第7話 惜
スハたちが暮らす街の近くには、蔡景だけでなく、遠く尚景や冲景までを繋ぐ大きな河川が流れている。
この世界の出発点とも言えるような波止場には、毎日のようにたくさんの物や人が入ってきては運ばれ、そして出ていく。人や物の流れが盛んなので、波止場には常に大きな船が停泊しており、いつも賑やかだ。
そんな波止場が近くにあるおかげで、スハたちの村は今や辺境の大きな街として発展したわけだが、この隣街とを繋ぐ河はその大河川の支流となっている。
支流なので河幅はそれ程広いわけではないが、流れは非常に緩やかで、夏になれば河岸で水遊びを楽しむ子どもたちの姿も見ることができる。
波止場と呼べるほどではない小さな桟橋がその川岸に用意されており、そこから自分たちの街とを繋ぐ小舟が一日に数回、行っては帰りの往復運行で出されていた。
舟自体も大きいものではなく、船頭を除けば五人程でいっぱいになる小舟だ。だが、陸路で行けばそれなりにかかる距離なので、荷物を抱えている時などは重宝する。
それもあって、辺境の街と街を繋ぐこの舟は、意外に重宝されている。
舟が出る時間は決まっているわけではなく、客がいっぱいになれば出発という形で運行されており、たいていの場合、日が傾き始める頃がその日の最終便になるのだが―――。
……いやあ、これはもう、今日中に帰るのは無理だと思うぞ。
前を行くドハンの背を追って走りながら空を見上げ、スハは何度目かの息をついていた。
先程の通りで賭け場の連中を躱し終えた時には、既に日は中天を大きく西に傾き始めており、桟橋に向かって走る今も、太陽はどんどん西に傾いていく。
最後の舟が岸を出る時間は決まっているわけではないが、今までの感じから考えると、もう岸を離れている可能性の方が高い。
大金も背にしたままであることだし、できれば今日中に帰りたいところではあったが、これは恐らく厳しいだろう。
「おい、早くしろって!」
「ああ、はいはい」
半ば諦めているスハではあるが、諦めの悪いドハンが急き立ててくるので、仕方なく走っているという状況だ。
予定が狂ったのはスハのせいであることは否めないので、強く出られないということもある。ここで「もう無理だから、諦めようぜ」なんて言うと、ドハンの剛腕が振るわれかねない。躱すための喧嘩ではなく、本当の喧嘩が始まってしまう。
そうそう負けることはないとは思うが、とはいえ簡単に勝てる相手でもない。ドハンは、スハと一緒に五年前からヨンギルに師事する仲間の一人だからだ。
五年前、スハは強くなりたくて、ヨンギルの元に弟子入りをした。
正直、師であるヨンギルが本当は何者なのか、どこから来て、元々何をしていた人なのか、スハには未だに分からない部分が多い。―――というより、スハがヨンギルについて知っていることといえば、スハが生まれる前から辺境のあの街にいて、この辺りの大半の大人とは異なり読み書きが当たり前にできること、そして、ソンジェに薬房の知識を与えたこと、それくらいだ。
気づけば酒ばかり呑んでいて、仕事もしていないのにその金は一体どこから出ているんだ、と眉を顰めるようなことの方が今でも多い。
けれど、スハの周りにいる人間で、一番強いのは確実にヨンギルで、未だに本気の手合わせはしてもらったことはないが、その強さは本物だと思っている。
一体なぜそんな人物がこんな辺境で隠居ぶった暮らしをしているのかは不明だが、強くなりたいと思った時に、その手段について無理やりにでも教えを請える相手が近くにいたことは、スハにとっては幸運だったと言える。
そのヨンギルに弟子入りして最初の頃のこと―――まだ雑用ばかりしていた頃で、投げられた雑巾もよけることができなかった頃のことだ。
繁みから飛び出してきたドハン、ジョンウ、ヒスの三人が、スハと同じく自分たちも弟子にしてくれとヨンギルに言ってきたことがあった。
なぜ三人が急にそんなことを決意したのか、結局今に至るまでちゃんと聞いたことはない。だが、母を亡くし、人知れず胸に大きな誓いを立てたスハに、それを誰にも相談することなく進もうとしていたスハのために、三人がそう言い出してくれたのであろうことには、なんとなく気づいている。
最初は嫌そうに顔をしかめていたヨンギルも、結局は三人を受け入れることにし、ドハンたちはこの五年、スハとともにヨンギルの元で数々の鍛錬をこなしてきた。
とはいえ、家の手伝いや仕事の合間にこなしていた程度でそれだけをやってきたわけではないが、それでも、彼らは三者三様に、そこらの人間には簡単には負けない程度の力は持っている。
先程ドハンがスハと一緒に賭け場の連中を躱すことができたのはだからで、そういうこともあり、ドハンもそれなりに強い。五年前は脂肪でぷよぷよしていた体が、今では筋肉に覆われた岩のような体になったのも、その鍛錬の賜物だ。
そんなドハンとやり合えば、いくらスハとて無事では済まない。よって、こうして大人しく走っているわけだが。
「……あっ、ああ! その舟、待ってくれー!」
ドシドシと重い体を全速力で飛ばしていたドハンだが、岸を離れていく舟を見て、桟橋の手前で手を伸ばしたまま、へなへなと地面に膝をついてしまった。
船頭がゆっくりと動かす小舟は既に河の中腹辺りまで進んでおり、仮に泳いで追いかけたとしてもなかなか届かない遠くを進んでいる。まあ、岸を離れた時点でその舟は満員ということであり、泳いでいったところで乗れるわけではないのだが。
だから、無理だって言ったろ……。
実際にはそれを口にしてはいないわけで、そう思っている今もそれを言うことはしないが、胸の内で思うことくらいは許されるだろう。
スハとて、ここであえて本音を言って、神経を逆撫でするようなことをするほど馬鹿ではない。だから代わりに、ものすごく分かりやすく肩をがっくりと落とし、間に合わなかった残念さを表現しておくことにした。
「ああ、行っちまったか……。あともう少しだったのに、惜しかったな」
本当に残念だ……という意味を込めて、途方に暮れたように額を押さえつつ深く嘆息する。だが、スハがそうして精一杯の残念さを表現したにも関わらず、こちらを振り返ったドハンはなぜかキッと睨みつけてきた。
「何が惜しかった、だ。間に合わなかったのはお前のせいだろ」
「だから、それは悪かったって。仕方ねえだろ、まさかあいつらが追いかけてくるとは思わなかったんだし」
「そうじゃねえよ! そもそも、今日は賭け場に行く予定なんて無かっただろ。行ったら行ったで、時間になっても切り上げねえしよ」
「んん、それも仕方ない。賭け師としては、十倍になるって言われたら乗らないわけには―――」
言いかけたところで、握った太い拳をドハンが振り上げるのを見て、慌てて言葉を引っ込める。
ドハンは、スハのその様子に、はあ、と大きくため息をつくと、立ち上がりながら膝を払い、なんだかいろいろ諦めたように再び深い息をついた。
「何が賭け師だよ。イカサマの腕ばっかり上げやがって」
「いやいや、お前はイカサマって言うが、俺はただ目がいいだけだ。向こうのイカサマに気づいちまうから、それを逆に利用してやってるってだけのことなんだ。賭け場の方が真剣にやってくるなら、俺だって真剣にやるさ。まあ、そうしたところで、俺は運にも恵まれてるからほぼ負けないんだけどな」
かかかっ、と笑うと、ドハンからはまたじとっとした目で睨まれた。
実際、スハはかなり目がいい。その卓で誰かが変な動きをしていれば、それがどんなに些細な動きだとしてもすぐに気づくし、どれ程手練れのイカサマ師を相手にしていたとしても、何をしようとしているのか見ていればだいたい看破できる自信がある。
自分が使うイカサマはそういうところから学んだもので、何をどう動かせば人に気づかれるということも自分を通して知っているから、簡単には人に気づかれないやり方というのも自然と分かる。
加えて、自分は運もいい方らしく、ここぞというところで回ってくる札には必ずと言っていい程ハズレがない。
この二つをかけ合わせれば薬房なんてやらなくても賭け事だけで十分に食べていけるだろうが、あいにくそうするつもりはスハにはないため、ある目的のためにのみ、その力を発揮することにしている。
傾きかけた日が沈むのは、思いのほか早い。
舟もいなくなった桟橋でいつまでもこうしていても仕方がないので、「まあまあ、舟は明日も出るんだし」と軽くドハンの肩を叩いておいて、そこでの話は切り上げ、スハは街の方へと続く道に戻り始める。
「どうせなら、もうひと商売していこうぜ」




