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駕籠かき  作者: 奥津雨龍
6/6

駕籠

山を下り始めてどれくらい経っただろうか。


五郎はただ、人足としての己が役目に没頭していた。

日の入りに追いつかれる前にと、松本たちからも休みを取らずに歩くよう命じられ、麓まであと少しとなったところで、雲行きが怪しくなってきた。

肌に触れる空気の中には、急に冷気が感じられるようになってきている。

水の混じった土の匂いが、あたりを漂い始めているような気がする。


「なんだか嫌な雲行きですね」

と、金子が松本たちに問いかけるように言った。

「旦那方あ。こりゃひと雨来ますよ」

怒鳴るような与助の声に、

「急ぐぞ。もたもたするな」

と、玉木が不機嫌そうな声を返す。


「そりゃ、急ぎはしますがねえ」

空はどんどん暗くなっていく。ずんずんと、遠くから迫って来る雲が黒い。遠くのほうで、雷も鳴っているようだ。


これはいよいよもつまいと五郎が思った途端、最初の一滴が首筋に落ちた。

ぽつ、ぽつ、ぽつと少しずつ増え始めた水滴が、ざあと、白糸のような雨になる。


「あと少しだってのに、とうとう降ってきちまったな」

与助の気だるそうな声が後ろから聞こえる。


「麓まで行くぞ」

短く指図した松本の言葉に「へえ」と承知して、雨の中を進んで行く。


山の中は頭上を木々が覆うので、初めの内ならば案外濡れることなく進んでいける。

けれどそれも当然ながら長くはもたない。駕籠を担ぐ指先に雨が伝い始めると、手が滑りそうで、五郎はさらに力を込めた。


麓まではあとわずかのはずだが、雨は思いのほか勢い良く降ってきている。

高山が濡れてしまう。

そう思って、五郎は振り返りそうになったが、振り返れば足元がおろそかになって危ない。

それにもう振り返って言葉をかけても、出来ることは何もないのだとわかってもいた。


すぐ後ろに背負っているのに不思議なことだが、高山はずっと遠くにいってしまった。もう、五郎の声が届かないところに行ってしまったと、そんな風に思えてならなかった。


それとも、初めからそうだったのかもしれない。


初めから、五郎の声など、高山の耳には届いていなかった。

ただ勝手に、五郎が打ち解けたような気になって、新しいことを知った気になって、高山に親しみを覚えたつもりになっていただけなのかもしれない。


今日何度目かの寂しい気持ちが雨とひとつになって、体に染み入っていくようだった。


麓まで下りさえすれば、宿場町に入れる。

今日はもうこれ以上は進めないだろう。

後にしてきた山の上にも、雨は降っているだろうか。


あの芸人達は、この雨の中をどう凌いでいるだろうかと、懐かしむように、ふと、そんなことを頭の端で五郎は思った。


山を抜けて濡れそぼりながら、宿場までの道を半ば駆けるように進んだ。

細やかな雨は、次第に強さを増していく。

土の上を叩く雨粒が、泥をはね上げて足や着物を汚す。それ以上に、駆ける自分の足が泥水をはね上げている。草鞋を履いた足の爪に、砂利が詰まっていくのが気持ち悪い。当たる雨が体を伝ってどこもかしこも濡れていく。

背にした駕籠の中で、高山も同じように雨に当たっているだろう。心地悪くはなかろうかと気にかかりはしても、振り返らずにただただ道を急いだ。


ようやく、と言うほどの距離でもなかったのだが、正直なところようやく、と思う頃に宿場へとたどり着いた。


宿場の宿にも貴賎はあるが、どこの宿でも同じように、雨から逃げた旅の者たちが駆けこんでいた。

その様を横目に歩いていると、す、と前を行く松本の足が止まり、ああここかと思う。

宿場にある、簡素な牢の前で、

「ここまででいい」

と、言われて五郎は、胸が詰まって息ができなくなったように思った。


ここまでなのだ。

松本たち役人はこの宿場へ泊まる。

けれど人足まで宿へ泊めたりはしないものだ。

どこの宿場にも、人足などいくらでもいるのだから、五郎と与助はここでお役御免となる。

新しい駕籠かき人足は、発つときにまた、この宿場の人足指のもとで別の人足を雇い直すのだ。


駕籠は中の罪人ごと宿場の牢へと預けられる。

ここから先は、おそらくは何か重い罰が待っているのだろう江戸へと、五郎ではない人足が高山を運ぶことになる。


もう二度と、五郎が高山に会うことはない。


高山は、駕籠の中で眠っているかのように目を瞑っている。

牢番が駕籠を引き受けようとするのを、五郎は都合のいいところまで運ぶからと言って制した。

後ろを振り返ると、与助も、それでいいと言うように肯いてくれた。


牢番は訝しそうにしながらも、

「そんならこっちへ」

と言って、先に立って歩いた。


着いた先は、薄暗くじめじめと如何にも清潔ではなさそうな陰気な場所だった。

そこに、と指図されてゆっくりと駕籠をおろす。


「さあ、とっとと出た出た」

「あの、何か、布か何かもらえませんかね」

そう五郎が言うと、牢番は驚いたような顔をした。


「そんなもん、何に使う」

「こいつが、大分雨に濡れてますんで、拭いてやったがいいと、そう思って」


あまり、慮っているように聞こえると、余計に高山の立場が悪くなるように思って、五郎はなるべくぞんざいな物言いで、駕籠を指し示した。

こいつ、と言い表すのは、瞬間ためらわれて、それでも言い放ったときに、何かが胸の中でひどく軋むような心地がした。


「ご親切なことだ」

あざけったように口を曲げた相手に、五郎はさらに言葉を重ねる。


「これからお上のお取り調べがあるってのに、江戸に着く前に死んじまったりしたら、具合が悪いと思うんですよ」

五郎の言葉に、牢番は、ふーんと鼻を鳴らしながら考えるように口をつぐむと、嫌な笑い方をして見せた。


「そんなもんはお前ごときが気にかけんでいいんだ。余計な事は言わずにさっさと外に出てもらおうか」


それ以上、この場に留まる言い訳も思いつけず、五郎は駕籠に向かい、

「あの」

と、声をかけた。


眠ったように目を瞑っていた高山の顔が、すっと上げられる。

「なんでしょうか」


牢番の前で、先生と呼んで良いものなのかどうかわからなかった。

だから、先生とは言えないまま声をかけたのだが、それでも、先生と呼びかけた時と同じ言葉で返事をされた。

それがなんだかおかしくて、笑ってしまいそうだと思ったけれど、思うに反して五郎の顔は、不器用に歪んだだけだった。


「お運びするのはここまでです」

高山は、そうですか、ただ一言口にした。

そこには、どのような感慨も込められていないように感じられた。


「随分と雨に当たっちまって」

「それは、お互いさまでしょう」


なんでもないことのように言うと、高山はにこりと微笑んだ。

「もう、お行きなさい。君の役目は終わりました。ここまで、ご苦労様でございました」

それは、有無を言わせない声の調子だった。

笑んではいるが、そこには温かなものも穏やかなものも無かった。


「先生」

「なんですか」

とっさに呼んでしまった言葉に、微かに苛立ったような声で返されて、五郎は何と言ったらいいのかわからずに押し黙った。


喉の奥がひりひりとした。なんですかと言った高山の声は固く、冷たいものであるように思えた。

続く言葉が見つけられずに、五郎は目を伏せる。

落とした視線の先、きちんと座っている高山の膝の上には、几帳面に揃えられた手があった。

垢と泥に汚れている高山の手は、五郎の、駕籠かきらしい大きな手と比べると、随分と細く弱々しい、老人のような手だった。


「おい、とっとと出ないか」

背中から、牢番の声が飛んだ。これ以上はいられないと、五郎は立ちあがる。

与助と共に、表へ出ようと駕籠に背を向けた。


「ご面倒をお掛け致しました」

そうして背を向けた途端に、高山から声がかかった。


慌てて振り向くと、高山は五郎たちに向け、狭い駕籠の中で身体を押し曲げて、深々と頭を下げていた。

これで終わりだと、丸まった背中が語っているように思えて、五郎はもう一度何か声をかけたいように思ったが、やはり何も思いつけずに、その場で深く頭を下げ返した。


牢番に追い立てられて、外へと出される。

外に押し出されるそのときに、五郎があきらめ悪く振り返って見た高山は、まだ五郎たちへ頭を下げたままでいた。


雨は、収まる気配なく勢いを増していく。

それまでの間ずっと黙ったままでいた与助は、牢屋小屋の軒の下で空を睨みつけながら、突然に言った。


「俺は、おめえは間違ってないと思うぜ」


「え?」

「逃がしてやりたいって。俺は間違ってないと思う」

五郎は、思いがけず言われたことに目を丸くして与助を見た。与助はといえば、どことなく居心地の悪そうな顔をしている。


「勿論、そんなことは本当には出来ないことだけどな」

五郎は、その言葉になんと返していいものか、思い悩んで黙ったままでいた。

「あの先生も、それがわかっておいでなんだろうよ」

軽い手つきで肩を叩かれて、どうやら慰められているのだとわかった。


そうだな、と答えれば、与助はほっとしたような顔をして見せた。

与助のそんな顔を見るのは、初めてだった。


与助の言っていることは、なんとなく的が外れているように五郎は思ったが、何故そう思うのかを、うまく説明出来ない気がして口をつぐんだ。

その代わりに、与助に誘われるまま酒を飲みに行った。どうせこの雨では、他に行くところなどないのだ。



止まない雨に、足を止められて更に一日。

ようやく雲が晴れた朝、宿を出た五郎が通りに向かうと、見覚えのある唐丸駕籠が通りの向こうにぽつねんと置いてあるのが見えた。


わずかに視線をずらすと、見覚えのある役人が傍らに立っている。金子と、玉木だった。

思わず近くに寄りそうになった足を無理に止めて見ていると、人足を二人連れた松本がやって来るのが見えた。


不思議な既視感を覚える光景に、それ以上足を進めることが出来ずに、五郎はすくんだようになって立ち止まる。


降り注ぐ陽の光が、通りの向こう側を明るく照らしている。

ふいに、空気を裂くような声が、凛と響いた。

その音は、通りを挟んだ五郎の元へも、まっすぐに届く。一筋の清流が宙を貫く様が、目に浮かぶような、耳に馴染み、頭に残っている声だった。


「担ぎ手の方ですか。どうも急なことで、ご面倒をお掛け致します。私は、名を高山と申します」


五郎は、ああ、と声をあげた。

どんな意味のある言葉か自分でもわからない。それでも口からは、ああ、とただ声が出た。その場でたたずんで天を仰ぐ。


仰ぎ見た空は高らかに晴れ渡り、つんざくような鳥の声がする。寒気の忍び寄る張り詰めた空気の中で、近くにある木からでも離れたのだろう、紅く色づいた葉は風に乗って、五郎の目の前でくるりと宙を返った。


枝を離れて飛んだ葉は、何処へともなく飛び去って行き、やがてどこかの地に落ちる。

地に降り積もる葉は、次の年の種を守る土になれるのだろうか。

ただ踏み荒らされ粉々のちりになって、消えていくのではないだろうか。


だとしても、乾ききって落ちて、人に踏まれ粉々になっても、本当にはこの世から消えることはない。

人の目では見えないようなちりになっても、風はそのちりをまたどこかへと運んで行く。

運ばれた先で、ちりはどこかの大地につもるだろう。


目には見えなくても。それは当たり前のことで、でもなんだか哀しいことのように五郎には思えた。

目の前で風に乗って飛んで行く葉の姿が、ひどく胸に刺さって感じられた。


ざあ、と風が勢いよく吹いた。

どこからともなくやって来た葉が、また五郎の前でひらりと宙を返り、そのままゆったりと地面に落ちて、草鞋のつま先に触れた。

気を合わせる人足たちの掛け声がする。

通りの向こうで、高山の乗った駕籠が動きだした。


去っていくそれを見送ろうと一歩踏み出した五郎に蹴りだされた落ち葉は、五郎の足の下でがさりと最後の音を立てて砕けた。




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― 新着の感想 ―
味わい深く読ませて頂きました! 最初は唐丸駕籠というモチーフに釣られただけなのですが、次第に、先生との問答で描き出される五郎の魅力、罪とは何かという哲学的な問い、先生を逃がしたいと思う人情……のめり込…
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