第11話 抵
どうか、無事に―――。
拳を強く握りしめて、ただそう祈ることしかできないことが、どうしようもなく歯痒い。その背が見えなくなっても、ユノはしばらくそのまま動けなかった。
どれ程そうしていただろうか、唐突に、微かな音が鼓膜を叩いた。ヒャンが消えたのとは別の方向、牢の正面の入口の方から近付いてくるのは、決して少なくはない足音だ。
「―――ファン首長」
笑みを孕んだ声が、格子の内側に立つユノに投げかけられた。目の前でゆっくりと足を止めた男に、ユノは燃えるような双眸を向ける。
「……クァク…ソンド……」
「無礼者め」
間髪入れずに無感動な声で言い放ったのは、後ろに従うギテだ。さらにその後ろには武装した兵が続いている。
「大王様のご尊名を口にした挙句、呼び捨てにするとは―――」
「―――よい」
言いかけたギテを片手で遮り、ソンドは格子に近づいた。鷹のように鋭くつり上がった眼が薄く笑う。
「さて、ファン首長。そなたは今、大逆罪で私に捕らえられてここにいるわけだが、今の自分の状況が分かっているか」
ぎり……と、奥歯を噛みしめ、ユノはソンドを睨みつけた。
「……………ヒャンは渡さない」
「ほう? 私が何を求めているのか分かっていても、自分の状況は理解できていないようだな。懸命な判断を下せるよう、時は充分にやったはずだが、そのような戯言を申すか」
鋭い目をさらに細めたソンドが、心底呆れたように冷たく呟く。
「私は欲しいと思ったものはどんな手を使っても必ず手に入れる。そなたがいくら抵抗したところで、それは変わらぬ。だが、手に入れば無駄なことはしない。ヒャンを私に寄越せば、命だけは助けてやる。そなたは死ぬ必要など無くなるのだぞ?」
「……そう言われて、素直に妻を差し出す男がこの世にいると思うか」
「いないことはないだろうな。それが王命というものだ。そなたは、主と臣の関係をどのようなものだと心得ておる。臣であるそなたに、王命を拒否する権利はない」
「ぬかせ。何が王命だ。己の欲に任せて君臣の礼を無視するお前の言葉など、聞くに値せぬ。私の答えは変わらない。何と言われようと、ヒャンを渡すつもりはない」
「どうあっても、考えは変わらぬと?」
常人より長身の域にあるユノよりさらに高い位置にあるソンドの目が、さも可笑しそうに細められる。
「そなたのそばにヒャンを留め置いたとて、一体何になる。あの者の天命を活かせるのは私しかおらぬこと、そなたもよう分かっておろう」
ソンドはくっと口の端を吊り上げた。
「無駄に命を削るような真似はやめて、楽な道を選べばよい」
人を馬鹿にしたようなソンドの言葉に、ユノは外とを隔てる格子を強い力で掴み、刺すような激しい眼光で睨みつける。
「……私を、あまり甘く見るな」
「はっ、そこにいるそなたに、一体何ができると言うのだ」
ユノの激しい眼光を涼しい顔で受け流し、ソンドはさも可笑しげに顎で格子を示す。
その目が急にぎらりと光り、ソンドは無造作にユノの顎を掴んだ。強い力で掴まれた下顎骨がみしりと軋み、ユノは息を詰める。
「ヒャンを差し出せば、そなたの命は助けてやる。これが最後の機会だ」
言葉もなく目を細めたユノは、ぷっ、と、顎を掴むソンドの顔に唾を吐きかけた。眉根を寄せたソンドの背後で、ギテが音もなく太刀の柄に手をかけるが、片手を挙げたソンドが振り返ることなくそれを制する。
ソンドはユノの顎を払うように離すと、僅かに顔を背けて緩慢な動作で唾を拭った。
それを睨みながら、ユノは口元に微かな笑みを浮かべる。
「ヒャンは私の妻だ。私がどこにいようとも、お前には決してヒャンをどうにかすることなどできない」
こうしている間に、ヒャンは既にこの場所を離れているはずだ。
ソンドに鋭い視線を向けて笑いながら、少しでも遠くに逃げてくれることをひたすら祈る。
「………くっ。くくく……」
唐突に、込み上げる笑いを堪えるように俯いたまま肩を震わせるソンドに、ユノの瞳がさらなる剣を帯びる。
「どうしても、拒むということか……。残念だな。実に残念だ。私はそなたを買っていたのに、このように愚かな答えしか出せぬとは」
ソンドは短く息をつくと、軽く肩をすくめて心底残念そうに首を振った。だが、その口端がにわかに吊り上がる。
「仕方がない。ギテ」
斜めに見やったソンドの視線を受けて、静かに首肯したギテが牢の中に何かを放り込む。足の下に敷き詰められた藁の上に落ちたそれが、くぐもった硬い音を上げた。僅かに鞘から覗いた刀身が、兵が持つ松明の火を反射して鈍い光を放つ。
「私の与えた機会を拒む以上、そなたはどのみち死ぬ定めだ。だが、私にも情けというものがある。そなたへの最後のはなむけに、自分自身の手で逝かせてやろう」
「……何だと?」
気色ばむユノを見据え、ソンドがすう……と目を細める。吊り上がった口端が三日月の形に歪んだ。
「最後の王命だ、ファン首長。今すぐ、この場で自害しろ」
「……っ!」
ソンドは目だけを動かし、地に転がったままの太刀を示す。
「紫微国の最高の刀鍛冶に打たせた特別なものだ。南の獅子の最期を飾るのに、これ以上に相応しいものはないだろう?」
「…クァク…ソンド……!」
動かないユノに、細められた鷹の目がうっそりと嗤う。
「太刀を取れ。この私が、そなたの最期を看取ってやろう」
ユノはぎり……と奥歯を噛みしめた。格子を掴む手に力がこもる。
太刀はすぐそばの足元に転がっている。よく研がれた様子の刃が、こちらを向いてぬらりと光っている。
どうせやるなら、いっそ―――。
瞬間、ユノは太刀を蹴り上げ、柄を掴んで一気に引き抜いた。漆黒の衣が翻り、ぶわりと広がった風が灯された炎を揺らす。
灯りを反射してまっすぐに鈍い光が走る刃を、ユノは瞬き一つのうちにソンドの首筋に当てた。皮膚に触れる寸前で止まった刃が、きん―――……と短い音を立てる。
動きを止め、首筋に押し当てられた太刀をじろりと睨むと、ソンドはユノに目を戻した。額に青筋を立てたユノはにやりと笑み、ソンドを見据える。
「私を甘く見るなと言っただろう。このまま喉を掻っ切ることもできるぞ」
「ふん、ならば、そうすればよかろう」
己の命運をユノが握っていることなど意に介した風もなく、ソンドは鼻で笑う。
「ファン首長、まだ分かっておらぬようだな。こんな真似をしたところで、そなたが生き延びる道は無い。見よ」
喉元に切っ先を押し当てたまま、ソンドが視線を投げかけた先にゆっくりと目を移す。顔色一つ変えずにユノに太刀を向けるギテと、槍を構えた数人の兵が目に入った。多勢に無勢、さらに、牢の中で動きも制限されるユノには明らかに不利な状況だ。
だがユノは、吐き捨てるようにハッと短く笑った。
「この程度のものが恐ろしくて、刀を引くとでも? もはや、お前は死んだも同然だ、クァク・ソンド!」
そう言うと、ユノは一気にソンドに斬りかかった。同時に、ギテと兵達もその切っ先を繰り出す。
ユノは格子の間から次々と縫うように繰り出される攻撃を、体を回転させて躱しながら、ソンドの喉笛目がけて鋭く尖った切っ先を何度も突き出した。体を捻ってユノの攻撃を躱すソンドの首元すれすれに太刀が走り、はらりと髪が散る。
その一瞬の隙を突いて、ユノは地を蹴り、渾身の一撃を繰り出した。狙いを定めた刃が意志を持ったように翻り、喉笛に食らいつこうと呻りを上げて牙を剥く。
ど―――……。
ソンドの喉元に刃を突き立てた体に、重い衝撃が走った。
こぼれた鮮血が太刀を伝い、ぴちょん、ぴちょん、と少しずつ落ちる滴が、足元に深紅の斑模様を描いていく。
「……はっ………は…っ」
大きく息をついて呼吸する音が、耳朶を打った。まっすぐに伸びたユノの刃が、微かに震える。
徐々に鮮血に染まっていく太刀を目の端に捉え、ユノは小さく口を開いた。
視界が変に揺れ、見据えたままのソンドの顔が少しずつ傾ぐ。
硬いものが腹を押さえていて、上手く息が吸えない。
喉元を捕えようと突き出した刃は、その意思を失ったかのように、食らいつく寸前で止まっていた。その切っ先がふいに大きく震え、がしゃん……と硬い音を立てて地に落ちる。
浅い呼吸を繰り返しながら、ユノはソンドを見据えていた目をゆっくりと下した。腹から突き出るように太刀が伸び、その刃に朱く伝う血が滴り落ちるたび、ユノの足元に深紅の滴が積もっていく。
ユノは、落とした視線をのろのろと太刀沿いに這わせた。別方向から突き出された太刀を握る目が、無感動にユノを見据える。
「………っ!」
すぶり、とさらに深く押し込まれ、ユノは息を詰めた。
ソンドの脇から太刀を突き出したギテが、深く押し込んだそれを、今度は大きく手前に引く。胴を貫いて背中に突き出ていた太刀が一気に引き抜かれ、その勢いに引きずられた体が反動で大きく仰け反った。
「―――――!」
ユノの口から、声にならない絶叫が迸る。
血飛沫が上がり、目の前に立つソンドの顔が朱く染まる。
ぐらりと視界が揺らぎ、天地が逆転した。くずおれるように膝をついた内腑を突き上げて、鉄の味がせり上がる。
「……ぐっ…! ……ごぽ…っ……」
腹から広がる灼熱の炎が身を焼き、視界をまっ赤に染める。視野が狭まり、全身の毛穴が一斉に開いて、ねっとりとした汗が噴き出した。
均衡を失う体を支えようと地についた手ががくがくと震え、ぐわんぐわんと鳴り響く耳鳴りが激しい吐き気を呼び起こす。息をするたびにどくどくと溢れる大量の血が、押さえる指の間をすり抜けて滴り落ちていく。
地に手をついて肩で息をするユノを、ソンドは瞬き一つせず、ただ冷たく見下ろしていた。飛び散った血を浴びたまま、喉の奥で小さく笑う。
「……南の獅子ファン・ユノも、これまでだな」
ソンドは呟くと、蹲るユノを一瞥し、身を翻した。
「ヒャンを連れてこい」
ソンドの低い声が遠くで聞こえる。ユノは苦しみに細めた目を必死に持ち上げた。徐々に輪郭を失っていく視界に、遠のいていく背が映る。
どうか―――。どうか、無事に―――。
顔を上げることすらできないユノは、その場にずしゃりと倒れ込む。そのままゆるやかに動きを止めていく漆黒の衣の下に、その色よりさらに黒々と深い染みが、大きく広がっていった。




