表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
109/109

第15話 挨

 門の外の青と赤の提灯に灯が入れば、今宵の営業の開始となる。


「ようこそおいでくださいました、旦那様」

「ああ、シン行首(へんす)か」


 華月楼(かげつろう)の中でも屈指の上等な部屋で、料理に酒にと舌鼓を売っていた客に、軽く礼を取って挨拶をする。


 ミランが中に入ると、それまで客の相手をしていた二人の上級妓女が立ち上がり、席を空けた。代わって、空いたその席にミランが腰を下ろす。


「私も一杯、注がせていただけますか?」

「ははは、シン行首が手ずから注いでくれるなど、なんとももったいないことだな」

「何をおっしゃいます。今の華月楼の繁栄は旦那様あってのもの。一杯でも二杯でも、いらっしゃっているのにお注ぎしないのは罰が当たるというものですわ」


 そう言って両手で酒を掲げると、客の方もそれ以上断ることはなく器を取り、とくとくと注がれる酒を受けてくれる。


 恰幅がよく身なりも整っており、見るからに大店の主という様子のこの御仁は、その見た目に相応しく、所作にも表情にも余裕がある。

 もう何年も、この華月楼を贔屓にしてくれている常連客だ。訪れるたびに毎回大きなお金を落としていってくれる、大変ありがたい客でもある。


 提灯が灯り、門が開くと同時に、華月楼は一気に賑やかになる。外に列をなしていた客が、妓女に案内されて次々と入ってくるからだ。


 その中で、行首であるミランの仕事はというと、客の間を挨拶に回りながら各所に目を配ることにある。

 料理や酒に問題はないか、妓女たちは滞りなく客をもてなせているか、何か問題があればすぐに対処し、客に不便を与えないようにすることがミランの仕事だ。


 妓房は、酒と香の柔らかな香りが心地よく混ざり合い、弱い者はその場にいるだけでくらくらと酔ってしまうような場所でもある。

 その空気にあてられてか、常よりも理性の箍が外れやすくなってしまう客もいるようで、妓女に対する乱暴や、些細なことから客同士の諍いに発展してしまうようなことも、やはり一定数起きてしまう。

 そんな場合には、妓房で雇っている男衆を動員して場を収めたり……と、妓女たちのように客の前で芸を披露したりすようなことはほとんどないが、行首であるミランのやることは意外と多い。


 だが、それもすべて、この華月楼に通ってくれる人々がいるおかげ。

 ()()()が過ぎる客には即刻お帰りいただくようなこともあるが、基本的には、妓女の舞や楽、酒や料理を楽しんでいってくれる客の方が多い。


 端から端まで満遍なく客の間を回るようにはしているが、そんな中で特に、この御仁のように昔から華月楼を贔屓にしてくれる常連客がいた場合は、ミランはどれだけ忙しくともなるべく直接酒を注いで、日ごろの感謝と歓迎の意を伝えるようにしていた。


「さすがに、シン行首に注いでもらった酒は旨いな」

「ふふ、ご冗談を。けれど、嬉しいお言葉ですわ」


 上機嫌で酒を呑む御仁に笑って返し、ミランは席を退き控えていた上級妓女二人に軽く目配せをした。静かに頷いた二人は、上級妓女らしい優雅な所作で場所を移動する。


 この部屋は華月楼の中でも特に広く、卓もどっしりと立派なものを用意しているが、舞台として設けている場所もまた、他には無い程広々と立派なものだ。

 背後に流麗な屏風が立ったそこに、一方は舞を、一方は楽器を奏でるために位置につく。


 やがてゆったりと奏でられ始めた楽に合わせて、ふわりと風が起こり、柔らかな動きで舞が始まった。

 酒をさらに口に含む御仁が満足そうにそれを眺めるのを確認し、ミランも口元を緩め、舞の方に目を戻す。


 華月楼に限らずどの妓房でもそうなっているのが一般的だが、客の希望や酒宴の接待をする妓女の格などによって、客を通す席は何段階かに分かれている。


 華月楼で一番手軽なのは、外の高欄に面した卓の席だ。人の出入りがすぐそばにあるため、ゆったりと寛ぐということは少し難しいが、部屋を取るわけではないのでその分のお金はかからず、気軽に料理や酒を楽しむことができる。


 次に、狭すぎない程度の広さの中に必要最低限の調度品を整えた部屋があり、もう少し良い部屋になると、複数人で酒宴を楽しむことも、そこに複数の妓女を呼ぶこともできるようになっている。

 だがそれは、下級や中級の妓女が相手をする場合の席だ。


 上級妓女、さらに、その中でも人気の妓女を席に呼ぼうと思えば、部屋もそれ相応の場を取ってもらう必要がある。

 十分な広さの部屋にこだわりの調度品を配し、窓を開ければ庭の様子も一望できる眺めの良さも備わったような部屋は、華月楼ではかなり上等な部屋の一つである。


 その、華月楼屈指の部屋で、人気の上級妓女二人を伴ってゆったりと過ごしていたこの御仁の顔には、ひと晩でかなりの額が懐から出ていくことになるにも関わらず、十分な余裕があった。それだけ、この辺境で成功しているお方だということだ。


「今宵の膳はいかがでしょうか? 旦那様がいらっしゃっていると聞きましたので、いつも以上に気を配って用意するよう伝えたのですが」

「ああ、十分楽しませてもらっているよ。来るたびにいろんな趣向が凝らされていて、ここの料理には毎度驚かされる」

「それを聞いて安心いたしました。用意した者たちも、旦那様にそう言っていただけて鼻が高いでしょう」


 贔屓にしてくれる常連客、とひと口に言っても、その種類はいろいろだ。

 いくらお金を持っていても、人徳も同じように高く持ち合わせているかというと、必ずしもそうではない。いくら身なりがよく、金回りがよかったとしても、人として眉を顰めたくなるような人間は山のようにいる。


 だが、この御仁は、そういう意味でも非常にありがたい客だった。

 心を込めて用意した料理を穏やかに堪能してくれ、妓女たちが磨いた舞や楽などの芸を真剣に楽しんでくれる。酒に酔って喚き散らすことも、妓女たちに無体な真似をすることももちろん無い。

 その上で、訪れるたびに毎回大きなお金を落としていってくれるのだ。


 先に言った通り、この御仁が名実ともに華月楼の繁栄を支えてくれているのは、疑いようのない事実である。

 これほどありがたい客は、華月楼でも数える程しかいない。妓房としては、末永く付き合っていきたい、大事にすべき常連客の一人だ。


 ミランが空いた器に再び酒を注ぐと、相手もまた舞を眺めながらゆっくりとそれを傾ける。

 ふと、その酒を味わうように呑み下していた相手が「そういえば、」と思い出したように言った。


「最近面白い噂を聞いたのだが、シン行首は知っているか」

「噂ですか? どのようなものでしょう」

「最近この辺りに出没する、おかしな連中のことだよ」

「おかしな連中?」


 御仁の話があまりピンと来ず、ミランは首を傾げる。


「ほう、シン行首の耳にはまだ入っていないか? 最近この辺りに、失った金を取り戻してくれる輩が出没しているらしいぞ」


 失ったお金を取り戻してくれる……? 初めて聞く話ね。


 客の間を挨拶に回りながら、そこから聞こえてくる話をそれとなく集め、世の流れを把握しておくことも行首として重要な仕事の一つだ。だが、そんな輩がいるという話は、今のところミランの耳には届いていなかった。

 しかも、失ったお金を取り戻してくれるとは、一体どういうことだろうか。


 御仁は、尚も楽しそうに続ける。


「近頃この辺りでは賭け場が増えただろう。私も詳しいことは知らないんだが、なんでもその連中は、賭け事やなんかで大損した金を取り戻してくれるらしい」

「大損したお金を、ですか」


 それを聞いて、ミランの眉は少しばかり寄った。

 自分のお金をどう使おうと個人の自由だが、賭け事を楽しんで失ったとしても、それは自己責任というものだ。

 教訓にしこそすれ、それを取り戻してやるとは。


 何を考えてそのようなことをする者がいるのか分からないが、「それでな、」と続いた御仁の次の言葉に、ミランはさらに眉をひそめることになった。


「面白いのは、その連中が見返りに求めるものなのだ。これは実際にその連中に金を取り戻してもらったという知り合いから聞いた話なんだが、なんと、連中は金を取り戻す代わりに、薬の定期注文を入れさせるらしい」

「薬……?」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ