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2.その人に恋をする



 エヴァンは第一騎士団の詰め所にいた。今回の任務の報告書を持って来たのだ。


「あの女が戦ったのはたったの二日か。しかも敵将を討ち取ったのは、ゲイド男爵とその兵らとは。まったく、せっかくの第三軍が泣くな」


 第一騎士団長は、特に第三騎士団がお嫌いだ。そして、女だてらに騎士としてその副団長を務める人は、殊更嫌いらしかった。


 エヴァンは、ことの委細を全て報告書に書いた。

 彼女がいかに綿密な準備をしていたかも、何度前線に立ったかも、そして、どのように死者を弔ったかも。


 これはエヴァンも驚いたことだが、彼女は敵軍の死者の埋葬すらした。そして、なぜ話せるのか知らないが、蛮族の言葉で祈りを捧げた。

 ただし、この敵の埋葬に関しては、彼女が非難の対象となる事を憂慮して報告書には載せなかった。



「ご苦労だった。監察官には、報告書提出後、二日間の休暇が与えられるのが通例なのは知っているな? 今日も、もう帰っていいぞ。三日後にまた顔を出すように。報告書の精査も終わっているだろうからな」


 エヴァンは第一騎士団長がさりげなく鼻を押さえているのに気づいていた。王都に戻ってすぐにここへ来たので、エヴァンは清潔とは言い難い格好をしている。

 思惑通り、二日と半日の休暇の確保に成功したエヴァンだった。



 半日を、たっぷりの湯と花の香りの石鹸を使った風呂と、久しぶりのまともな食事に費やしたエヴァンは、その日は早くに眠りにつき、翌日は久しぶりに書斎で読書に勤しんでいた。はずだった。


 しかし、どうにも戦場の気分が抜けきらず、本に集中出来ないでいた。何冊も手に取ってめくっては、また棚に戻す。

 そんな時、第三騎士団のエドが彼を訪ねて来たと、執事が知らせて来た。


 報告書の写しの催促だろうか。しかしそれは第一騎士団で報告書が精査されたのちに作成するので、まだ何日かかかる。

 そんな事を考えながら、シャツの上に上着を羽織り玄関に行くと、ずいぶん砕けた格好のエドが彼を見てにかっと笑った。




「こんな店に来たことあるか?」


 エヴァンは首を横に振った。酒場自体には足を運んだことがあるが、このような猥雑な雰囲気ではなかった。

 そもそも、任務で下町の見廻りをする時以外、この辺りに来ることもない。


「あ、あそこだよ。お前を呼び出した方は」


 指差された先に、その人はいた。平民のような格好をしているが、それは間違いなく第三騎士団の副団長だった。


「呼び出してすまなかったな。でも休暇中だからいいかと思って。何か用事があったか?」

「いえ。特に何も」


 そう言ったエヴァンの元に、ドンっと大きな音を立てて酒が置かれた。

 音も大きかったが、木で出来た器も大きくて、思わず目を見開いた。


 彼女の前に座るエヴァンの周囲は、と言うよりは彼女の周りには、もちろん第三騎士団や歩兵部隊の面々が集まっていて、彼女の元へは容易に近づけないようになっている。給仕は別として。


 流石にそうでもしないと危険だろう。彼女は伯爵家の当主だ。本来ならば、こんな所に居て良い人ではない。


 エヴァンは後ろを振り返って、昼間から酒を浴びている町人たちを見やった。彼らは、下町の騒々しい酒場に、まさか貴族が混ざっているとは思いもよらないだろう。

 と思っていたら、たまたま近くを通った酔客も知っていた。気軽に挨拶をする仲らしい。

 貴婦人とは何だっただろうか。


「で、ヘクター殿は、何で暇つぶしをしていたんだ?」


 急に呼び出すから何かあったのかと考えを巡らせていたのだが、彼女は特に興味も無さそうにそう聞いてきた。なぜ自分が呼び出されたのか、まだよく分からない。彼女と再び会えた事は純粋に嬉しかったが。


「読書をしようとしていましたが、どうにも集中が出来ずにいた所でした」


 エヴァンのその言葉に、彼女は顔を上げた。

 先ほどまで彼女はテーブルに散らばったナッツの殻を、なぜか十個づつまとめて等間隔に並べていた。


「読書とは、どのような? そなたは自邸に住んでいるのだったな。蔵書があるのか?」


「何でもです。興味のあるものは片端から。蔵書は沢山ありますよ。文官をしている兄が本の虫でして。

 その兄は今は所帯を持って別に屋敷を構えていますが、以前は彼が使っていた家ですので、その名残りで」


「本は好きだ。一度、その蔵書を見てみたいな」

 彼女は、エヴァンにねだるように微笑した。


 化粧気はなくても、平民のような簡素な服を着ていても、髪も雑に結われただけだったとしても、誰が彼女のその微笑みに否と言えるだろうか。


 かくして、女伯爵閣下の自邸への訪問が決まった。




 彼の自邸は、もともと留守番をしていた、それぞれ執事と家政婦長である老夫婦と、稀に通いの家政婦が来るくらいのものだった。

 特になんの変哲もない、貴族の屋敷と言えるかどうかという、小さな一軒家である。


 だが翌日、手土産を持ってやって来た彼女は、そんなこじんまりとした家を気に入ったようだった。


「まさか、お一人で来られたのですか?」


 玄関で彼女を出迎えたエヴァンと執事と家政婦長は目を丸くして、乗馬服姿の彼女を出迎えることになった。


 前日にこの訪問を知らされた執事夫妻は、「伯爵閣下のご訪問を、本邸ではなく、なぜこちらで!?」と慌てていたが、その彼女の気の抜けた様子を目にして気が楽になったようだった。


「さすがに一人着いて来ていたさ。門のところで帰したけれど。あ、開いていたので勝手に入らせてもらった。馬は、そなたの馬が見えたから、その隣に繋がせてもらった」


「門はいつも開けたままですので構いませんが、馬を繋ぐくらいは私がしましたよ。呼んでくだされば。あ、ありがとうございます」


 エヴァンは彼女から手土産を受け取って、それを執事に託すと、興味深げに家の中を見回している彼女を書斎に案内した。


「……すごい……!」

 彼女は書架に張り付くと、そこから動かなくなってしまった。


 その辺りは帝国公用語の本です。その隣は諸外国の本で、翻訳はされていないもので。え、読めるんですか? それはすごいですね。


 初めはそんなふうに言葉をかけながら彼女の後についていたエヴァンだったが、彼女が本に夢中になって立ったまま読み始め、話しかけても返答が無くなったので、それはやめた。


 彼女は完全に兄と同じ人種だ。エヴァンはそういう人間への対処方法を熟知していた。放っておけばいい。

 楽でよかった。


 エヴァンは、お茶の用意だけをさせると、執事に「二人ともいつもの仕事に戻っていい」と伝えた。

 おもてなしをしようと意気込んでいた二人には悪いが、彼らもこの家でしばらく兄の面倒を見ていたから、彼女の様子を見て全てを察してくれた。


 楽でいいが、気負って損をした。

 エヴァンは自分で二人分のお茶を入れ、一人でそのふくよかな香りと味を楽しんだ。



 それからというもの、彼女は三日と明けずにやって来ては、夕食は適当に済ませたと言いながら書斎に直行し、すごい速さで蔵書を読み耽り、夜がふけると帰って行くようになった。


 彼女はいつも始めは立ったまま本を読んでいる。そして、いつの間にか床に座りこんで胡座をかき、本を読み耽っている。いくら絨毯が敷いてあっても体に負担がかかるだろう。

 それに、そのような格好で読書とは貴婦人としていかがなものか、と思ったエヴァンは、座り心地のいいソファセットの位置をずらし、床よりもそちらに座る方が早い、という環境を整えた。

 自分でも知らなかったが、割と世話焼きな気質を持っていたようだ。


 老夫婦からはいつも、せめてお夕飯くらいは差し上げたいと言われるが、彼女が好きに過ごせるように、と返すしかなかった。

 エヴァンに言われても、あれはもうどうしようもない。



 彼女は毎回、高価な菓子やワインを携えて来た。だからと言って、自分で口にすることはないのだから、二人の「何もお出ししないのは……」という戸惑いも理解できる。

 エヴァンは特にたくさん酒を呑むわけでもないため、この家のワイン貯蔵庫には在庫が溜まって行く一方だった。



 さて、そんな彼女がソファで読書に勤しんでいる間、エヴァンが何をしているかというと、同じソファセットに腰掛けて本を読むか、彼女を完全に放置して別室で仕事をするか、ゆっくりと風呂に入るか……。


 彼女は書斎から出て歩き回ることも、何かを要求してくることもほとんど無いため、その存在はすぐにこの家に溶け込んでしまい、エヴァンは以前とほとんど変わらない時間を過ごすようになっていた。


 翌日にも仕事がある日がほとんどだから、彼女が他人のペースを乱す人種でなくて本当に良かったと彼は思う。

 迷惑な人種だったら、伯爵だろうとなんだろうと出入り禁止にしなければならない所だったからだ。


 もちろん、執事夫妻にもいつも通りにして良いと言ってある。

 しかし、二人は兄の面倒を見ていた時を思い出すのか、時折りお茶や簡単につまめるものを差し入れたりしている。



 たが、いくら慣れたとはいえ、彼女を迎える時は、いつもおかしな気分だった。好ましく思っている相手が自分の家にいるのに、互いに違う時間を過ごしているというのは。

 しかし、それは仕方がない。彼女が興味があるのはあくまでもこの家の蔵書である。

 彼は、来ないかもしない彼女の訪れを待つ時はいつも、彼女のお気に入りの場所を見つめていた。

 



「今日も世話になったな」

「いや、別に」

 彼はその日も本当に出迎えと見送りくらいしかしていなかった。


 この数週間で、エヴァンの態度もすっかり砕けたものになっていた。

 彼女から、自分はお前の上司ではないんだから気を張った喋り方はしなくていい、と言われたのはいつだっただろうか。

 呼び方も、名前を呼べ、とのお達しだ。副団長殿などと呼ばれては気が休まらないと。


 エヴァンは帰り際の彼女に、なんなら蔵書の貸し出しをすることも可能だが、と話を切り出した。

 ここから彼女の屋敷までは近いとは言い難いし、毎晩帰る頃になると門の前で待機しているフォイラー伯爵家の家人も気の毒だ。

 エヴァンがそう言うと、彼女は「迷惑だっただろうか」と、眉根を寄せて言った。


「先ほども言った通り、こちらは別に。しかし、そちらが大変だろうから」

「この家は何か落ち着くんだ。懐かしい感じがして」


 エヴァンは心の中で首を傾げた。辺境伯家のご令嬢がこんな小さな家に郷愁を感じるというのは、どういうことだろうか。小さな別荘でもお持ちなのかも知れない。


 何にしても、彼女がここが気に入ったと言うのなら、別に拒むつもりも無かった。その言葉を聞いた彼女は、あの微笑みをエヴァンに向けた。




 その日もまた、彼女は何の前触れもなくやって来た。


「執事たちは?」

 静まり返る家の中を見回しながら言う彼女に、二人は今日から四日ほど、孫の顔を見に近くの街に行っていると教える。


「その間はどうするんだ? 食事とか、洗濯とか」

「身の回りのことはほとんど出来るし、食事は適当に食べてくるか、まあ、あなたが来るかもしれないから、ほとんど持ち帰ることになるが、そんなに困ることはない。たった四日だしな」


 「へぇ」と彼女は特に興味も無さそうに言った。



 その日も、彼女は書斎のソファの一画を陣取って、静かに本を読んでいた。

 いつもの光景なので、彼女は放っておいて、エヴァンは別室で仕事をしていた。これは、さすがに他の騎士団の人間に見せるわけにはいかない。


 それが済むと、湯を沸かして風呂の桶に溜める。この辺りは水道が整備されているから水はいくらでも出てくるのだが、戦場でもないのに水浴びで済ませるのは嫌なので、湯を沸かす。いつもはやってもらっているのだから、たまには自分でやるのもいいだろう。


 執事夫妻もまだまだ元気だが老齢に差し掛かっている。別に若い使用人を雇うか、本邸から人を寄越してもらうか……。

 そんなことを考えながら湯を浴びて、書斎の様子を確認しに行くと、エヴァンの足音に気づいたらしいカリーナがこちらを見上げた。

 読書の最中に出入りしても、まず気づかれることはないのに、めずらしいことだった。


「風呂に入っていたのか」

「ああ。何か飲もうと思うが……。一区切りついたのなら、一緒に飲むか? あなたが持ってきたワインがまだ沢山あるんだ」

「……いただこう」


 エヴァンは手早くワインとグラスと、切ればいいだけのつまみを用意した。

 カリーナはいつの間にか書斎から出てきていた。

 エヴァンがキッチンから顔を出し、窓辺にある、書斎にあるものより大きい三人掛けのソファを指差すと、カリーナはそこの端の方にちょこんと座った。

 そして、何やら懐かしそうにダイニングテーブルやら、壁にかけた絵やらを眺めている。


 その様子が、少しこそばゆい感じがして、エヴァンは落ち着かなかった。そういえば、彼女と完全に二人きりになったのは初めてだった事を思い出す。

 意識すると緊張するもので、少しだけ音を鳴らしてしまったが、無事にグラスを二つ置き、皿を並べ、ワインの栓を抜くことが出来た。

 先に彼女のグラスを満たし、次いで自分のグラスにも注いだ。


「手慣れているな」

「そうか?」


 彼女の隣に腰掛けて、自分のグラスを傾ける。

 知識として、良いワインだということは分かるのだが、もともと酒はそれほど好まないので、その味の良し悪しはまだよく分からない。


 彼女に正直にそう言うと、「実は、私もそうなんだ」と言って彼女はニヤリと笑った。


「手土産を持って行けと言われるから、用意されていた物を手渡していただけなんだ。ワインなら、お相手と一緒に飲めるから無難だろうと」


 二人でちびちびとワインを飲むが、互いのグラスのワインが一向に減らないのが面白い。


「エヴァン、殿?」


 彼女に急に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。ずっと、そなたとか、お前としか呼ばれていなかったので変な感じがする。


「殿、はいりませんよ。あなたの方が年齢も身分も上ですから」


「では、エヴァン。お前、言葉が戻っているぞ」


 ああ、うっかりした。

 だが、格上の相手には丁寧な言葉を使うのが普通なのだ。彼女の希望を叶えて、彼も慣れないながら頑張っている。


「そんなことより、クッションが柔らかいぞ、こちらの方が。あっちから持ってきてくれ」 

 書斎のお気に入りのクッションを取ってこいと言われたが、遠慮はいらないと言われているのでエヴァンはもちろん断った。


「ご自分でどうぞ。面倒だ」

「私も面倒だから、エヴァンに言っているんだ」


 ふいに名前を呼ばれて、また心臓がおかしな動きをした。

 彼女はあの不思議な色合いの瞳でエヴァンを見ている。怒ったような、縋るような目で……。


 ああ、私はこの(ひと)が本当に欲しいのだ。

 急にそんな事が頭に浮かんだ彼は、思わず彼女の腰を掴んで引き寄せて、自分の体にもたれ掛けさせた。


「では、こうしていては? このクッションよりは硬い」

「……たしかに……」


 彼女は、エヴァンの胸板にもたれかかり、それを撫でた。

 そのささやかな刺激にエヴァンの身体は反応してしまう。心臓が跳ね、わずかに身じろぎする。

 すると、彼女は体を起こしてしまった。眉根を寄せて、困ったように言う。


「これはセクハラになっていないよな?」

「せくはら? どこの言葉だ? 意味が分からない」

「立場が上の者が、断れない者に、性的な接触を無理強いする事、かな」


 エヴァンは、内心首を傾げる。明らかに彼女を引き寄せたのは彼の方だったのだから。


「……どうしてそうなる? 私からこうしているのに」


 エヴァンは少しだけ遠ざかってしまった彼女の体を再び引き寄せ、そのくびれた腰に手を這わせた。

 彼女は困ったように微笑すると、再び彼の胸に手を這わせた。今度はもっと明確な意図を感じる触り方で。


「エヴァン」


 彼を呼ぶその声は甘かった。彼女の肉感的な唇が、彼の唇まで後わずかというところで止まった。

 その、宝石を散りばめたような瞳が揺れるのを見たら、もうだめだった。


 エヴァンは、彼女の唇を、噛み付くように塞いだ。



つづく……

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