3.(終話) その人の側にいる
エヴァンは、衣擦れの音に目を開いた。そして、静かに起き上がると、その音の先を追う。
「寒くないのか? ガウンを取ってこようか」
そう言いながら、庭を見下ろす彼女を背後から抱きしめた。シャツ一枚しか着ていない彼女が寒くないように。
「お前の方が寒そうだ。何か着たらいいのに」
「私のシャツを取ったのは?」
彼女はクスクスと笑う。その声も何もかも、全てが愛おしかった。
窓辺から動こうとしない彼女に、「こんな庭を見ても楽しくないだろう?」と聞いたら「懐かしい感じがするんだ。この家のものは全て」という答えが返ってきた。
この家の人手は足りていない。とても庭を季節の花々で飾ることなどは出来ないので、大雑把に雑草を取り除いただけの殺風景な庭だ。
だが、彼女を惹きつけられるなら、庭の手入れなどいくらでもさぼろうとエヴァンは思った。
エヴァンは彼女を抱きしめながら、その首筋に顔を埋めた。
「本当に、お前の髪はサラサラで羨ましい」
カリーナに髪を触られ、撫でられる。この髪の感触がお気に入りらしい。昨晩も何度も触られたことを思い出してしまった。ずっとこうしていたいほど気持ちがいい。
彼女の肩を抱きしめていた腕を右手だけ解いて、その手で彼女の体を堪能する。彼女のこの肌の弾力や手触りの方がよほど素晴らしくて、本当に手離し難い。
「んっ……。こら、エヴァン……そろそろ帰らないと……」
もう少しだけこうしていたかった。
頬で彼女の髪の感触を確認する。彼女の髪は確かに自分のものより張りがあるが、滑らかで心地がいい。それに、花の香りがする。
「まだもう少し時間があるだろう?」
「私は帰って、風呂に入らないと……」
「湯なら沸かそう。私が、後で……。ここから行けばいい……」
カリーナはエヴァンの不埒な手を掻い潜り彼に向き直ると、首に手を回してきた。その目元は赤く染まっている。その色香にめまいがする。
「遅刻させたらただではおかんぞ」
彼女の期待に満ちた声に、「了解した」と答える。
また彼女の全てを堪能することができる嬉しさに、声も弾む。エヴァンは、再び彼女に深く口づけた。
彼女とそんな関係になって、執事夫妻にもしっかり知られてしまって。
彼女を家に迎えるのは気恥ずかしくもあり、でも相変わらず楽で、そして幸せだった。彼女をこの腕の中に抱きしめられる、その瞬間が。
そのような日々を過ごしていたある日、彼女の第三軍に出征の命令が出たことを知った。
その日も家にやってきた彼女から、「戦に出るから、しばらく来られない」と言われた時、エヴァンは何とも言えない感情に困惑した。
彼女のそつのなさは知っている。どれだけ周到に準備をするのかも。そして、どれだけ技術に優れた武人であるのかも。
行かせたくなくて、でも、止められるわけもなく、いつもよりもしつこく彼女の唇を味わう。
せめて、監査官としてまた着いて行きたいところだが、癒着防止のため、同じ組織に同じ人物が何度も監察官として同行する事はない。
彼にはただ見送る事しかできなかった。
エヴァンは彼女が戦地にいる間も日常の業務をこなしていた。
彼は朝の鍛錬の他は主に書類仕事を押し付けられて過ごすのだが、仕事が忙しい方が気がまぎれるのだと、この時初めて知った。
その日も書類の山に埋もれていると、第三軍の帰還の報が届いた。
エヴァンは第三騎士団の副団長の無事を確認すると、彼女がまた彼の家にやってくるのを待った。
だが彼女は、なかなか顔を見せなかった。事後処理に手間取っているのだろうと思い待ち続けた。
会いに行きたかったが、伯爵邸に押しかけたりしたら迷惑かも知れないと思うと、訪ねて行くことは彼には出来なかった。
彼女は、第三軍が王都に帰ってから十日後にようやくエヴァンの家にやって来た。
そして、彼や執事たちを驚かせた。頭にも首にも腕にも、きっと服に隠れて見えないところにも、包帯を巻いていたからだ。
第三軍は地方反乱の鎮圧にあたっていた。
「相手が農民だったから、あちらになるべく怪我をさせないようにしていて。騎士たちの方が怪我人が多かったくらいだ」
それが笑い話かのように、彼女はあっけらかんとした様子だった。
自分が側にいれば、もっと守ってやれたのではないかとエヴァンは思い、何をとち狂った事を考えているのかと自分を笑った。
彼女にも防げず、彼女を大切にしている第三騎士団の面々にも出来なかった事が自分に出来ると思うのは、思い上がりだと分かっている。
だが……。
「エヴァン。心配するほどの傷ではない。しばらく激しい運動はするなと言われているけれど」
意味ありげな視線を向けながら、そう言う彼女に、彼は恐る恐る触れた。
そんな傷、心配するに決まっている。エヴァンは、彼女のお気に入りのソファに一緒に腰掛けると、いつもより優しく小さなキスを落としたのだった。
エヴァンは、第一騎士団の詰め所の中を、普段はあまり立ち寄らない、人事部門に向かって歩いていた。転属願いを提出するだめだった。
受け取った団員は、封筒の文字を見て驚いたようだった。それもそのはず。花形である第一騎士団から他の騎士団への転属願いは珍しい。その逆はよくあると聞くけれど。
その封書の中には、外に戦いに出たいとか、それらしい文章を書き連ねた便箋が入っている。それらは人事部門の長、そして副団長を経て団長へと渡される事になっている。
副団長はエヴァンを、実際にはライバル関係にあった父を、大層嫌っておいでだから、これはすんなりと受理されるだろう。
問題は第三騎士団側がエヴァンの転属願いを突っぱねることがあり得る、と言うことだ。
希望の転属先から許可が出なければ、結局はエヴァンは第一騎士団に居残る事になる。
事前に彼女に相談すべきかとも思った。でも、理由を聞かれても答えられるものではないし、何よりも直接断られるのが怖かった。
だから、必ず彼女の元に届くであろう文書を、彼は彼女に何も言わずに提出したのだった。
転属願いを提出した数日後、彼女が家へやって来て無言で手土産を執事に押し付けると、エヴァンを書斎に連れ込んだ。かなりの力で握られた腕が痛んだ。
彼女の元にそれが届いた事が分かりすぎるほど分かる。
「あれは本気か」
開口一番にそう言った彼女は、まだ彼の腕を離しはしなかった。
「冗談であんなものを書きはしない」
「……信じられない」
彼女は怒った顔で言った。
彼女は、近衛への配属もあり得る彼の出世の道を閉ざす事になるとか、各地を飛び回る生活を選ぶとは酔狂にも程があるとか、彼にとってはどうでもいい事を並べた。
もちろん、エヴァンは彼女のこういった反応は予想していた。だから、第三騎士団の詰め所で、実力を試されてもいいと彼女に言った。
文書を書いている時に、そういえば剣技や体術の腕前を彼女に示したことがないと気づいたのだ。
だが、それは見たことがあると彼女は言った。第一騎士団に用があって立ち寄った時に、たまたま見かけたのだという。
知らなかったエヴァンは驚いた。それこそ、彼女がそんな彼を見かけたその日に、彼をからかって話を持ち出しそうなものなのに。
「それに関しては問題がない。そもそも、第一騎士団は国の要の守護者だ。基本的に優秀な者から先に採用していきやがる」
それに、と彼女は続けた。エヴァンのような優秀な部下を、欲しがらない者はいない、と。
彼女に認められていたことを知って、エヴァンは天にも昇る心地だった。
本当はあなたを側で守りたいのだ。そう言いたかった。しかし、それは彼女を侮辱する事になるだろう。ただ守られるだけの存在には、決してなりたくはないだろうから。
「では、問題ないな。それを受理して第一騎士団へ返送してくれればいい」
「……分かっている。そんなこと」
彼女はお気に入りのクッションを抱きしめたまましばらく下を向いていた。
「他に問題があるのなら言ってくれ」
「……無い。受理できない理由は」
エヴァンは笑顔を浮かべていたと思う。もともと表情が表に出づらいたちだが、この時は本当に嬉しかったから。彼女と共に戦える日が近づいてきていたのだから。
「心配するな、エヴァン。私情は挟まずに判断する。エドや、他のみんなもこの話を喜んでいた。お前を気に入っていたから」
「では……」
「明日には返送しよう」
彼女はそう言って、小さく笑った。
ほっとしたエヴァンはお茶でも淹れようと、立ち上がった。だが。
「ひどい男だ、お前は」
彼女がつぶやいた言葉を聞いて立ち止まり、彼女の目の前で屈み込んだ。彼女と目を合わせるために。
「……それはどういう……むっ……」
彼は強引に首を引き寄せられ、口を塞がれた。唇を割り込んでくる甘い彼女を彼は受け入れ、その動きに応える。
ソファに引き倒されて上に乗られ、さらに深く口づけられると、先ほどの会話など忘れてしまうほどの快感に支配される。
彼は彼女のことしか考えられなかった。もうすぐ、もっと近くに行ける。そう信じて。
✳︎ ✳︎ ✳︎
エヴァンは、愛しい女を腕の中に閉じ込めて、先ほどまでの快楽の余韻に浸っていた。
彼は遅くとも来週には手に入るであろう転属命令書を、誰よりも早く今腕の中で眠っている彼女に見せようと決めていた。
彼は微睡の中、目を閉じている彼女の額に唇を落とすと、そのままゆっくりと、心地のいい眠りに落ちていった。
だから気づかなかった。彼女が起きていることに。
困ったように眉を寄せた彼女が、彼の深い金色の髪を、ゆっくりと、味わうように撫でたことを彼が知ることはなかった。
了
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
頭も顔も良いのに、残念な子設定のエヴァンはここで出来上がりましたねぇ……。
続き?は完結済みの本編で……!