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第9話 黄

 妓女(ぎじょ)というものは、少し動くだけでもふわりといい香りがする。


 華月楼(かげつろう)の妓女ともなれば、その妓女の格がどうであれ、衣に焚きしめた香は一級品だろう。

 その後ろを歩いているのだから、意識をせずとも息を吸うだけで、はっきりとその香りを感じられる。まるで、自分の体がよい香りに包まれているようだ。


 これは一体何の香りだろう。


 薬草であれば子どもの頃からそれなりに慣れ親しんできたので、ある程度のものは見ればもちろん、においを嗅げばそれが何であるかだいたい分かる。だが、香木や香草、尚且つそれを複雑に混ぜ合わせて作られたような一級品の香は、そこに何が用いられているのかすらまったく見当もつかない。しかも、香というものは、焚き方によってもかなり香りが変わるものだと聞いたこともある。


 香は贅沢品の一種で、平民の日常生活にはあまり馴染みのあるものではない。それが(たしな)みだと言って日常的に手元に置いているのは、金に余裕のある裕福な者たちだけだ。


 彼らは、自身の見栄のためには金を惜しまぬ傾向にあり、貴重なもの程心血を注いで手に入れようとするところがある。自分たち庶民には到底理解できないことではあるが、だが見方を変えれば、そこには商機があるとも言える。


 香か……、ゆくゆくはそこを攻めていってみてもいいかもな……。


 だが、本気で香に手を出そうと思えば、鼻の優れた調香師が必要になるし、何より、香の原料になる香木や香草というものはかなり貴重で、薬草と違ってそこら辺の山で簡単に集められるものではない。

 貴重な香木は一大財産にもなり、さらに、それをいくつも複雑に組み合わせてつくる香の調合方法は、総じて秘匿され、門外不出の扱いになっていることがほとんどだと聞く。


 それ自体に高い希少価値があるものは、それを有している者や、その作成方法を知っている者の価値すら大きく高めることに繋がる。だが、単に価値が高いだけでなく、秘匿性も高いものを抱えるということは、それだけ、そこに関わる者たちを危険に晒す可能性が高くなるということでもある。


 まあ、魅力的だけど、現実的にはやっぱ厳しいよな……。


 結局、そういう活論に行きつく。

 今は地道に、できるところから確実に進めていくのが、やはり一番の近道なのかもしれない。


 前を歩く妓女から漂う香りに、ううむ、と腕を組んで唸りつつスハが歩いていると、向こうから数人の若い妓女がやって来るのが見えた。


 それぞれ、手に空の盆を持っており、身に着けている衣もそれ程豪奢なものでないところを見ると、下級の方の妓女なのだろう。上級妓女が呼ばれた席へ、酒や料理を運んだ帰りのようだ。


 まだ下級の妓女たちは、上の妓女がついている席への御用聞きをすることで、客に顔を覚えてもらったり、気に入られればその席についたりして、自分の名前を売っていくものだ。この華月楼では比較的均等にその機会が与えられるようになっているようだが、低俗なところでは一部の妓女のみがその権利を独占しており、それ以外の妓女はずっと下級のままというところも少なくない。


 女の園は妬み嫉みが蔓延(はびこ)って、実に恐ろしいところだと聞く。その点、華月楼にはそれがまったく感じられない。単に客からは見えないようにしているだけかもしれないが、それでもすごいことだ。


 本当にここはいろんなところが優れてるよなあ、と思いながら、向こうからやって来る妓女たちを眺めていると、目が合った途端に、慌てたように全員からぱっと不自然に視線を逸らされた。


 華月楼の妓女は、総じて落ち着きがあり、しとやかだ。年上の、それこそ上級妓女たちと目が合ったりすれば、余裕たっぷりに柔らかく微笑まれる。


 たとえ上級でなくとも、しっかりと目が合った場合に不自然に逸らされることはあまりない。なので、今のような反応は珍しい。


 それまでは向こうもこちらを見ていたようだったので、その違和感は余計だ。


 なんだ? 俺、何か変なことしてたか?


 妓房(ぎぼう)に来ると―――いや、妓房じゃなくても、道行く若い娘と目が合うと、同じような反応をされることがたまにある。スハとしてはただ歩いているだけで、何もおかしな行動を取っている覚えはないのだが、見ていられないというように即座に視線を外されるのだ。


 目が合えばそうなることが多く、逆に、合わなければずっと視線を向けられているような時もある。昔からそうだったわけではなく、その傾向はここ数年のもので、最近は特にそれがひどい。


 ドハンや他の奴らに聞いても、なぜか白い目で見られるだけで一向に答えを得られず、謎は深まるばかりだ。


 だが、袖振り合うも他生の縁、という言葉もある。目が合ったのにこちらも素っ気なくそっぽを向いてしまうのは、いささか居心地が悪い。ということで、そういう場合は当たり障りなく笑みと軽い会釈を返しておいて、そのそばを通り過ぎることにしている。


 今も同じように返していたら、それを見ていたらしい隣のドハンがぼそりと呟いた。


「それ、確信犯だろ」

「うん? 俺が何を確信してるって?」

「……そういう意味じゃねえよ」


 この天然め、となぜかまた苦虫を嚙み潰したような顔をされた。


 ドハンまで一体何なんだ、とスハが首を傾げていると、後ろで複数の黄色がかったような声が小さく上がるのが聞こえた。気のせいでなければ、堪えていた歓声が思わず漏れてしまったというような感じだ。


 だが、後ろを振り返っても先程すれ違った下級妓女たちが足元が若干覚束なげに歩いているだけで、その他は何も変わった様子はない。心なしか、彼女たちの頬が紅潮しているように見えないこともないが、その理由もスハには当然図りかねるものだ。


 結局、再び首を傾げながら、スハはまた歩き始めたのであった。







 明らかに金を持っているようには見えない冴えない若造二人組でも、華月楼ではそれなりの部屋に通される。逆に言えば、華月楼以外の妓房であれば、当たり前のように()()()()()に通されることの方が普通だ。


 そこにもまた改めて感心を深めながら、スハはドハンと通された部屋に入った。


 華美過ぎず、かと言って飾り気がまったくないわけでもなく、隅々まで品よく整えられている。


 通されたのは、二、三人の客が妓女と酒を飲むにはちょうどいい広さの部屋。中は、二間をぶち抜いたようなつくりになっており、手前側に酒宴の主な席となる卓が置かれ、奥側には少し空間が取られている。舞や楽器の演奏などを所望されれば、そこで披露できるような形になっているのだ。客はそれを卓から眺めることもできるし、近くで見たい場合は、奥の方に置かれた長椅子からゆったりと鑑賞することもできるようになっている。


 華月楼を訪れた客は必ずしも部屋に通されるわけではなく、外の高欄側の卓に通してもらうこともできる。

 ただ酒宴を楽しんで帰るだけの場合は卓の方でよいのだが、案内の妓女に宿代わりに一夜留まりたい旨を伝えたため、この部屋に案内してくれたのだ。


 案内してくれた妓女に軽く礼を伝えると、彼女は一礼し、しずしずと下がっていった。しばらく(のち)、こちらが頼んだような料理や酒が、希望したような妓女たちの手によって運ばれてくるのだろう。


 妓房だからと言って、必ず酒宴の席に妓女を侍らせなければならないわけではなく、夜の相手も必ずついてくるわけではない。部屋も酒宴の内容も妓女も、すべてが客の希望次第で、その内容を最大限取り入れてくれる。それが華月楼だ。


 くどいようだが、これが他の妓房なら、ここまで客の希望に合わせてはくれない。酷いところになると、いらないと言っても妓女が無駄に侍ってきたり、何なら、逆に寝込みを襲おうとしてきたりする。そして翌朝、法外な金を請求されるのだ。


 ―――と、これは別に実体験というわけではなく、あくまですべて聞いた話だ。


「寝台がある部屋じゃなくていいって言っちまったけど、まあ、この季節だし、そこの長椅子とかで適当に寝ればいいよな? 掛布くらいは頼めば出してくれると思うけど、ドハンはどうする?」

「いや、大丈夫だ。せっかくだし、俺は寝るより食いてえ。華月楼の飯なんて、滅多に食えねえし」

「はは、やっぱ喜んでんじゃないか」

「悪いかよ。まあ、お前のせいだし、お前の金で絶品料理を食えるってんだから、これでもかってくらい食い尽くしてやるよ」

「あんま食べ過ぎんなよ。脂肪で体を重くしたら、師匠の無茶苦茶な要求についていけなくなるぞ」

「いいんだよ。そうなったらそうなったで、酒の一つでも渡しときゃあ、あのオッサンはすぐ静かになんだから」

「あ、おい、それ師匠に聞かれたら、まじでヤバいやつだからな!」


 そういうフザけた発言をして、今までどれ程の激しい喝を浴びてきたか。

 それを四人の中で一番浴びているスハは、思わず首を低くして辺りを見回す。


 あの地獄耳は、どういうわけかスハが少しでもそういうことを口にすると必ず聞き咎め、必要以上の(げき)を飛ばしてくるのだ。この五年で、それを言葉通り()()()に学んでいた。


 頭ではいないと分かっていても、まさか近くにいやしないかと視線を走らせてしまうのは、もはや条件反射的なものである。


「失礼いたします」


 そうこうしている間に、頼んでいた酒と料理が運ばれてきたようだ。


「お待たせいたしました、お兄様方」


 優美の極みのような上級妓女とは異なり、その微笑みにはまだまだ慣れない初々しさのようなものがある。


 これはこれで、あえてこちらの方を好む者もいるのかもなあ、と他人事のように頭の端で思いつつ、希望した通りの妓女たちがやって来たのを見て、スハはにんまりと笑って彼女たちを迎え入れた。



スハは、自分の見た目が異性の目を引くものだという自覚がまったくありません。しょっちゅう視線を寄せられることを、本気で不思議に思っています。

その手のことに疎いわけではないのですが、これは彼女たちをまったくそういう目で見ていないからです。


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