第10話 異
ここで、少しドハン視点です。
まったく、無自覚が一番怖えよな。
やって来た妓女たちを笑顔で迎え入れ、今もそつなく彼女たちと会話するスハを横目に見て、ドハンは内心でそんなことを思う。
「ミョンウォルでございます」
「ギュリでございます」
「プヨンと申します」
それぞれに軽く胸に手を当てて礼を取り、妓女たちが順に名を名乗る。
浅葱、萌黄、薄紅と、趣の異なる衣装を纏った三人の妓女たちは、運んできた酒や料理を丁寧に並べると、スハとドハンの間を埋めるように卓についた。
どれも年若く、まだ初々しさのある下級の妓女たちだ。浮かべているのは、華月楼の妓女らしい優美で落ち着きのある笑みというよりも、まだほんの少し経験の浅さを感じさせるような明るく若々しい笑みだ。
「お兄様方、お元気でした? また呼んでいただけて光栄ですわ」
そう言って、それなりに優雅ながらも早速スハの隣に腰を下ろしたのは、ミョンウォルと名乗った妓女だ。前回華月楼を訪れた際にも、卓についてくれた妓女である。
心なしか、やや多めにスハの方に視線を向けているように感じるが、それはきっと気のせいではない。
「いや、こちらこそだ。また会えて嬉しいよ。ミョンウォルも、元気だったか?」
ああ、こいつは、また……。
だが、そこにスハが返した言葉に、ドハンの眉はまたぎゅっと真ん中に寄った。
天然の女たらしは、これだから困る。自分の言動が相手に与える影響というものをまったく考えていない。
尚悪いことに、さっと頬を染めるミョンウォルに対し、スハの方はなんでもない顔でさらに笑顔を重ねている。ドハンは、それに思わずちっと舌打ちしそうになった。
この妓房の妓女たちは、上級から末端の見習いに至るまで教育が行き届いており、客によって対応を変えることはない、というのがスハの談だが、ドハンはそこに少しばかり異を唱えたい。
たしかに、華月楼の妓女は優れている。どんな客であっても最高のおもてなしをするという精神が浸透しており、客によってその高い品質を下げるようなことはない。
だが、逆は違う。
下げることはしないが、ほんの少しばかり上げることはある。引かれるのではなく、足される方で若干の差が生まれることはあるのだ。
それを教えてやるのは癪なので口が裂けても本人に言うつもりはないが、上級妓女と目が合えば柔らかく微笑まれると思っているのは、恐らくスハだけである。
彼女たちは、誰彼構わず柔らかな笑みを向けているわけではない。相手がスハだから、そういう笑みを向けているのである。
現に、ドハンは彼女たちに微笑まれることはあっても、柔らかい微笑など向けられたことは一度も無い。そこにあるのは常に営業的な笑顔だけで、金も払ってないのに極上の笑みを向けられたことなど、今まで一度として無いのだ。
上級妓女でそれなのだ。いくら教育が行き届いていたとしても、まだまだ下級のミョンウォルや今ここにいる他の妓女たちに、何も感じず他と同じように対応しろと言うのは土台無理な話なのだ。
天然の女たらしの言動で舞い上がってしまうくらいはするだろう。
だが、非常に恐ろしいことに、彼女たちに向けられるスハの爽やかな笑顔に、その手の特別な意味は何も含まれていない。
先程ミョンウォルに放った「会えて嬉しい」という言葉も、純粋に再び会えたことが嬉しいだけ―――先に話していた通り、求めていた感想を聞くことができるから嬉しいという、本当に言葉通りの意味しかないのだ。
こうなると逆に、妓女たちの方に同情しちまうくらいだな……。
ミョンウォルが席につくと、名乗った順ということで暗黙の了解でもあるのか、それとは反対側のスハの隣にギュリという妓女が腰を下ろし、最後に残ったドハンの隣、スハとは離れた端の席にプヨンという妓女が腰を下ろした。
その反応はあらかじめ予想していたが、スハの隣を手にしたミョンウォルとギュリの白い頬はほんのりと朱を差したように色づいており、口元にも自然と浮かんだ淡い笑みが感じられる。
ま、そうなると思ったぜ。
とはいえ、それ程あからさま過ぎないというところが、やはり華月楼の妓女と言うべきか。スハの方に視線を向けつつも、二人ともドハンの方に微笑みを向けることも忘れていない。
よくそんな器用なマネができるな、とドハンなどは素で感心してしまう程だが、下級とはいえそれが妓女というものだと言われればそうなのかもしれないとも思う。なので恐らく、自分の両隣を我先にと妓女たちが取ろうとしたことに、スハ自身は気づいていないに違いない。
いつものことなので今さら驚きはしないが、はたから見ているからこそ、気づけるものもあるということである。
「なんか、すまねえな」
「え?」
だから、スハとは真反対のドハンの隣で酒を注いでくれていたプヨンという妓女に、思わずそんな謝罪がもれた。
「俺の隣なんかでよ。俺は自分で好きに飲み食いしてるから、場が落ち着いたら、あんたもそのうちあっちに混ざればいい」
「いいえ、そのような……!」
プヨンは驚いたように言ってから、だが、ちらとスハの方に視線を向けた。その目には、やはりそちらが気になるというような色が浮かんでいる。けれど、プヨンはそれをすぐに微笑の下に隠し、完璧なまでの答えを投げて寄越した。
「私など、このお席に呼んでいただけただけでも大変ありがたいことなのです。ですので……、失礼ですが、お兄様のお名前をうかがっても?」
「うん? 俺は、ドハンだが……」
「では、ドハンお兄様」
「へ、え……っ!?」
「ドハンお兄様に心行くまで楽しんでいただけるよう、しっかり務めさせていただきますね」
ふふ、と向けられたプヨンの微笑みに、ひくっ、と思わず喉が鳴った。
スハについて妓房に来てはいるが、別に女を買いに来ているわけではない。どちらかと言うと、ドハンの目当ては饗される料理の方で、実際、妓女たちが来るまではそれこそを楽しみにしていたのだ。
だというのに、これは半端ない。
下級といえど、やはり妓女は妓女だ。いい香りもするし、唇に差した紅は妙に色っぽい。美しく微笑んで「ドハンお兄様」などと呼ばれたら、もう駄目だ。いくら無関係を決め込もうとしていても、何も反応せず通り過ぎることなど無理に等しい。
予想外の不意打ちに生じた焦りを相手に悟られないよう、ドハンは慌てて手酌で注いだ酒を煽った。一気に呑んだせいで、少し辛みのある酒がカッと喉を焼く。
思わずむせたところに、すかさずプヨンが水を差しだしてくれた。それを「す、すまん……」と謎に謝りながら受け取って、プヨンとは反対の方を向いてその水を飲み下す。
「なんだ、どうしたドハン。お前、酒は弱くないだろ?」
「ごほ……っ、うるせえ、放っとけっ」
むせたドハンを不思議そうに見てくるスハに、口を拭いながらそれだけを返した。
スハの奴は、よくこれで何も意識しないでいられるな。普段は勘がいいくせに、ここまでくると逆に尊敬するぜ……。
仮に、それが本当の意味で本心から言われた言葉ではなかったとしても、美しい妓女に名前を呼んで微笑まれれば嫌な気はしないのが男というものである。ドハンでこれなのだから、スハは当然もう何度も「スハお兄様」と呼ばれて微笑まれているはずだ。
それなのに、これである。
卓の向こうでいつもと同じような笑顔を妓女たちに向けるスハをちらと見やって、何のものかも分からないため息がこぼれた。
スハの見てくれは、確かにいい。背も高く、鍛えていることによる厚い胸板と引き締まった広い背中も、女たちの目を引くのには十分な理由になっているのだろう。
だが、若い妓女や、街ですれ違う娘だけでなく、上級妓女から柔らかい笑みを向けられても、スハはまったく気にも留めていないのだ。そんな視線をなぜ向けられているのかも理解していないようで、頬を桃色に染めている娘たちに対し、さらに追い打ちをかけるような笑みを返したりしている。これはもう、最近では日常茶飯事だ。
これが確信犯であれば、自覚があるという意味でまだいいのだが、無自覚に天然でやっていることだから始末に負えない。無駄に振りまいた愛想のせいでそのうち大変な目に遭うこともあるかもしれないが、もしそうなったらそれは自業自得というものだ。
スハがこの手のことにまったく興味を示さないのは、それ以外に頭を占めることがたくさんあるからだと分かってはいるが、それを常にそばで見せつけられるこちらの身にもなってほしい。同じように鍛えていても、こちらは無駄に横に厚くなるばかりで、スハのようにしなやかに引き締まった筋肉を手に入れることはできないと言うのに。
こいつが本当は、違法な賭け場に出向いてはしたり顔でイカサマを働きまくっていることや、本気で向かってくる相手を手の平で転がすように適当にやり込めていること、華月楼に来るのは純粋に楽しむためじゃなく、自分の別の目的のために単に若い妓女たちを利用しようとしていることも、思うままに言ってしまえたらどれだけいいか。
だがそれを言ったところで、スハの株は下がるどころか、なぜか逆にうなぎ上りに上がってしまうだろうことは目に見えている。
いつの時代もちょっと悪い方が女に好かれる傾向にあるというのは、コツコツと真面目に生きている身としては不公平以外の何ものでもなく、実に憤懣やる方ない話だと思う。
まあ、俺だって、色恋沙汰に目を向けてる余裕があれば、少しでもたくさんの美味いもんを食う方を優先するけどな。
スハに合わせてヨンギルに弟子入してからめっきりその機会は減ってしまったが、せっかくの機会を棒に振ってはこの絶品の料理たちに申し訳ないというものだ。
そうして結局、ドハンは当初の予定通り、饗された華月楼の料理に集中することにしたのだった。
この世界では18歳は成人の扱いなので、お酒も普通に呑みます。




