第2話 獅
駆け込むように居所の扉を通り、中に入った途端、ヒャンの顔から一気に血の気が引いた。その色が、青を通り越して蒼白になる。
「ユノ様……!」
「……ああ、ヒャン。来たか」
薄く微笑むユノに、ヒャンは言葉を失くした。
笑みを浮かべてはいるが、寝台に腰を下ろしたユノの額には細かな汗が浮かんでいる。唇はひび割れ、もともと浅黒い肌は土気色だ。
衣服をすべて取り払った上半身には、左肩から右脇腹に走る包帯が何重にも巻かれ、血が滲んでいる。たくましい体のあちこちにも裂傷が走り、その数えきれない傷が、戦の凄惨さを物語っていた。
よく、無事に……。
その場にくずおれそうになる心地で、今ここにユノがいてくれることを心の底から天に感謝しながら、だがその体に走る数多の裂傷に何も言葉にすることができず、ただユノの前に膝を折り、その手に自分の震える手を重ねることしかできない。
ユノはヒャンに、ただ苦笑するように目を細め、「将軍たちが大袈裟なのだ」と笑った。
「大した怪我でもないのに、私だけ送り帰された」
「大した怪我でもないなどと、そのような……。笑い事ではございません」
沈痛なヒャンの言葉にも軽く肩をすくめ、ユノは汗ではり付いた髪を無造作に払う。その動きで、首元の銀の首飾りが僅かに揺れる。
勇壮な嘴を構えた鴉が力強く羽ばたく白石英の彫刻が施された、銀の首飾り。
光海国の首長の証であるその首飾りは、ユノが普段から肌身離さず身に着けているものだ。その存在はユノの身にすっかり馴染んでいて、普段はその存在を意識することすら無いが、こういう時はやけに重たく目に映る。
何でもないように振る舞っているが、ユノが極力体を動かさないようにしていることに、ヒャンは気付いていた。
ユノはあまり顔に出さないようにしているが、それ程の重症だということだ。ユノがここに「戻された」のにも理由がある。
眉を寄せて悲痛な表情を浮かべるヒャンの背後から、少し退室していたらしい御医がばたばたと足音を立てながら慌てて入ってきた。
「首長様! 今は安静が第一です! 起き上がられていては……」
「いや、」
横になるように促す御医を制して、ユノは寝台についた手に力を込めた。その顔が一瞬苦痛に歪むが、何事もなかったように顔を上げ、寝台から立ち上がる。
「私は、すぐに陣営に戻る」
その言葉に、ヒャンは驚きで顔を上げた。
「ユノ様、何を―――」
「まだ戦は終わっていない。指揮を執るべき大将の私がいなくては、話にならな―――」
「いけません!」
悲痛な叫びにも似た声が、室内に響いた。立ち上がったヒャンは、頭一つ分高い位置にあるユノの瞳をまっすぐに見つめ、訴えるように続ける。
「そのような体で、どこに行かれると言うのですか! お体を労わってください」
「ヒャン、だがな……」
「無理を押して戦場に戻ったところで、ユノ様の身に何かあれば兵の士気にも関わります。何より、ユノ様を案じる者達のこともお考えください。そんなお体で送り出すことなど、私には―――」
一気にまくし立てていたところで、ふいに「……ぷっ、くくくっ」とユノが噴き出すのが聞こえて、ヒャンは思わず怪訝に眉根を寄せた。
「くく。……いや、すまない。そのように諌められていても、そなたに心配されるのは嬉しいものだと思ってな」
「ユノ様、このような時に何を―――」
「こういう時だからこそだ」
思わず瞠目するヒャンに、「心配するな」とユノが優しく微笑む。そして、静かな声音で続ける。
「これは、光海国のためなのだ。陣営に大将がいないというだけでも、兵の士気には大きく関わるだろう。皆が疲弊し切っている今、敵方に押し切られれば、光海の民にまで危険が及ぶ。それだけ、紫微国の兵は強い。一刻も早く戻らなければならない」
そう言って、ユノは体を斜めに走る包帯に手をやった。
「これくらいの傷、大したことはない。ここにいれば、確かに私の体は回復するだろう。だが、その間、光海国を守れない痛みの方が、私にはよっぽど辛い」
「ユノ様……」
その言葉に、ヒャンの胸がつきりと痛んだ。
今だって、腕を動かすだけで眉をしかめているのに。肩を上下させて、浅い呼吸を繰り返しているのに。平静を装っていても、立っていることだってやっとのはずなのに―――。
「それにな」
言葉を切って、にやりとユノが笑う。
「これくらいのことで音を上げていては、いつか生まれてくる、三景を統一する我らの子に笑われるだろう?」
ユノの言葉に、ヒャンは息を詰めた。ふいに、どうしようもなく目頭が熱くなる。
光海国には、首長妃の冊封をする際に、その候補の娘が神を祀る神斎殿に参り、神託を受けるという掟がある。その者の天命について神々に伺いを立て、その者が光海国を率いる首長の妃として相応しい者かどうかを判断するのだ。天命の内容については、当人及び、首長と首長妃冊封に関わるごく限られた重臣にのみ知らされる。
当然、ヒャンも首長妃になる前に神託を受けた。それこそが。
―――三景の王母。
そなたが産む子は、この戦乱の世を終わらせ、三景全土を統一する王になるだろう――――。
下った神託を読み解いた神官の言葉を聞いた瞬間、その場にくずおれるように足の力が抜けたのを、ヒャンは今でもはっきりと覚えている。
天命とは、必ず果たされる宿命のようなものだ。その者が人生をどのように歩もうとも、その道から逃れることはできない。
ヒャンが持つ、あまりにも重すぎる天命に、ユノもヒャンと同じく、いやそれ以上に衝撃を受けたことだろう。それを、笑って受け入れてくれたのだ。そこに必ず付随するだろう苦難を、忌避するどころか、ともに抱こうと言ってくれた。
もらった分だけ、いや、それ以上に、その双肩に圧し掛かるものを少しでも減らしたいと思っているのに、自分はそれがまったくできていない。
ヒャンは大きく息を吐き出して頭を振り、御医に向き直った。
「止血の薬を。それと、痛み止めと、休息がしっかり取れるよう促す薬の用意もお願い」
御医はしばらく躊躇するような素振りを見せていたが、やがて頷き、部屋を下がって行った。それを見送り、ユノが申し訳なさそうに微笑む。
「すまない。そなたには気苦労をかけるな」
「それはご存じなのですね」
軽く睨んで言うヒャンに、ぐ……っとユノが言葉を詰まらせる。そんなユノを尻目に、ヒャンは寝台に無造作に置かれていた薄衣と、その上に纏う漆黒の長衣を手に取った。ユノが腕を通しやすいように、大きく広げる。
ユノはふっと目元を和ませ、順に広げられた薄衣と長衣に袖を通した。
「助かる」
「いえ」
首の後ろで無造作に括られた髪を長衣の外に出し、施された銀の刺繍をなぞる様に漆黒の襟を伸ばす。肌に触れていた首飾りも、その上に丁寧に乗せる。
玉飾りのついた帯を締めようと胴に腕を回した瞬間、ヒャンは動きを止めた。
ユノの温かい手が、ヒャンの髪を優しく撫でる。
「もう一つ、実はそなたに、謝っておかなければならないことがある」
穏やかで低い声が、耳元で響いた。
「陣営に戻り次第、将軍達の意見をまとめて、あちら方に降伏を申し入れようと思っている」
静かだが、はっきりとした口調に、ヒャンはユノの覚悟を感じた。
ユノはヒャンの背に腕を回し、言葉を続ける。
「敗軍の将に命は無い。ひょっとしたら、これが今生の別れになるかもしれない。それでも、光海国の民が守れるなら、私は本望だ」
ヒャンは握りしめていた手を解き、ユノの背中にそっと触れた。衣服の下の傷に気を付けながら、寄せた頭を傾ける。
「分かっておりました。ユノ様がそう決断されていること」
軽く驚く気配を感じ、ヒャンはふふっと微笑んだ。
「私はユノ様の背をずっと見てきたのです。ユノ様なら、光海国のためにそうされるだろうと思っておりました」
「そうか―――。はは、分かっていたか」
痛……っ、と笑った拍子にユノが身を震わせたのが、直に伝わってくる。
手の届かない遠くに行ってしまいそうなユノを繋ぎとめるように、ヒャンは回した腕にそっと力を込めた。




