って、呆れたように首を振る。
けれど、セヨンはその言いようにふふ、と頬を緩めた。
そんなことを言いながら、この女官は結局セヨンがやりたいようにやらせてくれるのだ。何だかんだとぶつぶつ言いはするが、セヨンの意思を尊重してくれるのである。
これが、母チョンミョン付きの尚宮ホン・ヨルランのような女官であったなら、きっとこうはいかない。
そこに関しては、幼い頃にこのヒョリを自分付きの女官としてくれたことを、セヨンはチョンミョンに心から感謝していた。
「というか、王女様」
―――あ、だけどこれは、少し面倒なやつが始まったかも。
そんなヒョリではあるが、時折鬱憤というものが溜まるようで。たまに、言い出したら止まらなくなる時がある。
今がちょうどそんな時のようだ。
「王宮によくいらっしゃるご令嬢方は、美しい絹や玉、化粧品など、自身を美しく飾るものに目がないというのに、王女様はなぜそうなんですか。この部屋から出るものは、土まみれの汚れた衣だったり、かび臭い書物だったり、書き損じた紙束だったり、色のないジジ臭いものばかりで、年頃のお方のお部屋から出るものとは到底思えないものばかりなんですが。そろそろ、お付きの女官である私たちにも心躍る瞬間をいただきたいものです」
「まあ。ジジ臭いだなんて、失礼な。たしかにヒョリが言ったようなものは美しいけれど、身につけてもただ重いだけじゃない。思うように動き回れなくて、正直窮屈なのよね」
「……動き回らなければいいと思うんですが」
すかさず入る言葉を無視して、セヨンはさらに続けた。
「それに私は、彼女たちと違って、兄上様に美しく見られたいなんて思ってないもの」
「そりゃあ、王太子様にはそうでしょうとも。兄君なのですから。そうではなく、どなたか、王太子様の元にやって来る重臣家のご子息の中で、このお方に美しく見られたいと思うような方はいないのですか?」
その言葉に、セヨンは止まり、瞳を瞬く。
ヒョリは一体、何を言い出すのだろうか。
「それは、いたら逆にまずいんじゃない? そんな相手がいたところで、私が将来嫁ぐことになるお相手は父上様や母上様がお決めになるんだから」
おかしなことを言うのね、と笑うと、「なんでこういう時だけ常識的なんですか……」と、ヒョリは脱力するように言った。
誰かに見てもらうために自分を着飾りたいと思ったことが、今のところセヨンには無い。この先、そんな瞬間がくるとも思えないでいる。
ああ、けれど、ソユル様のような方には憧れるわね。あの方のようになりたいと思えば、身を飾ることにも少しは興味が持てるかも?
しかし、ソユルの美しさは表面上のものだけでなく、内から溢れ出るものも多分に影響している。それは、単に身を飾るだけでは補えないものだ。
そんなことを思っていると。
「そういえば、翠玖国のソユル王女様のお誕生日が近いようですね」
ヒョリがふと、そう口にした。
「先程、王太子様にお会いして、そのようなことをおっしゃっていました。王女様は、何か贈られるのですか?」
ソユル様の誕生日―――。
言われて、はっとセヨンは立ち上がる。
私としたことが、何てこと……!
決して、そのことを忘れていたわけではない。ソユルがもうすぐセヨンと同じ十六歳になることは、随分前から承知している。
そうではなく、贈り物は何がいいかしらと考えて、まだ決められていないことを思い出したのだ。
だが、そうとなれば、こうしてはいられない。
「こんなことをしている場合ではないわ! ヒョリ、行くわよ」
次の瞬間には、セヨンは居室を飛び出していた。




