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駕籠かき  作者: 奥津雨龍
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奈落

五郎は、何も考えずにいたのだ。


考えずに、背に担いでいたのだ。


呆然としている五郎の頭上で人の声がする。


「そろそろ出立いたしますか」

「そうだな、もう先を急いだほうがいい」


いつの間にか、松本と金子も戻って来ていたらしい。

話し声がするまで、まるで気が付かないでいた。玉木も、すでに身支度を整えている。

松本たちにうながされて立ち上がったとき、五郎はふいに、足がすくむような心地がした。


すっと背筋を冷たいものが通り過ぎた。

これは、自分が今やっていることは、何かとんでもないこと、とんでもなく恐ろしいことなのではないか。


どうかしたかと、与助から訝しがられても、何をどう説明すればいいのかが思いつけないで、五郎は首を振って背中に張り付いて感じる、恐ろしい気のするものをひとまず見ないことにした。

駕籠を担いで、与助と気を合わせるために声を発する。


そのとき、急に笑い声が起きて、思わず振り向いた。


あっと思ったときには、もう振り向いてしまっていた。

駕籠を担ごうとしていた与助が、五郎が急に振り返ったことでたたらを踏む。

不満そうな与助の声に、咄嗟に返事をすることができなかった。


広場で、あの一座の子どもが、何かしら大人たちを笑わせたらしかった。

子どもは、大人たちを笑わせられて、誇らしげに顔を上気させている。


響いてくる笑い声が、

降りそそぐ陽射しが、

すぐそこにある。


その横を、罪人を乗せた唐丸駕籠は行き過ぎる。五郎が担ぐ唐丸駕籠だ。

その粗末に行き過ぎる列を、来た時と同様に誰も、注視はしなかった。

目にしてしまった陽だまりの中で、思い思いにくつろぐ名も知らぬ、通りすがりにすれ違っただけの人々の姿が、離れる前からもうたまらなく恋しかった。


ぽかりと陽の光の中に浮かぶその景色が、さながら浄土のもののように思えた。


「行くぞ」

こんな固い一声でその全てから遠ざかって行く。


誰にも見向きもされず。

誰にも知られず。

五郎がではない。五郎が担いでいる、この駕籠の中の男、高山が。


つい今しがたまで背に受けていた陽光の暖かさが、そのまま冷えて消えていく。

陽の光を遮る山の中に足を踏み入れて、下る坂道を進んで行く。


まるで奈楽か地獄への道行きのようではないか。


ぽっかりと口を開けているような道の向こう側が薄暗い。後にしてきた陽だまりと、あまりにもかけ離れて思えた。


気づかわしげな与助の視線を、見ない振りをして、五郎は黙々と足を進める。胸の内とは裏腹にでも身体は勝手に前へ前へと歩いていくのがいっそ不思議なほどだった。



下る山道はやはりきつい。

ふうふうと、担いだ高山と駕籠の重さに、五郎と与助は息を吐きながら歩く。


のろのろと進み、平坦なところへ出ると休み、またのろのろと進んだ。

樹々の隙間から見える空は白っぽく、雲が多く出ているようで、あまり具合のよくなさそうなものだった。

急いだほうがよさそうだと言って、松本たちは足を早めたがったが、そうはうまく進めない。彼らも疲れている様子だった。


幾度目かの休息といって立ち止まったその隙に、それまでの間何事か思い詰めた様子で考え深げに黙り込んでいた五郎は、何事か意を決したようにすると、駕籠のそばに身を屈めて小さな声で高山に話しかけた。


「先生は、お逃げになろうとは思わないんですかい」


それは、夜でもない、こんな道中で口にするには剣呑な言葉だったかもしれない。

いくらなんでも、松本ら役人に聞き咎められれば、五郎だってただではすまない。

それでも、今を逃したらいけないのだと、もうあとには間に合わないと、焦燥感が先に立って五郎の背中を押した。


口に出さずにはいられなかった。

聞いてどうなるものでもないかもしれなくても、聞かないわけにはいかなかった。

それどころか、聞いてその答えによっては、なんとしてでもどうにかしてやらないといけない。


そのためには、今このときを逃すわけにはいかないと、そんなことを五郎は強く思っていたのだ。


「なんですって?」


五郎の言葉に、高山の目がぎらりと、恐ろしいほどの光を持った。

高山の顔を見て、五郎はあっと小さな声をあげた。


曇天の空の下、放たれたのは親しみのある温かなものではなく、どうしようもなく熱だけが込められた鋭い眼差しだった。

その鋭さに、何か違ったことを言ったのかもしれないと、五郎は思ったが、思ってためらうよりも先に、口はもう次の言葉を吐きだしてしまっていた。


「先生を逃がすことだったら、俺にもできるかもしれない」


偽りなく、心底思って口をついて出た言葉だった。

高山は五郎の言葉を聞くと、これまでに見たことのないような表情を顔に浮かべた。


「あなた、何を言っているかわかっているのですか。え、わかっていないでしょう」


なんとか声をあらげないようにしようと抑えるうち、強い語調になっていった高山のそれはきっと、怒りと言い表していいものだった。


「そんなこと軽々しく口に出すもんじゃありませんよ」

高山のそのような顔を見るのは、昨日からのわずかな時の中ではあるが、初めてのことだ。

それでも何故かしら、五郎はさほど驚いた気持ちにはならなかった。

怒りと思しき感情を露わにした高山を前に、むしろ、ほっとしたような気さえした。


「でも先生。先生はこのまんまだと、何かとってもひどい目にお遭いになるんじゃありませんか」

早口の囁き声で、打ち明けるように告げた五郎の言葉に、高山は首を振ると言った。


「そんなことにはなりますまいよ。そもそも僕はね。僕は自分が罪になるようなことをしたとは露ほども思っていないのです。確かに、友人たちが言うように、僕の考えたことというものは、今の世では、考えたというただそれだけでも、罰せられることなのかもしれない。しかし、そうだとしても、僕は僕が間違っているとは思いません。僕の行いは、やっぱり罪なんかじゃありませんよ」


「だったら、なんでこんな風にして連れてかれるんですか」

「ですから、それは今の世が」


「今の世では、先生が罰せられなきゃならねえお人だからなんでしょう」


押し殺した声で言い募る五郎を、見開かれた目が、まじまじと見つめてくる。

「あなたは僕を科人だと。そうお思いなんですか」


「俺にはわかりません」

「わからない」


高山は神経質な笑い声をあげた。


笑い声が耳に入ったのだろう、与助と金子が振り返った。

若い金子は、目に不安そうな色を浮かべている。


五郎は慌てた。

高山の声が、一層ひどく冷たい色を帯びたように五郎は思った。

わからないと思うのなら口を開くなと、言われているように思った。


笑い声がひとしきり続いて、金子はどういうわけか興味を失ったように、駕籠へ背を向ける。

与助は、いつの間にか駕籠の中の高山ではなく、じっと五郎を見つめている。

五郎が困惑したように見つめ返しても、与助は何も言わず、常にない真剣さでただ五郎を見ている。


高山の笑い声がやむのを待って、五郎は「先生」と声をかけた。

高山は、くつくつと喉の奥を鳴らしている。まだ、笑っているらしい。


「わからないって。でもあなたは今はっきりと、僕を罰せられなくてはならないと、仰った。なら、よくおわかりではないのですか」


「俺は何も知りません。けど、俺の担ぐ荷はいつだって上等なもんじゃない。担いでる俺だって同んなじもんです。上等じゃないです。先生、なんで俺なんかに担がれてるんです」


言い募る五郎に、高山は押し黙った。

何を考えているのか、きゅと唇の引き結ばれた顔からは、推し量ることができなかった。


「俺は今まで、担ぐ荷のことなんて考えもしなかったんです。

その人がいた場所のことも運んで行く先のことなんて考えもしないでいたんだ。

先生、俺は今、先生を担いでいるみたいに、唐丸駕籠を運んだことが何度かある。

罪人だって言われました。

何をしたお人なのかは言われなかったから、どんな罪人なのかは知りません。

先生とは似ても似つかないようなひどい奴だったかもしれない。

でも、そうじゃなかったかもしれない。

その人らがどうなったのか、俺が運んだあとで、どうなったのか。

俺はこれまでそんなこと考えずにいた。

でも今は違うんです。

先生のことを、俺が取り返しのつかない恐ろしいところに運んでるんじゃないかって。

今になってそんなことを考えるようになったんです。

ああだから、これは、何て言ったらいいんだろうなあ」


それ以上、言葉が思いつけずに、五郎は口ごもる。


話したいことは、胸の中にはっきりとある。

訴えたいこと、伝えたいことはあるのに、うまく言葉に言い表せずに口ごもるしかない自分が、悔しいような、情けないような気持ちだった。


五郎の目の中には、今の今、山の上の広場で見た光景が広がっている。


その場所を後にするときに、山頂の陽だまりを背にして見おろした、影を落とす樹々の下を薄暗く続いて行く坂道の先。


その先が、五郎には見えなかった。

奈落の底、地の底に続く道のようだった。

こんな道を、この人に行かせるのかと思ったらやりきれなかった。


「何も恐ろしいことなんてありやしませんよ」

「本当ですか」


高山の声に引き戻されるようにして、五郎は彼の顔を見た。けれど、高山は顔をうつむかせていた。


うつむいた顔は影になり、塗り込められたように黒い色をしていて、そこだけ抜け落ちて顔がなくなってしまったかのようだった。

五郎はぎょっとして息を飲んだ。


「あなたは、見ず知らずの他人を運んだに過ぎない。雇われて荷を担ぐ、ただの人足だ。そうでしょう」

黒く塗り込められてなくなった顔の中で、口があったはずのところから声が聞こえている。


「何をわざわざ考えることがあるというのです」


五郎は飲んだ息の吐き出し方がわからなくなってしまったように思った。

止めた息がせり上がって、胸を身体の内から叩いている。耐えかねた息苦しさに、ようやく息を吐き出した。

心臓が、いや心臓ばかりでなく、身体中の臓腑が、どくどくと脈打っている。とても悲しい気持ちになった。


「先生」

顔のなくなった高山をじっと見つめたまま、五郎は言った。


「先生。俺は今まで何も考えないでただただ生きてきました。

俺には難しいことを考えるなんてできっこないと思っていました。

でも先生は俺に、俺が考えたことを聞いてくれた。

俺みたいなもんの頭から出てきたことでも、先生は笑わずに聞いてくれた。

慣れないことを、先生に言われて、俺はへとへとになったけど、でも俺が何かを考えたり、思ったりしてもいいんだって、思わせてくれたんです。


それは、意味のないことだったんですか」



「僕にはわかりません」

聞いたことのないようなか細い声がして、それが高山の声だと納得をするのに、時間がいった。


「先生にもおわかりにならないことなんてあるんですか。」

五郎がようやく口にした言葉に、高山は妙なくぐもった声を上げた。

笑っているようにも聞こえたが、本当にはどうだったのか。


「あなたは僕を買い被っていらっしゃる。その癖、あなたは僕を罪人として扱おうとする。どちらも僕の本質じゃありません。おわかりにならないでしょうが」

「それは、やっぱり俺が物事を先生のようには考えられないもんだからですか」

「この話は、もうやめにしませんか」


うつむけていた頭がさっと上げられて、高山に顔が戻ってきた。

けれど、戻ってきた顔は、見知ったつもりになっていた、昨日までの高山の顔ではなかった。作り物めいた笑みを浮かべた、薄気味の悪い顔だった。


「ひどく疲れました」


知らぬ男の顔のようだと、五郎には思えてならなかった。

たかが昨日と今日、それだけの時間ではあるが、自分が知っていると思った男は、たったの今のこれだけで、どこか遠くへ行ってしまったのだと、五郎にはそんな風に思えた。


がっかりと、気落ちするような変に寂しい気持ちで、もしかするとまだそこら辺りにいる五郎の知っている先生に届きやしないだろうか、と。

もう大分離れたところを飛びすさっていく大きな鳥に目掛けて諦め悪く、届きはしないだろう縄を未練たらしく投げるようにして言葉を吐き出した。


「俺には、先生にどうしてあげるのがいいんだか、わからなかったんです」


高山は、五郎の言葉に何事か返事をしようとしたらしく口を開きかけて、けれど結局は何も言わないまま口を閉じた。それから随分と経ってから、


「あの、五郎さん」

と、五郎に呼びかけた。


五郎は、慌てて顔を上げた。

思えば、高山からはっきりと名前を呼ばれたのは、これが初めてだった。あんなに話しかけられていたのに、高山は五郎の名前を一切呼んではいなかったことに、五郎は名前を呼ばれてから気が付いた。


「ご自身のことを上等ではないなどとは、金輪際言わないでください。是非言わないでください。そんなことは、言っていいことだと、僕には思えません」


そう言ったきり、高山は黙ってしまった。


眠ったかのようだったが、そうではないのだと五郎にはわかった。

けれど、眠ってはいないことがわかるというだけで、何故黙ってしまったのかも、どうして眠らないでいるのかも、五郎にはわからない。


遠く及ぶことのできない深い暗い淵のようなものがあって、高山はいつでもその深淵の中にいる。


自分はたまたまそんな場所があることを、高山を通して知っただけで、そこが実際にはどんな場所なのかも知る由はなく、遠くからぼんやりと眺めている。

そんな風景がちらと頭の中に浮かんで、すぐ見えなくなった。


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