第120話 発
そこからは、あっという間に時が流れた。
元々、報告書に行き詰っていたテホンが、それを書き上げて都城に戻るまで、という短い猶予しかなかった話だ。
ジョンウとヒスは残るが、スハとドハンは都城に行くことにしたという返事をテホンに伝え、周りへの挨拶や諸々手がけていたことへの片付けなども含め、発つ前にしておかなければならないことはたくさんある。
限られた時間の中で、それらのいろんなことを急いで進めることになった。
まず、テホンに自分たちの答えを伝えたところ、「そうか、スハ君とドハン君は一緒に来てくれるか!」と大いに喜んでくれた。
その勢いは、思わずだろうが立ち上がった拍子に卓の茶を倒してびしょ濡れになる程で、出会った時同様周りの目を一切気にすることなく、びしょ濡れのまま熱い握手とさらに抱擁までしてこようとしてきたので、一緒に報告に行ったドハンとともに「げっ……!」とすかさず体を引っ込めたことは、後々まで確実に語り草になりそうな話だ。
ともあれ、それ程までに自分たちを全力で歓迎してくれるのはとてもありがたく、嬉しいことに変わりはない。
その後は、無名街へ挨拶に行った。
リナや、リナの父であるウク、母のヘミを始めとした無名街の人々に事の次第を伝え、これまでの感謝とこれからのことを相談する。始めたばかりの薬草栽培の様子をそばで見られないのは残念だが、ジョンウとヒスは残るため、文などで逐一様子を伝えてもらうように頼むことにした。
「心配するな。ここはもう俺たちの立派な居場所だ。お前たちがまたこの辺境に帰ってくる頃には、ここを他と変わらない、いや、それ以上の場所にしてみせる。安心して行ってきてくれ」
ウクだけでなく、「そうだよ、スハ兄! 任せて!」とリナも力強く頷いてくれた。
そんな話をしているうちに、どこから聞きつけたのか、リナの弟たちであるリク、リオなどのまだ幼い子どもたちも集まってきて、そこにさらにヒス、ジョンウまでやって来たことで、そのまま宴会状態になってしまい、その日は随分遅い時間に帰宅することになってしまった。
深夜に近い帰宅に、普段なら「またどこをほっつき歩いて来たんだ」と目を吊り上げるソンジェだが、この日は何も言われず、ただ水を渡され、「明日も早いんだろう、早く寝ろ」と言われただけだった。
わざわざ起きて待っていたらしい様子に、別にそんなことをしてくれなくても大丈夫なんだが……と思いはしたが、それは言わずにおいた。
これまで、迷惑や心配をかけることの方が格段に多かった不肖の息子だ。それでも常に気にかけてくれ、何も言わず……ということはないが、なんだかんだと見守ってくれたソンジェには、言葉では言い尽くせない程の感謝しかない。
昔より随分小さくなった背中が部屋に入っていくのを眺めながら、自分にできるのはその思いに応えることだけだな、とスハは思った。
せっかく送り出してくれるのだ。何もできず帰ってくるというようなことだけは、絶対にしたくない。
次にここに帰ってくる時は、すべてを果たしたあとだ。それまでは、帰らない。
だから、その時まで変わらずにいろよ、父さん―――。
……と、既に眠りについたらしい静かな部屋に向かって、その夜は思わず語りかけていた。
それから、華月楼にも挨拶に行った。
リランのことだけでなく、これまで華月楼には幾度となく助けてもらってきた。ミランはもちろん、懇意にしていた妓女たちにも挨拶して回っていく。
当然、装飾品や薬の宣伝も欠かさない。
これからはジョンウやヒス、無名街の人々が直接売りにくることになるだろうが、品の質は変わらないのだ。むしろ、きっともっと素晴らしいものになっていくはずである。
それらのこともそれとなく伝えつつ、引き続き懇意にしてもらえるよう伝えておく。
ミョンウォルにはなぜか涙を堪えるような目で見つめられたが、元々、客としては大して金を入れられていたわけではない。ミョンウォルならばきっと、他にもっとよい上客を見つけて、今よりさらに上の妓女になれるだろうと応援の言葉を贈ったのだが、なぜかそこでさらに悲痛な顔を向けられることになってしまった。
「お前は最後まで何も分かってないんだな……」と何かの諦めを表すようにまたドハンに肩を叩かれたが、そう言われても思い当たるものがない。ミョンウォルに何か言われることもなく、なんだか釈然としない展開になってしまったが、そのまま華月楼をあとにした。
「今後、何か助けが必要な時には、いつでもお声がけください。この華月楼は、いつでもお兄様方のお手伝いをいたします」
そう言って、淑やかに一礼したミランの姿は、最後まで一流の妓房の行首らしいものだった。
この辺境と都城ではかなりの距離があるため、言ってもらった通りに何かを頼むことは無いかもしれない。だが、ミランのその言葉はありがたく受け取っておくことにした。
そういえば、発つために入り用なものを揃えている時に、トボクにも会った。
「都城に行くなら、なんで事前に俺に言ってくれないんだ!」と大いに抗議されたが、正直そんなことは知ったことではない。そもそも、トボクは行こうと思えばいつでも都城に行ける身の上である。スハたちの都城行きとはまったく関係ない立場なのだから、事前に言うも何もない話だ。
「行きたいなら、自分で整えていつでも行けばいいじゃないか」と言うと、それはそれで「冷たい奴め」と言われた。
まともに取り合っても埒が明かないので、その時は適当に流してその場を離れることにした。
もしかしたらそのうちトボクも都城に来ることがあるのかもしれないが、それには可能な限り気づきたくないというのが本音である。
しかし、あの歌声は、気づきたくなくても気づいてしまうだろうな……と、今から遠い目をしてしまったのは言うまでもない。
そして、そうこうしている間に時は過ぎ―――。
「準備は万端か?」
ゆっくりと眩しい陽が昇る空の下、朝飯の片づけを終えて部屋で出発前の最後の荷物の確認をしていると、ふいにソンジェが顔を出した。
いつもの仏頂面のまま珍しく中に入ってくると、す―――と何かを差し出してくる。
「まだ荷に余裕があるなら、これも持っていけ」
ソンジェが出したのは、両手で持つ程ではないが、片手で持つには少し大きな包みだ。
「何だこれ」
「切り傷や擦り傷、あとは、腹痛や頭痛、軽い風邪や何かに効くようなやつを適当に詰めておいた。こういうものは、いくらあっても困るもんでもないからな。無駄に金を使うより、うちから持っていけるものは持って行った方がいいだろう」
ぶっきらぼうに言ってくるが、開いてみた中にそれらが丁寧に包まれているのが分かる。昨日は何も言っていなかったが、きっと、昨晩用意してくれたのだろう。
「うちの薬か。これ程頼りになるものは無いな。ありがたく持っていくよ」
「分かっていると思うが、一番いいのはそのどれも使わなくて済むことだ。これも、金も、無駄に使うようなことだけはするなよ」
「はは、分かってるよ。無茶はしない。それに、せっかく医官様が推薦してくれるんだ。まずは、無事に医官になれるように頑張るよ」
笑って返すと、ソンジェは「ふん」と短く息をついて出ていった。
非常に分かりにくいが、無駄に使うな、というのはケチ臭さからくるものではなく、ソンジェなりの心配を表す言葉だ。使う必要があるような事態にならないよう体に気をつけろ、と―――。
……ったく、発つ朝までそんな調子なんだな、あの親父は。
だが、それはこちらも一緒。
いつものように仕事の準備をするソンジェに、今日もまたいつもと同じように帰ってくるような顔で言う。
「それじゃあ、行ってくる」
「ああ、気をつけてな」
そうして、育った家を背に、外へと歩き出した。
見上げた空には、雲一つない。まだ朝の早い時間であるため色は薄いが、今日はどこまでも真っ青な空が続く一日になりそうだ。
絶好の、旅立ち日和である。
「おう、スハ」
少し歩いたところで旅支度を整えたドハンと合流し、それから、もう少し先で会ったジョンウやヒス、ヨンギルとともにしばらく歩いた。
旅立つ朝とは思えない、いつもと変わらないやり取りに笑いながら進み、そして最後に、待っていたテホンと合流する。
「よし、ここまででいいぞ。行ってくる」
「おう、行ってこい!」
「お前たち、くれぐれもカン医官殿に迷惑をかけるんじゃないぞ」
「分かってるって。じゃあな」
軽く手を上げて、残る三人に背を向けて歩き出す。
進む先に、長慶寺の上の丘が小さく見えた。
挨拶は既に済ませているが、もう一度、心の中でそれを言う。
母さん、行ってきます―――。
そうして、スハたちは辺境から発ったのであった。
最初に話が出てから発つまで、少し時間がかかりました。
それでも、無事に旅立つことができ、ひと安心……。
ですが、第三部はここで終わりではありません。
第二部から5年後の今編、謎の万能薬編と続き、ここから最後の「登用試験編」が始まります。
この第三部は現時点で既に120話という長大な長さになってしまっていますが、ここまでの傾向を見ると、まだあと5、60話はいきそう……汗
(最初の構想の時点では、ここまでで30話くらいの予定でした。今思えば無理すぎる数字……笑)
―――が、それはそれ、これはこれ。
ここから、離れた場所にあった「彼ら」が少しずつ近づいていきます。
そんな新たな展開を、引き続きお楽しみいただけましたら幸いです。
※ここまでお読みいただきありがとうございます!
少しでも面白い、続きが気になると思っていただけた方は、ブクマ、★、感想等いただけたらとても励みになります!
ぜひよろしくお願いいたします!m




