第13話 祥
「スハお兄様?」
そう声をかけられて、少しばかり物思いに耽ってしまっていた意識が浮上する。
はっと顔を上げると、不思議そうにこちらを見る妓女たちの顔があった。
「ああ、ええと、何だっけ?」
「嫌ですわ、これは鴉なのか、というお話です」
「か、鴉…!?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。
裏返ったような声をあげるスハに、妓女たちはさらに顔を見合わせている。
さっきまで鴉の話なんて一切していなかったはずだが、一体どこからそういう話になった。
スハ自身、たった今まで、首元の白玉の鴉のことを考えていたところだったのだ。まさに計ったように言われたことに、思わず目を白黒させる。
というのも、理由はよく分からないが、この首飾りはあまり人目に触れない方がいいものらしい。
今では、それはきっとこの白玉が高価なもので、平民の子どもが当たり前に身につけるには分不相応な代物であるため、人々の視線を変に集めないようにという判断だったんだろう、となんとなくの想像はしているが、とはいえ、それを知らないはずの妓女たちがなぜその鴉のことを、と驚いてしまったのだ。
が、妓女たちが手にしているものを見て、スハはすぐに短く息をついた。
「……あ、ああ、それのことか。これはその通り、鴉で間違いない。俺たちの街ではよく知られてるものなんだが、ここではまだそれ程でもないんだな。これは、白い鴉と呼ばれるものだ」
「白い鴉?」
「古い言い伝えに登場する、吉祥の存在だよ。俺たちの街では、何か祝い事があると、この白い鴉の刺繍が入ったものを贈ったりするんだ。なあ、ドハン」
目をやると、相変わらず箸を動かしていたドハンは顔を上げ、「ああ、その通りだ」とそれだけを返して、また皿の方に戻ってしまう。その様子に、呆れ交じりにくくっと思わず笑ってしまってから、スハは妓女たちの手にある白い鴉に目を戻した。
色鮮やかな幅広の髪紐に、白い鴉の刺繍が施された髪飾りだ。地が濃い色の髪紐がほとんどなので、そこに白の刺繍はよく映える。
装飾品の中には、玉をあしらった細工品の他に、結んで使う形の髪飾りもある。髪を結う際には少なからず髪紐が必要になるが、その延長線上のものとして、この幅広の形の髪飾りは一般的にも需要が高い。
持参した品の中には、この髪飾りの他に、装飾品を入れる小物入れや、財布代わりとしても使える小さな巾着など、いずれも、蝶や花、鳥などが美しく刺繍されたものがいくつか含まれていた。妓女たちが手にしているのは、そういう品の一つだ。
スハはついでに、妓女たちが知らないであろう古い言い伝えのことや、その中に登場する白い鴉についても説明してやる。
「白い鴉とは……。そのような話、初めて聞きました。どちらかと言うと、鴉とは不吉なものだと思っていましたが、こうして花や蝶と刺繍されている白い姿を見ると、なんとも優美なものですね」
おっとりとした口調で、プヨンが言う。その手にあるのも、髪飾りに刺繍された白い鴉だ。
―――ああ、そういえば、前にもこうして白い鴉の話をしたことがあったな。
その、手元の刺繍を見下ろす横顔が、いつかの誰かと、記憶の中で少しだけ重なる。
あの時も、今と同じようにいろんな装飾品の中にあった白い鴉を手に取り、その謂れを説明した。
あの時も今も、白い鴉なんてものはホラ話だと本気で思っているし、特にスハの街では、その白い鴉が刺繍された髪飾りは珍しくもなんともない極々ありふれた品の一つだ。あの時手に取ったその一つが、今はどうなっているのかなんて気にしたこともなかったのに。
けれど、そこには確かに、一つの大切な思い出があって。
ふっ、と思わず口元を綻ばせたところで、そこでなぜか全員の視線がこちらに寄せられていることに気づき、スハは顔を上げた。
先程まで絶えず箸を動かしていたドハンまで、それを止めてこちらを見ている。まるで幽霊にでも会ったような、信じられないものを見たとでもいうような顔をしているように見えるが、気のせいだろうか。
「何だ? どうした?」
「いや、別に」
さっ、と早々に視線を外すドハンに首を傾げ、妓女たちの方に視線を移すが、そちらにもなぜか少々気まずそうに目を逸らされてしまった。唯一、ミョンウォルのみが静かに微笑み、「スハお兄様、」と口を開く。
「つかぬことをお伺いしますが、今、何かお考え事をされていましたか?」
「考え事? ……ああ、大したことではないんだが、前にもこんな風に白い鴉のことを説明したことがあったな、と思ってな。古い言い伝えに出てくる白い鴉は吉祥の存在だ、と同じように話したのを思い出したんだ。だが、それがどうかしたか?」
「―――いいえ、さようにございますか」
ふふ、とまた微笑み、ミョンウォルは髪飾りの方に戻ってしまう。それを見て、スハはまた大きく首を傾げた。
一体なんだろうか、彼らのこの反応は。
結局、何も分からないまま、そのことは流れていった。
「では、私はこれにします」
「私も、これで」
「私はこちらをお願いします」
それぞれに気に入った品を買い取り、帯に髪にと妓女たちは早速それらを挿し始める。
ミョンウォルは前回と趣向の異なる帯飾り、ギュリは先程見ていた蒼玉の帯飾りと髪飾り、プヨンも帯飾りと、こちらは白い鴉の刺繍が入った髪飾りも一つ買い取ってくれた。
それぞれに一つと二つずつ、計五つも品が売れたことになる。舟に乗り遅れてもうひと商売、とここに来たが、まさかこれ程一気に荷が軽くなるとは思わなかった。売れたこと自体が単純に嬉しいが、何より、それを作った職人の腕が認められたようで、それが嬉しい。
「ありがとう、恩に着るよ。またいい品があったら持ってくる」
「いいえ、とんでもございません」
「そうですわ、早くこの品を他の同輩たちにも見せたくて仕方がないくらいですのに」
言いながら、くすくすと口元に手を当てて楽しそうに笑う妓女たちに、だからスハはもう一つオマケをしておくことにした。
「ああ、そうだ。そういえば、こんなものがあるんだが―――」
荷の中から出したのは、小さな入れ物だ。片手に余裕で乗る大きさの木箱で、蓋を開けると、中からは油紙に包まれたものが出てくる。
「これは?」
「塗り薬だ」
「塗り薬?」
本来は、中身の質が変わらないように陶器でできたものに入れるのだが、これは試作品なので、油紙で少量を包んだものを仮の入れ物としてこの木箱に入れていた。
覗き込む妓女たちに、よく見えるように油紙を広げてやる。色は黄色っぽい薄い色をしているが、形状としては薄い粘土のようなものがそこには包まれている。
「妓女たちは一日中白粉をはたいているし、特に今の季節は乾燥で肌が荒れやすくなるだろう? 寝る前に白粉をしっかり落として、そこにこれを伸ばすように少量塗れば、乾燥や肌の荒れが治まるはずだ。三人分渡しておくから、少し試してみてくれ」
「まあ! そのようなもの、よいのですか!?」
「ああ、品を買ってくれた礼だからな。実はこれはまだ試作段階で、薬として売れる物ではないんだ。だからまずは、顔ではなく手や足の気になるところに少量塗ってみて、調子がよくなれば顔の方にも使ってみてほしい。一応、既に何人かの女人に使ってみてもらって、薬に問題ないことは実証済みなんだが、それでも一応な」
言って、それぞれに渡すと、妓女たちは嬉しそうにそれを受け取ってくれた。
「また今度来た時にでも、感想を教えてくれ」
「承知しました」
頷いてくれる妓女たちに頷き返し、「さて、」とスハは手を打ち合わせた。
「それじゃあ、やることも終わったし、あとは飲み食いを楽しむとするか―――て、うん?」
少し前、端に寄せた料理を見ると、その皿はもうほとんどが空になっている。残っているのは、彩りのために置かれた小さな南天や葉などの残骸のみで、豪華だったはずの料理の数々は跡形もなく消えている。
「……おい、ドハン」
「何だ?」
「まさかとは思うが、これ全部食べたわけじゃないよな?」
「何言ってんだ、スハ。目が腐りでもしたか?」
「だよな、気のせいだよな」
「いやいや、皿に何も残ってないんだから、俺が全部食ったに決まってんだろ」
ふん、と鼻で息をついて、ドハンは悪びれもせずにほざき始める。
「お前が全然食おうしねえから代わりに食ってやったんだろ。冷めたらせっかくの料理が勿体ねえじゃねえか。最上の状態で用意されたものたちにも申し訳ない」
五年も経って、体も大きくなり、もはやそのほとんどが脂肪ではなく筋肉に変わったとしても、ドハンはやはりドハンらしい。
その食い物中心の物言いに、思わずスハはため息をついたのだった。




